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IJN88 〜八八艦隊の栄光〜  作者: 扶桑かつみ
16/23

フェイズ14:「絶対国防圏」

 少し時間を遡るが、1943年11月は日本にとって衝撃的な事件が起きた。

 北アフリカのカサブランカにて、ルーズベルト大統領、チャーチル首相、そしてフランスからド・ゴール将軍が会した。

 

 ド・ゴール将軍は、役職名の通り本来は一介の前線指揮官か精々が大臣程度だったが、戦争中に有名となり自由フランスの代表となっていた。

 本来ならイギリスは、東アジアの問題も討議するという建前で、アメリカへの牽制用として中華民国の蒋介石を呼びたかったと言われている。

 だが、いまだソ連邦以外の連合軍と隔絶されたままの中華民国から、会議のために出て来るのは危険が多いとして蒋介石の会議参加は断念されていた。

 

 しかしこの会議では、ヨーロッパの事について話し合われた後、日本の方針についての発表が行われた。

 公式声明や文書によるものでは無かったが、日本から全ての植民地を返還させることなどが決められた。

 そしてこの会談の最後で、ルーズベルト大統領が誰も予期しなかった発言を実施した。

 この発言こそが、「無条件降伏」だった。

 

 何に対する、どの組織の「無条件降伏」なのかまではこの時明言されなかったが、日本のみならずドイツ、イタリアなど全ての枢軸国にとって大きな衝撃となり、連合軍、特にアメリカに対する敵愾心を激しく燃やさせる事となる。

 

 連合国、少なくともアメリカは、枢軸国をまともな文明国どころか交戦国と認めないに等しい発言であり、また同時に相手の殲滅を宣言するような発言は文明国とは言えない発言でもあった。

 

 しかし、「自由と平和」のために必要だとルーズベルトは後に補足し、その後「無条件降伏」は連合軍の公式な方針とされていく事になる。

 

 なお、カサブランカで話された内容は「宣言」などとはされないため、正確には公式なものではない。

 明確には文書化もされていない。

 この点は、イギリスのチャーチル首相の政治的手腕の成果と言えるだろう。

 伝統も重んじるチャーチルは、「無条件降伏」に反対で懐疑的だったからだ。

 またアメリカ議会の一部も無条件降伏に反対する姿勢を見せ、アメリカ国内での指導力が盤石ではないルーズベルト政権は、アメリカ国内への政治的努力も強めなくてはならなかった。

 


 カサブランカ会議に代表されるように、1943年に入ってからは多くの日本人には信じられないように戦争は急転換していった。

 

 1942年12月6日にカルカッタが陥落したように、前線での日本軍の優勢は続いていた。

 ガンジス川河口部はヒマラヤ山脈の裾野まではほぼ日本軍の占領下となり、「解放された」カルカッタにはインド国民軍によるインド臨時政府が置かれた。

 イギリスのインド支配の象徴だったインド総督府からはユニオンジャックが引きずり降ろされ、今やインド臨時政府のものだった。

 当然ながら、イギリスからの独立宣言も実施された。

 

 対する連合軍は、1942年の秋に早くもマダガスカルまで反撃してきたが、それ以上積極的に進んでくる事はなかった。

 連合軍の最優先の目的が、本格的反攻ではなく海上交通路の再開だと分かった時には既に遅かったが、セイシェルから自主撤退するべきで無かったという意見が大勢を占めたほどだった。

 だが日本の国力や兵站能力(補給能力)から考えれば、セイシェルからの速やかな撤退は極めて合理的な戦略方針と言えた。

 実質的に最前線の殆ど担った日本海軍の中枢は、堀司令長官をはじめとして概ね限界を超えた場所での戦いを否定していた。

 

 だが補給路が開くと連合軍は続々と増強され、インドの連合軍の戦力が俄然増え始めた。

 航空戦力において顕著で、それまで順調だった日本側による航空撃滅戦は、1943年春ぐらいからは一転して日本側が防戦に追い込まれ、撃滅される側となっていった。

 しかし、セイシェルを放棄していなかったら、マダガスカル島との間で激しい航空消耗戦が行われ、補給のための海上での負担も大きくなり、日本軍はより消耗していたという研究が多い。

