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IJN88 〜八八艦隊の栄光〜  作者: 扶桑かつみ


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10/23

フェイズ07:「パラオ沖海戦(3)」

 戦闘は夜明けと共に一気にヒートアップした。

 

 日本第三艦隊と第一航空艦隊は、連係攻撃によりアメリカ第2任務部隊を短時間で敗北に追い込んだ。

 この戦闘の模様は、双方ともに友軍からの通信文で受け取り、自らの足を速めたりもした。

 

 さらに日本艦隊は、各所で追撃のための突進をいっそう強めた。

 

 日本艦隊は、本来は米艦隊を包囲するつもりだった。

 だが、夜間はどうしても偵察情報が不足するし、日本艦隊がアメリカ艦隊の速度を見誤っていた。

 アメリカ艦隊側は、日本艦隊の進行方向を後ろとばかり考えていたが、日本艦隊のうち第二、第三艦隊は北から覆い被さるように突進したため、日本の第二艦隊がアメリカ艦隊の中間を通り抜ける事態も発生した。

 

 結果として日本艦隊は、それぞれ別のアメリカ艦隊を完全に捉えて、そして上空に舞う様々な偵察機によって有利な位置へと移動しつつ追撃速度を速めた。

 

 もっとも、日本海軍最速にして最強を自負する日本第二艦隊が捉えたのは、アメリカの旧式戦艦を中核戦力とした第3任務部隊だった。

 

 本来日本海軍聯合艦隊司令部は、第一、第二艦隊でアメリカの第1任務部隊を包囲殲滅する予定を立てていた。

 だが、第二艦隊が進みすぎた事とアメリカ側の巡航速度が低かった事が、第二艦隊が別の艦隊を捕捉する結果になったのだ。

 そして第二艦隊は、黎明からの航空機による偵察情報で相手の陣容をある程度把握していたため、この艦隊を素早く撃破して「本来の敵」に向かおうと考えていた。

 何しろ30〜50海里先でノロノロと進んでいるからだ。

 


 この時アメリカ海軍第3任務部隊は、魚雷を受けて戦闘力が落ちていた戦艦 《カリフォルニア》と《ネヴァダ》に護衛の駆逐艦2隻を付けて、日本軍の追撃の可能性が最も低いと考えられた航路を取らせていた。

 残っている戦艦は、《テネシー》《ニューメキシコ》《ミシシッピ》《アイダホ》の4隻の戦艦と重巡洋艦3隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻だけで、この戦場で最も脆弱な艦隊となっていた。

 その艦隊を、日本海軍最強を謳われる日本第二艦隊が捕捉し、暁を前にして砲雷撃戦の準備を急ぎ進めていた。

 

 何しろ日米双方ともに、双方の高速艦隊からの接触報告が飛び交っていた。

 ただし、日本側は夜間偵察機でアメリカ艦隊を捕捉し続けていたのに対して、アメリカ側はいつどこから、どんな敵が出現するか分からなかった。

 

 そうした中で第3任務部隊に追いついてきたのが、日本の第二艦隊だった。

 

 ここでの戦いも両者ほぼ平行して移動しており、日本側が少しだけ後ろから追う側だったが、日本側の発見当初は両者の速度差は最大戦速で8ノットもの開きがあった。

 しかも日本艦隊の方が燃料に余裕があるので、捕捉してすぐにも艦隊最大速度で突進を開始して、急速に間合いを詰めつつあった。

 対してアメリカ側は、残燃料を見つつ戦闘しなければならないので、何時間も最大速度で進むわけにもいかなかった。

 つまり途中からは、ほとんど同航戦ということになる。

 

 このためアメリカ側は、空が白みはじめた時点で日本艦隊を見付けると、すぐにも水雷戦隊を両者の間に入れて煙幕を展開させ、戦艦部隊は進路を本来の進路だった南東から、取りあえず敵から逃げるために東に切った。

 

 会敵当初、第3任務部隊司令部では、全艦隊を挙げてまともな砲雷撃戦を挑まず、大きくジグザグに機動して相手を翻弄するという手段も考えられた。

 だが同時に、両者の速度差、戦力差、性能差から悪あがきに過ぎないと考えられた。

 しかしこの時点では、友軍(第1、第2任務部隊)による救援も十分可能と考えられたので、とにかく時間稼ぎをすることを心がける戦闘を行おうとした。

 