 

 同年6月頃になると、日本軍はインドでの地上戦でも不利となり、連合軍の強力な砲兵と戦車などの前に、もはや前進どころか防戦すら難しい有様だった。

 このため日本軍は、本来なら戦線縮小し、さらに引き下がれるときに下がるべきだった。

 だが逆に、さらに増援を送り込む事になる。

 最後の点は、皮肉にも補給線が維持されていた事が影響していた。

 

 一方で連合軍は、インド全土での争乱状態のため日本軍以外に多くの努力を割かざるを得ず、1943年秋になっても両者の対陣は続いていた。

 

 なお、インド東部の日本軍の数は、ビルマからの合流を含めて40万近くになっていたが、インド国民軍の数は名目上はそれよりも多かった。

 「インドに100万の兵有り」と日本が言ったのはこのためだ。

 そして連合軍、特にイギリスにとって、インドの民衆を完全に敵に回すことも難しいため激しい戦闘が行えず、攻めるに攻められないと言う状態が長らく続く事になる。

 何しろ主戦線は、ガンジス川流域の人口密集地帯だった。

 

 またインド洋方面は、日本軍としてはビルマ、ニコバル諸島、大スンダ列島を西の「絶対防衛線」と設定していた。

 インド本土は基本的に「外城」であり、出来る限り粘るが最終的には撤退する場所だと決められていた。

 インドで粘るという方針も、インドの大地が持つ豊富な食糧供給能力に頼る事が出来るからだった。

 この辺りの事情は、補給を軽視しがちな日本陸軍らしいと言えるだろう。

 


 そして日本軍が防衛的性質を強める大きな原因となったのが、連合軍というよりアメリカ海軍が仕掛けてくる潜水艦による通商破壊戦だった。

 アメリカ軍の潜水艦は、潜水艦魚雷の致命的欠陥と主戦線がアメリカから遠い為、開戦以来戦果は極めて限られていた。

 しかし、潜水艦用魚雷の改良とアメリカ海軍自身の大幅な戦力増強、拠点の強化などによって、状況を大きく改善していった。

 

 1943年春頃から、アメリカ軍潜水艦による日本軍船舶の被害は目に見えて増えた。

 だが一方では、日本海軍が開戦以来地道に作り上げた「航路帯戦法」による東シナ海、南シナ海を中心とする巨大な防衛網も効果的に機能するようになり、アメリカ軍潜水艦は日本の主要海上交通路に入りたければ、必ず大きな犠牲を覚悟しなければならなかった。

 インド洋のベンガル湾方面ですら、連合軍潜水艦にとっては危険地帯だった。

 実際、多くのアメリカ軍潜水艦が、日本海軍が設置した各所の機雷堰で消息を絶っている。

 東シナ海、南シナ海を出入りする連合軍潜水艦の損耗率は、最大で50%に登るほどだった。

 日本軍艦艇の対潜水艦能力も徐々にだが向上しており、1944年の半ば以後になると航空機の中に潜水していても正確に追跡、攻撃するものまで現れるようになる(※戦後になってから、磁気探知装置(MAD)を開発、装備していたと判明した)。

 

 それでもアメリカ軍潜水艦と、前線近くでのアメリカ軍の戦術爆撃機による日本艦船への攻撃は急激に増加した。

 損害にたまりかねた日本軍は、急ぎ所定の目的通りに戦線の縮小と固守(守勢防御)の姿勢を強めていく事になる。

 


 インド方面以外の状況だが、東南アジア南部のティモール方面では、オーストラリアの連合軍との間に小規模な航空撃滅戦が続いていた。

 だが、日本軍が防戦に徹している事もあって、連合軍の優位と言えば優位だが、だからといってそれ以上ではなかった。

 連合軍では洋上からの強襲上陸も一度ならずとも考えられたが、制空権、制海権の得られない場所に対する侵攻が行われることはなかった。

 