 まともに戦闘を挑まず一心に戦場からの離脱を図る相手に対して、艦隊速度限界で突進する日本第二艦隊は焦りと苛立ちを隠せなかった。

 しかし速度差、戦力差から自らの有利を確信しているため、大きな焦りは無かった。

 偵察機、観測機なども多数が張り付いているので、見失う可能性も無かった。

 目の前の艦隊は、必ず仕留められる「獲物」だと認識されていた。

 第二艦隊の焦りの多くは、早く目の前の敵を片づけて第1任務部隊に向けて転進したい事からきていた。

 このため射程距離に捉えてもすぐには発砲せず、偵察情報に従って距離を詰める事に専念した。

 この時第二艦隊の速度は、規定を無視して28ノットを超えていたと言われる。

 しかも水雷戦隊を先に進ませていたので、アメリカ艦隊とは10ノット以上の差をもって追撃を行っていた事になる。

 

 

 日本第二艦隊は、まずは1時間以上かけて艦隊の速力を増して互いの距離を詰めた。

 当然というべきか水雷戦隊が急速に接近し、煙幕を張りつつ後退するアメリカ側の水雷戦隊に接近を続けた。

 その後ろから突進する高速戦艦、巡洋艦群も着実に距離を詰めると、順次手近な艦艇から順番に砲火に包み込んでいった。

 

 そして友軍戦艦を逃がすため、日本側への牽制のため煙幕を展開しつつ決死の突撃を開始した第3任務部隊の水雷戦隊(第7水雷戦隊)だったが、まずはこの小さな艦隊に日本軍の砲火が集中することになる。

 戦艦の榴弾までが降ってくる事態は、彼らの想定には含まれずかなりの混乱も見られた。

 しかも撃ち竦められる水雷戦隊をアメリカ側が救援したければ、旧式戦艦は反転して凶悪な日本の高速戦艦群に砲撃戦を挑まなければならず、それは作戦上でも行うわけにはいかなかった。

 

 そしてアメリカ側の水雷戦隊は、日本側がある程度接近したところで相手進路を妨害するべく突撃を開始する。

 全ては戦艦を逃がすためだった。

 

 果敢に突撃を実施した旗艦の軽巡洋艦 《メンフィス》を始め6隻の駆逐艦だったが、アメリカ海軍の魚雷は日本海軍ほど射程距離が長くないため(※日本側の方が61cm魚雷と大型で射程距離もかなり長い。

 )、我慢強く突撃を続けるうちに次々に被弾していった。

 中には戦艦の至近弾で破壊された艦も出た。

 至近距離で花火のように炸裂する日本の大型対艦榴弾は、命中しなくても非常に危険だった。

 

 結局、雷撃に成功したのは僅かに駆逐艦が2隻だった。

 その2隻も離脱中に背中から砲撃を受けて被弾が相次ぎ、文字通り全滅することになる。

 生き残ったのは、被弾のため途中で離脱した駆逐艦2隻だけだった。

 だが、放たれた魚雷はそれなりに有効な牽制効果を発揮し、日本艦隊の一部に進路の強要を強いることになった。

 

 とはいえ、余りにも相対した戦力が違いすぎた。

 このため後世からは、アメリカ艦隊はひとかたまりになって後ろを見ないぐらいの気持ちで行動(逃走)すべきだったという意見が強い。

 

 その後日本艦隊は増速して短時間で距離を詰め、日が完全に上った午前8時13分、戦艦同士の相対距離距離2万5000メートルで全力での砲撃を開始した。

 この少し前に第3任務部隊の重巡洋艦が日本艦隊へジグザグの進路を描きつつ突撃を開始したが、それはアメリカ軍重巡洋艦の寿命を少し縮めただけだった。

 

 前を進む《富士型》戦艦がそれぞれ1隻のアメリカ軍戦艦に対して、相対距離約2万5000メートルから砲撃を行い始め、進撃中に《富士型》と横並びになっていた《天城型》巡洋戦艦が被弾を避けるためジグザグに突撃して急速に距離を詰めてくる3隻の重巡洋艦を距離2万メートルから1万5000メートル程度のアウトレンジから確実に撃破していった。