 また、日本軍が手を付けていないニューギニア島の沿岸を地道に進み、日本軍がニューギニア地域で唯一拠点化しているビアク島に対する航空撃滅戦が、1943年秋頃から開始されていた。

 

 ビアク島は戦争初期に日本軍が占領し、陣地、航空基地双方の要塞化を進めていた場所だった。

 しかも同時期(43年秋以後)には、師団規模の地上部隊と100機以上の日本軍部隊が駐留する大規模な拠点になっていたため、連合軍のそれ以上の前進は叶わなかったし、既に要塞化されていたビアク島の無力化もできなかった。

 島を占領したければ、大規模な攻略部隊と大艦隊が必要であり、連合軍にとって不利な水上艦隊による洋上決戦を意味したからだ。

 

 それ以外となると、どこも距離が開いている上にかなりの距離の海を渡らねば連合軍が進めない場所なので、連合軍が進むことが出来なかった。

 小規模なら撃退される可能性が高いし、大規模だと「八八艦隊」が出てきて粉砕される可能性が高いからだ。

 また、中部太平洋、西部太平洋の島々は、大軍を進ませ、そして駐留させるには小さな島しかなかった。

 巨大環礁が幾つもあるので海軍の拠点としては極めて有効なのだが、航空基地となると話しは全く別だった。

 珊瑚礁による狭くて平坦な土地も多いので、要塞化も難しかった。

 

 それを最初から分かっていた日本軍は、マリアナ諸島、パラオ諸島を軸に、ヤップ、ビアク、モルッカ、ティモールなどを結び太平洋方面の守りとしていたのだ。

 

 しかし連合軍は、物量が豊富になると小規模でも航空基地を多数設営しつつ漸進する方針を取り始める。

 制空権を少しずつ奪いながら前線を進め、主にニューギニアから東南アジア東部に進んでいこうというものだった。

 

 マーシャル諸島方面でも同じ作戦は考案されたが、上記した拠点化しにくいという理由と、艦砲射撃で簡単に破壊されるという理由によって見合わされた。

 

 アジア、太平洋方面の連合軍にとっては、大型艦艇が充実するまでは雌伏の時、我慢の時だった。

 

 しかし1944年6月10日以後、状況が激変する。

 


 ノルマンディー半島への上陸作戦、欧州総反抗の失敗によって、連合軍、というよりルーズベルト政権は政治的に追いつめられ、埋め合わせが出来るだけの勝利を求めるようになっていた。

 

 そして連合軍が急遽決めた最初の作戦が、セイロン島奪回だった。

 セイロン島を奪い返すことでインド洋東部の制海権を取り戻し、インド北東部に侵攻している日本軍の補給路を断ち、インド奪回の重要な第一歩を記すというのが作戦の主旨だった。

 

 政治的には、インドを奪い返すというスタンスを見せる事そのものが目的だった。

 

 連合軍の欧州での作戦失敗に一安心した日本としては、少しばかり意外な展開だった。

 

 しかも1944年に入る頃には、インド亜大陸の戦場は日本にとってすっかり重荷になっていた。

 地上戦こそ政治的理由で小康状態が続いていたが、航空撃滅戦が日本の航空部隊にとって破滅的な域に刻々と進んでいたからだ。

 インド北東部は陸軍、セイロンは海軍という戦域の違いはあったが、場所の違いは損害の違いとはならなかった。

 戦場で見かける機体の多くはアメリカ製で、本来いるべきイギリス空軍の姿は僅かな数でしか無かった。

 加えて、インド洋での連合軍の通商破壊戦が激しさを増しており、艦艇、船舶の違いなく大きな損害を出していた。

 インド洋沿岸では、空襲により壊滅した補給船団や、水雷戦隊同士の戦いでレーダー射撃で一方的に撃破されるという戦闘も一度や二度ではなかった。

 連合軍の爆撃機の大編隊によって、十分な筈の護衛を付けた輸送船団が壊滅する事件すら起きた。

 

 物量面で圧倒的優位に立った連合軍は、今までとは逆にインドを餌にして明らかに日本を締め上げていた。

 

 そして日本が疲れ切った時に開始された、アメリカの物量を用いたセイロン島奪回作戦は、まさに力押しの作戦だった。

 東アフリカ航路でインドに戦力を備蓄し、圧倒的物量で制空権を獲得した後に、インド南端から大規模な強襲上陸作戦を仕掛けるというものだった。

 日本側が、「八八艦隊」を含む艦隊の出撃する機会もない展開だった。

 

 日本を重視した戦争をしていれば、もっと早くに同種の作戦は行えただろうが、今までドイツ軍を重視しすぎていたので、この時にようやく作戦が行えることとなった。

 

 しかも連合軍の対日作戦は、これだけではなかった。

 

 セイロン作戦は、基本的に戦略面での補助的な作戦だった。

 より多くの日本軍を吸収して消耗させることを目的としていたが、本命は別の場所だった。

 

 目標はマリアナ諸島。

 

 太平洋に連合軍の全ての大型艦艇を集中して日本海軍に決戦を挑むと共に、日本本土を直接爆撃できるマリアナ諸島を奪取しようと言うのが戦略面作戦の骨子だった。

 

 作戦発動は1944年10月後半。

 

 本来なら、少なくともマリアナ諸島に対する侵攻作戦は、1945年に入ってから行われる予定だった。

 より多くの艦艇、可能ならば日本軍に対して25%以上有力な洋上戦力が整うまで待つというのが、本来の連合軍の戦略方針だったからだ。

 

 しかし欧州反抗の失敗という大きすぎる戦略的な環境の変化が、日本への反撃を大きく前倒しさせることになる。

 


 アメリカを中心とする連合軍は、1944年7月になると急に大西洋からパナマを経由してアメリカ西海岸やハワイに戦力を集中し始める。

 イギリスも「太平洋艦隊」を設立し、有力な水上艦艇を抽出してパナマ運河経由で太平洋に派遣した。

 

 対する日本軍は、インドでの圧力増大に対しては日本陸軍がいつの間にか「印度こそ決戦地」と決めて、主にインド北東部に大規模な増援部隊を送り込む準備を急ぎ進めた。

 日本陸軍としては、開戦以来インド以外で大きな役割を果たしたと日本国民から見られていなかったので、インドに固執せざるを得なかったのだ。

 セイロン島にも1個軍・3個師団の有力な兵力を配備し、主にコロンボ内陸部の山岳地帯での長期持久戦が計画され、そのための要塞陣地構築が進められていた。

 

 これに対して日本海軍は、マリアナ諸島防衛こそが日本本土防衛の絶対条件だとして、全海軍のマリアナ諸島集中の準備を、1943年半ば頃からほぼ事前の計画通り進めた。

 だからこそ、インド洋に日本海軍の大型艦艇の姿が無かったのだ。

 連合軍の戦略が正しいというよりも、日本海軍の都合で現れなかっただけなのだ。

 

 日本海軍の地上航空部隊である第一航空艦隊も、陸軍との協議の結果インド全体が陸軍の管轄となったので、1944年春頃からマリアナ諸島、ヤップ島、パラオ諸島、硫黄島、ビアク島に集中された。

 マリアナ諸島の各島には、43年秋頃にはそれぞれ旅団規模の重武装化された特別海軍陸戦隊を配備していた。

 設営隊(工兵隊)などは、開戦頃から各地の要塞化をひたすら進めていた。

 

 また、日本の内閣及び大本営(=総司令部)も、日本本土防衛のためにはマリアナ諸島は断固防衛されなければならないと陸軍を説き伏せ、1943年夏頃からは師団規模の陸軍部隊進出が進められた。

 規模はサイパン島に2個師団、グァム、テニアンに各1個師団の合わせて4個師団で、小さな島々に総数10万近い兵力が配備されていった。

 この戦力移動を連合軍も妨害したが、連合軍の本格的な妨害開始時期が日本軍の移動に対して遅すぎたため、かなりの船舶を仕留めるも増援物資や追加弾薬程度しか輸送を阻止できていなかった。

 