 いかに避けながらの突撃とはいえ限界があり、戦力差が大きすぎた。

 重巡洋艦は十分な装甲が施されていたが非装甲部分も多く、日本側は対艦榴弾でまずは無力化を図ってきた。

 このため重巡洋艦3隻は至近弾を中心に被弾が相次ぎ、戦力が大きく落ちたところを急接近していた日本側の重武装で知られた《妙高型》重巡洋艦4隻から中距離以下からの集中砲撃を受け、目的を達することが出来なかった。

 


 砲撃戦開始から約40分後に相対距離が2万メートル程度になると、《天城型》も戦艦隊列への砲撃を開始し、既に満身創痍だったアメリカ第3任務部隊の戦艦群に落ちる砲弾の数が約二倍となった。

 

 アメリカ側は、自らの基本戦術に従って日本側よりも少し早い距離3万ヤードから砲撃戦を開始したのだが、やはり多勢に無勢だった。

 そのうえ個艦性能でも圧倒的な差があった。

 この時のアメリカ側戦艦は全て14インチ砲を搭載していたが、日本側は全て16インチ砲搭載な上にうち4隻は《大和》を除いて最も重防御の高速戦艦だった。

 しかも日本側はこの頃の戦艦同士の通常砲戦距離と言われる距離2万メートルを切っても接近を止めず、主砲を徐々に水平に近づけつつ、砲身から水蒸気の白煙をあげつつ猛射を続けた。

 アメリカ側に有利な要素はどこにも見られなかった。

 

 それでも「幸運の一撃」があれば逆転もあったが、この時確率論は冷酷で、日米双方ともに特にラッキーもアンラッキーも見られなかった。

 

 《テネシー》《ニューメキシコ》《ミシシッピ》《アイダホ》の4隻の戦艦は、相手に最大で判定中破の損害を与えただけで、文字通り全滅することになる。

 しかも既に護衛艦艇の過半も撃破されていたため、砲撃で弱った所に水雷戦隊の接近と雷撃を為すがままに許した。

 艦の中には、乗員の生命を優先して浮上降伏をしたものまで出た。

 

 結果、途中で離脱した艦艇を除く、司令官ブラウン中将以下全ての将兵は生きて故国の土を踏むことは無かった。

 戦闘後に日本艦隊に救助された者もかなりに上っていたが、彼らは戦争期間中をずっと日本の捕虜として過ごさねばならなかった。

 

 だが、皮肉と言うべきか、前日の空襲で損傷して別行動を取っていた《カリフォルニア》《ネヴァダ》は、護衛の駆逐艦共々戦場からの離脱に成功している。

 故に第3任務部隊の犠牲は無駄ではなかったとアメリカ海軍及びアメリカ国内では評価されたが、この点については戦後の評価は二分されている。

 


 一方この頃、日本艦隊全体に少しずつ焦りが広まっていた。

 

 夜が明けてすぐの段階で第2任務部隊に壊滅的な打撃を与えたが、その代償として第三艦隊と第一航空艦隊が攻撃力を消耗していたからだ。

 第二艦隊は最も弱い敵に食いついてしまい、他に移動する事も出来なくなっていた。

 

 しかも第一航空艦隊からは、朝の出撃を行った後は弾薬が大きく不足することが報告されていた。

 前日も激しい戦闘を繰り広げた第一航空艦隊では、弾薬庫や艦の処理能力の限界から、高価な精密機器である航空魚雷の不足は深刻で、この日の最初の空襲を最後に魚雷が尽きてしまっていた。

 それだけ戦闘の規模が大規模すぎたのだ。

 他の爆弾も大型爆弾は既にほとんどなく、機体が何度でも出撃できたとしても、搭載する爆弾が不足した。

 補給艦などから補給する時間も無かった。

 当然、第二次攻撃隊以後の空母部隊による追撃は中途半端にならざるを得ず、補助戦力の少なさを航空戦力でも補おうという構想の崩壊が、戦闘終盤において顕著に見られるようになっていた。

 

 サイパン島の基地航空隊の陸攻部隊は、午前5時頃に魚雷を抱いて一斉に出撃したが、あまりにも距離があるため戦場に到着するのは午前9時を待たねばならなかった。

 しかも刻一刻とアメリカ艦隊は、陸攻(=中型攻撃機)の航続距離圏外へと移動していた。

 

 そして前日の状況から既にこの事を予見していた日本海軍は、各艦艇の燃料が気になる事もあって、一気に勝負を付けるべく、それぞれ最も近い敵艦隊に相対することになったという経緯もある。