 また連合軍は、陽動として西部ニューギニア北方のビアク島への空襲を強化して攻略の準備すら進めた。

 だが日本海軍は、既にビアクが破られた場合の次の拠点を建設していた事もあり、要となるマリアナ諸島防衛を優先し、なによりも性急に動いている連合軍艦隊の動向に最大の関心を向けた。

 日本軍潜水艦が交代で張り付いているハワイは、西海岸や大西洋からひっきりなしに来る艦船のため何をしても警戒が疎かになるほどだった。

 


 かくして、急速にマリアナ決戦の気運が盛り上がり、両者の戦力がマリアナ諸島を目指して集中されていく事になる。

 

 なお、この時の艦隊編成は以下のようになる。

 


 ・日本海軍連合艦隊(1944年10月20日現在)

 ・第一機動艦隊(第一群)(拠点:瀬戸内海) (艦載機270機)

空母:《大鳳》《雲龍》

空母:《飛龍》《蒼龍》

戦艦:《金剛》《榛名》

軽巡洋艦:《大淀》 防空駆逐艦:3隻 駆逐艦:10隻


 ・第一機動艦隊(第二群) (艦載機180機)

空母 :《扶桑》《山城》 

軽空母:《飛翔》《日進》

戦艦 :《比叡》《霧島》

大型軽巡洋艦:《最上》

軽巡洋艦:《阿賀野》《那珂》 防空駆逐艦:2隻 駆逐艦:6隻


 ・第一機動艦隊(第三群) (艦載機180機)

軽空母 :《隼鷹》《飛鷹》《龍鳳》

軽空母 :《千歳》《千代田》

重巡洋艦:《那智》《足柄》

軽巡洋艦:《五十鈴》《長良》《多摩》 駆逐艦:8隻


・第一艦隊:(拠点:リンガ→ブルネイ→パラオ)

戦艦  :《大和》《武蔵》

戦艦  :《駿河》《常陸》《紀伊》《尾張》

戦艦  :《加賀》《土佐》《陸奥》《長門》

軽空母 :《祥鳳》《瑞鳳》 (艦載機50機)

重巡洋艦:《鳥海》《摩耶》《妙高》《羽黒》

軽巡洋艦:《能代》 駆逐艦:14隻


・第二艦隊:

戦艦  :《富士》《阿蘇》《石鎚》《大雪》

戦艦  :《天城》《赤城》《高雄》《愛宕》

大型軽巡洋艦:《熊野》《鈴谷》《利根》《筑摩》

軽巡洋艦:《矢矧》 駆逐艦:9隻


※戦艦《伊勢》《日向》、重巡洋艦《青葉》など一部艦艇による「南遣艦隊」が、インド洋方面の連合軍を警戒してインド・シンガポール方面で守備に就いている。

 空母《鳳翔》は健在だが練習空母化。

 


 戦艦に関しては、《大和型》の《武蔵》が増えて《扶桑》《山城》が航空母艦に改装された以外、かつてのパラオ沖海戦から大きな変化はなかった。

 同型艦の《信濃》《甲斐》が急ぎ艤装中だったが、この戦闘には全く間に合わなかった。

 

 空母は、新しく就役した大型空母は装甲空母の《大鳳》だけで、大型空母並の規模がある《扶桑》《山城》を除けば、全て他の艦船から改装した小型空母となる。

 しかし戦争での損失が少なかった母艦数は、大小合わせて15隻にもなった。

 全ての艦載機を合わせると700機近く、日本海軍最高記録となる規模を有していた。

 「空母こそ主力」と言われる所以もここにある。

 

 ただし、開戦以来の消耗と、インド洋での消耗戦で艦載機も地上配備で投入された経緯があるので消耗し、パイロットの練度はかつてとは比べるべくもなく低下していた。

 ただし、この頃の空母艦載機部隊は、全て日本国内の瀬戸内海で訓練に明け暮れていたので、世界標準以上の能力があると考えられる。

 実際でもその通りだった。

 

 なおパラオ沖海戦で大きく損傷した《扶桑》《山城》は、2年近くかけて戦艦から装甲空母へと大規模に改装された。

 

 基準排水量は3万4500トン程度から3万2500トンと若干減少したが、飛行甲板の主要部に75mm(+20mm)の装甲を施し、艦橋構造物も新鋭の《大鳳》とほぼ同じものとした近代的姿となっていた。

 空母にとって重要な機関も、老朽化もあったため結局全面換装して出力13万6000馬力になり、若干の軽量化もあって最高速力は28ノットに向上した。

 しかも機関の半分を完成度が高まったディーゼル機関とすることで、搭載燃料を含めて船体内の余剰空間を確保。

 既存の弾薬庫も利用して、搭載弾薬を他の母艦より多く搭載する仕様とされた。

 (※ただし大型のディーゼル機関の不調と故障は皆無ではなかった。また速力を出して転舵すると、船体がかなりきしんだと言われる。)

 格納庫は飛行甲板の装甲化と建造を急いだため単段式(一部二段式)とするも、天井を高めにとって内部空間を確保した上に半分を開放型として誘爆対策とした。

 形としては合衆国の空母に近いと言える。

 艦載機数は排水量の割に少なかったが、露天搭載を大幅に実施することで中型空母並の約60機を確保した。

 火砲も新型の10cm高角砲(砲架型)、対空ロケットランチャー(奮進弾)など最新のものが取り入れられ、多少寸同な姿ながら装いを完全に一新していた。

 船体以外で、かつての外見的特徴は皆無だった。

 このためアメリカ軍は、戦争中ずっと《扶桑》《山城》を《大鳳》の小型量産型の新造空母と誤認していた。

 

 また航空母艦では、高速水上機母艦の《千歳》《千代田》《日進》が空母化され、潜水母艦の《大鯨》が軽空母《龍鳳》に改装されるなど、非常な努力が行われている。

 護衛艦艇も対空装備の大幅な強化を実施し、旧式の《五十鈴》《長良》《多摩》《那珂》は装備を大きく変更して防空巡洋艦に改装されていた。

 日本海軍が、パラオ沖やインド洋で何を学んだかを雄弁に物語っていると言えるだろう。

 

 いっぽう、いまだ主力と考えられていた戦艦部隊の殆どは、戦争序盤からずっと基本的にシンガポール近辺を根城としていた。

 この作戦直前まで変化はなく、石油の豊富な場所での駐留と訓練、そして主にインド洋方面への度重なる出撃を行った。

 電探の装備、対空装備の強化のかなりも、シンガポールで実施した。

 今までの実戦経験も相まって、戦闘力は依然として世界最強だとアメリカ軍でも考えられていた。

 そして日本海軍は、連合軍がマリアナ諸島に侵攻するという前提のもとで艦隊を動かし、友軍制空権の下を戦艦部隊が突進し、一気に敵主力艦隊と上陸部隊を粉砕する積もりだった。

 状況によっては、空母の護衛部隊も突撃させる予定だったほどだ。

 

 対する連合軍は、おおよそ以下の主要艦艇が動員された。

 


 ・アメリカ太平洋艦隊:

 新型戦艦:(7隻)

《アイオワ》《ニュージャージ》

《アラバマ》《オレゴン》《デラウェア》《ジョージア》

《ヴァージニア》

 16インチ砲搭載戦艦:(5隻)

《サウスダコタ》《インディアナ》《マサチューセッツ》

《メリーランド》《コロラド》

 旧式戦艦:(3隻)

《カリフォルニア》《ネヴァダ》《ペンシルヴァニア》


 大型空母:(4隻)

《エンタープライズ》

《エセックス》《イントレピット》《フランクリン》

 軽空母:(4隻)

《インディペンデンス》《プリンストン》《ベロー・ウッド》《カウペンス》

 護衛空母:12隻(2個機動群分)


 ・イギリス太平洋艦隊:(4隻)

新型戦艦:《ライオン》《コンカラー》

16インチ砲搭載戦艦:《ロドネー》《アンソン》


 新型戦艦の《ミズーリ級》(沈んだ《アイオワ》の名を継承したため《アイオワ級》とも言う)は、基準排水量5万トンを越える大型戦艦で、十分以上の防御が施された最高速力31ノットを誇る新世代の高速戦艦だった。