 第二艦隊が目の前の艦隊を無視しなかったのも、迎撃できるタイミングが他に取れない可能性を危惧したからだった。

 

 そして最後に、最大級の戦いが4月10日午後を回ろうとしている頃に始まる。

 それぞれ第一の名を冠した、互いの総司令官同士の戦いの幕が開けたのだ。

 


 戦闘開始前、有利な位置にいたのは日本第一艦隊だった。

 

 速度の優位を活かした不断の追撃によって、アメリカ第1任務部隊の向かって左斜め前に陣取る事に成功していたからだ。

 このため日本側は必殺の「T字(丁字)」で相手の頭を押さえ、その後相手の動きに合わせて同航の巴戦に持ち込み、相手を逃がさず徹底した砲撃戦によって雌雄を決しようとした。

 しかもこの時の位置関係ならば、アメリカ側がこれをかわそうとした場合、逃げるなら不利な位置へと進まねばならなかった。

 逆方向に進路を向ける選択もあったが、最悪、他方面から駆けつける日本艦隊によって包囲される恐れがあったからだ。

 何しろ、各所でアメリカ艦隊は撃破されており、上空には日本軍機が乱舞しているため逃げようが無かったからだ。

 逃げるには、目の前の第一艦隊を何とかしなければならなかった。

 少なくとも日本第一艦隊司令部では、そう判断されていた。

 

 戦艦の数は、日本側が13隻に対してアメリカ側が9隻と、日本側が圧倒的に優勢だった。

 だが補助艦の数と質では、アメリカ側が有利だった。

 しかしアメリカ側は、自らの燃料事情と、午後には日本軍空母艦載機の空襲があると予測していた為、長々と戦闘する気は無かった。

 加えて、既に第3任務部隊がなぶり殺しの形で連絡を絶ち、第2任務部隊が激しい空襲と砲雷撃を受けているという報告を「次席指揮官」が送っていたので、悠長に「艦隊決戦」をしている時間はなかった。

 

 無論この時、アメリカ側に短時間で雌雄を決して勝利し、他での損害の帳尻を合わせるべきだという意見もかなりあった。

 だが、戦力は楽観的に見てもフィフティーフィフティー。

 戦闘中に空襲を受けたら目も当てられない事態になるとして、積極的な正面からの対決案は退けられていた。

 短時間での敵艦隊突破以外、アメリカ第1任務部隊に選択肢は無かった。

 


 一方日本第一艦隊は、接触前から偵察機、飛行艇、潜水艦などで相手の詳細な情報を掴み速力の優位を活かして有利な位置も占めていた為、自らの勝利を確信していた。

 

 巡洋艦の数では大きな差を付けられていたが、何より戦艦戦力で圧倒していたからだ。

 しかも日本語のカタカナで「イ」の状態で「T字」を描くことに成功していたので、戦闘開始直前の心理状態は「勝ったも同然」だった。

 問題は、どの程度時間がかかるかだった。

 参謀の中には、陸攻に「獲物」を取られるのではないかと危惧している者がいたほどだった。

 

 かくして相対距離4万メートル辺りから両者戦闘機動で激しく動き始めるが、当初はアメリカ側が日本側の「T字」に突っ込むような形になる。

 この事から、日本側はアメリカ艦隊も同航戦を望んでいると考えた。

 速度に劣るも火力、防御力が高いアメリカ戦艦なら、十分可能性のある事だからだ。

 

 とはいえ砲撃戦を開始するには、日本艦隊にとってまだ距離が開きすぎていた。

 長射程での射撃は一応可能だが、基本的に日本海軍は中距離以下での戦闘を重視していた。

 最新鋭の超超弩級戦艦《大和》は45口径46センチ砲を搭載していたが、最大射程は最大仰角40度で3万8000メートル、砲戦距離は3万5000メートルが最大だった。

 装薬を増やしたり砲の仰角を上げればもっと射程距離は伸びるが、日本海軍ではあまり意味がないと考えられていた。

 超遠距離射撃は、命中率が極端に低いからだ。

 

 しかしこの時の日本艦隊は、T字を描いた事よりも相手にいち早く同航戦を行わせるため、距離3万5000メートルでの射撃開始を決意する。

 しかし最初に射撃するのは先頭を走る《大和》だけであり、他の16インチ砲搭載艦ではこの距離での砲撃は無理だった(※大和型》に合わせて最大仰角を上げた《富士型》だけが例外)。

 いわば、アメリカ艦隊を脅して竦ませ同航戦に移行させるのが目的の砲撃だった。

 

 そして最新鋭戦艦の《大和》が、距離3万5000メートルというアメリカ側の想定外の距離から砲撃を開始した時、日本の艦隊首脳部が勝利を確信した瞬間だったと言われる。

 


 なお日本艦隊第一艦隊の主力部隊は、この時大きく三つの隊列を作っていた。

 戦艦《大和》を先頭として《紀伊型》《加賀型》《長門型》による八八艦隊計画艦8隻と14インチ砲搭載の旧式戦艦による長い隊列、長砲身5.1インチ3連装砲に換装した《青葉型》《古鷹型》による巡洋艦の隊列、そして軽巡洋艦と水雷戦隊の隊列の三つだ。

 

 これに対してアメリカ側も、戦艦の隊列、重巡洋艦の隊列、水雷戦隊とほぼ同じ隊列を作って前進していた。

 


 戦闘は戦艦による砲撃で開始されたが、この戦場では日本艦隊は自らの想定よりもかなり早い距離3万メートルで順次砲撃を開始した。

 T字の優位を最大限に活かすためだった。

 アメリカ側の予測と外れていたのは、《大和》と八八艦隊計画艦がそれぞれ戦艦を狙ったのに対して、旧式の《伊勢》《日向》《扶桑》《山城》が最初からアメリカ側の重巡洋艦を集中的に狙ってきた事だった。

 第三艦隊の《金剛型》と同様に、自らの補助艦不足を補う日本海軍が秘密にしてきた戦術だった。

 

 このため相手補助艦隊列を突き崩すつもりで突撃していたアメリカ側の重巡洋艦群は、心理的に不意を付かれたこともあって対応が遅れた。

 そこに多数の14インチ砲弾が殺到して、重巡洋艦3隻が相次いで大口径砲弾を被弾。

 狙いが比較的正確だった事もあり、戦闘開始から僅か10分程で轟沈、大破戦線離脱などで撃破されてしまう。

 残存艦の隊列も乱れた。

 この光景は、少し前に各所で見られた光景の焼き直しだった。

 このためアメリカ海軍では重巡洋艦の運用と増産に対して、かなりの間議論を重ねる事になる。

 今後自分たちも日本海軍のように戦艦で重巡洋艦を狙うとしても、重巡洋艦の存在価値がほとんど無くなる事を意味するのではないかと考えられたからだ。

 

 さらに5.1インチ砲に換装した4隻の重巡洋艦も、有利な位置から旧式の軽巡洋艦群を想像以上の弾薬投射力と速射で狙ってきた。

 このため予測の崩れたアメリカ側は、ここでも混乱が見られて、相手補助艦を撃破、突破して戦艦隊列に魚雷をたたき込むどころか、相手のペースのまま撃破される一方となってしまう。

 

 日本側の勝利は目前かに見えた。

 

 しかし日本側司令部の焦りは続いていた。

 

 連合艦隊参謀長の宇垣少将をはじめ一部の積極的な参謀や指揮官は、早い段階での自らによる同航戦、もしくは反航での急接近を意見具申していた。

 近迫猛撃こそが聯合艦隊のモットーだからだが、相手を確実に捉えることを考えての事だった。

 だが、各国海軍内にある「艦隊保全」という逃れ得ぬ感情と考えが、日本側にこのまま一方的戦闘展開を出来ると思いこませていた。

 なまじ戦闘が予想外の一方的展開となっていた事が、ここにきて日本側に保守的な考えを持たせていたのだった。

 

 日本側各指揮官、側各参謀の脳裏には、ツシマ海戦のような完全勝利の文字が浮かんでいた事だろう。

 この海戦後も、大胆な接近戦を挑んで自らも大きな損害を受けた南雲提督は、日本海軍内で批判の対象とされている。

 

 そして決断を下すべき堀長官は、この時混乱していた。

 相手が余りにも愚かな行動、全滅するためのような突進を続けていたからだ。

 このため相手の動きが読めず、規定の路線以上の決断が下せないでいた。

 