 「八八艦隊」計画戦艦の、どのクラスの戦艦とも互角以上に戦える能力を与えられていた。

 ただし、パナマ運河を越えることを諦めたため、設計面での合理性は向上したが国家戦略上では失敗だったと言われることがある。

 しかも、世界最強の機関を搭載したように、高速戦艦としての能力を結局重視したため排水量の割には無駄が多く、多くの面で中途半端と評価されることも多い。

 また、就役から間がないため乗組員の訓練度合いにも若干の不安があった。

 

 《アラバマ級》は《ヴァージニア級》の改良型で艦艇としての完成度も高く、数の上でも艦隊主力として期待されていた。

 しかし排水量4万トン(4万3000トン)では、予備浮力や全体としての耐久性を完全に満足させるには至らなかった。

 

 どちらのクラスも、新開発の50口径16インチ砲を3連装3基9門を主装備としていた。

 一見、従来の《サウスダコタ級》より火力が落ちているが、主砲威力、発射速度、速力、電子装備、そして船体防御力の向上などにより総合的な戦闘力は大幅に向上していた。

 

 「ダニエルズ・プラン」に属する16インチ砲搭載戦艦の《サウスダコタ級》と《メリーランド級》は、どれも損傷修理と共に1年以上の徹底した近代改装を受けて新鋭戦艦と違わない外観を有していた。

 機関も全て換装して速力も向上(21ノットまたは23ノット→25ノット)しており、新鋭戦艦に準じた能力に高められていた。

 しかし、パナマ運河通過に固執した為、大規模なバルジの装着が見送られるなど、改装には今ひとつ徹底を欠いていた。

 

 《エセックス級》空母は、ようやく就役が始まったばかりの新型空母で、基準排水量2万7000トンを越える巨体と、最大で100機近い艦載機搭載能力が特徴だった。

 外観も日本海軍の同世代の空母よりも近代的で、合理的な姿をしていた。

 ただし、効率的な運用や被弾時の損害極限 (ダメージコントロール)を考え、通常は80機から90機程度の艦載機しか運用しなかった。

 

 軽空母の《インディペンデンス級》は、1万トンクラスの大型軽巡洋艦を建造半ばから急ぎ空母に改装したもので、巡洋艦に準じた高速発揮能力を有している優秀艦だった。

 しかし、巡洋艦用の馬力の大きな機関をそのまま搭載しているため艦内空間に余裕がなく、通常は33機の艦載機しか搭載できない。

 艦載機用の燃料や弾薬の搭載量も少なかった。

 しかし今回は航空戦力が不足するため、危険を承知で12機の急降下爆撃機を追加で搭載し、1艦当たり45機という大型空母の半分の艦載機を搭載し、弾薬も格納庫に一部を積載して戦場に臨んでいた。

 

 このため合計8隻の空母が搭載する艦載機数は540機となり、より多くの空母を保有する日本海軍に十分対向できる戦力となっていた。

 加えて、1艦当たり20機半ばの艦載機を搭載する護衛空母12隻が、船団護衛と上陸支援任務で投入されるため、連合軍の艦載機総数は日本軍を越える800機となる。

 

 いまだ戦艦が戦力の中心と言われる中で、日米両軍がこれほど空母艦載機を重視するのは、この戦争で示した空母艦載機の戦果故だった。

 時代は明らかに戦艦から空母、より正確には航空機へと移りつつあり、この戦いはそれを確かめるためのものだったとも言われている。

 もしくは、「制空権下での艦隊決戦」という点に、日本、アメリカ双方が固執した結果と言えるだろう。

 

 なおイギリス海軍は、新型の《ライオン級》戦艦を投じて日本海軍に対する復讐を狙っていたが、イギリス海軍全体で高速発揮可能な空母が酷く不足しているため、空母の太平洋派遣はなかった。

 これが艦隊育成の失敗となるか、妥当な判断だと結論されるかは、こちらもこの戦いの結果如何だと当時から言われていた。

 


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