 戦艦同士の砲撃開始から15分ほどの戦闘は、想定範囲内の出来事しか起こらなかった。

 重防御に定評のある《サウスダコタ級》戦艦は、「不運な一撃」が無かった幸運もあり、少々の砲撃では屈することもなく前進を継続した。

 それでもアメリカ側の各艦に被弾が相次ぎ、戦艦の砲弾を受けることを考えていない重巡洋艦は、戦闘開始から15分で沈むか停止するか戦場離脱して半数が姿を消していた。

 軽巡洋艦についても、似たような状況だった。

 距離が開いているので、まだ水雷戦隊同士の戦闘にまで発展していなかったが、この戦場では数が互角な以上、アメリカ側が優位を作り出すことは幸運にでも祈る以外なかった。

 

 日本側の艦艇も、接近するに連れて被弾が相次いでいたが、戦艦群は1発や2発の被弾では戦闘航行に全く支障は出なかった。

 


 アメリカ側のあまりに「無策」な動きに対して、日本艦隊がアメリカ艦隊の行動を疑い、いつアメリカ側から同航戦または反航戦に入るのかと気をもんでいる時、アメリカ側が一気に動いた。

 

 アメリカ側が新たにとった進路は、日本艦隊との同航ではなく逆行。

 しかも単なる反航(=逆行)ではなく、戦闘を避けるため完全に逆の位置を目指していた。

 加えて、前面に配した水雷戦隊が日本艦隊からの砲撃にもめげず、タイミングを見計らって牽制の魚雷を放つと同時に分厚い煙幕をまき散らし、日本側の戦艦隊列の後ろ側を一気に抜けていく進路を取った。

 アメリカ側の水雷戦隊は、この時のために行動していたのだった。

 しかもアメリカ第1任務部隊は、この段階で日本側戦艦隊列の後ろ側を狙って集中射撃を開始。

 隊列後方に位置していた日本軍艦艇は、被弾から離脱が相次ぎ、混乱から回復後も16インチ砲からの回避を優先したため、砲撃や追撃は不可能になっていた。

 

 中には《扶桑》《山城》のように、短時間で多くの16インチ砲弾を被弾して大破する艦も出ていた。

 

 そして長い隊列の後ろが乱れた為、日本側は個艦ごとに180度ターンを行って艦隊隊列と進路を一気に逆転する高度な戦闘機動(旋回頭)を選択することが出来なくなった。

 回頭を行うにしても隊列ごと大きく旋回するより他なく、アメリカ側の動きに大きく出遅れることになってしまう。

 水雷戦隊も、予測進路と逆を取られたため十分な突撃もしくは追撃が難しい位置関係となってしまう。

 アメリカ側の牽制の魚雷も、日本艦隊の進路変更と追撃を阻んだ。

 

 第一艦隊は仕方なく効率の悪い180度近い回頭を実施し、その後に相手隊列の後ろに食らい付こうとした。

 

 アメリカ側の煙幕は、日本側の多数の観測機によってあまり効果がなかったが、距離が開いてしまえば砲撃戦は出来なくなってしまう。

 位置関係も大きく狂ったので、砲撃データも作り直しとなる。

 さらに艦隊全体の速度も似たようなものなので、追撃と言っても限界があった。

 

 ここでの戦いは、状況がどうあれ相手が正面からの戦闘を行うと思いこんでいた日本側の事実上の作戦失敗だった。

 とはいえ、アメリカ側も無傷では済まなかったし、純戦術的にはアメリカ側の敗北と言って間違いなかった。

 


 日本海軍の精鋭を謳うだけに、第一艦隊主力を構成する《紀伊型》戦艦以下各艦の砲撃は正確だった。

 最新鋭戦艦《大和》の砲撃は46センチ砲と破格であり、砲撃こそ不慣れのため稚拙だったが、命中すると一撃で大打撃を与えていた。

 このためアメリカ第1任務部隊は、初期の「T字」の最盛期に多数の砲弾を受け、隊列から遅れる戦艦、巡洋艦が何隻も出ていた。

 加えて、与しやすいと挑んだ日本の旧式戦艦群も、徹底した近代改装が施されているため十分に強力であり、落伍させるのに時間がかかって戦闘時間が延びてしまい、アメリカ軍艦艇の被弾そして落伍が相次いだ。

 

 これら隊列から逸れたり遅れた艦艇は、その後各個に戦線離脱を図ったが、日本側は多数の偵察機を放って逃がさず、特に手負いの戦艦は目の敵のように攻撃を行った。

 そして速度が鈍っていたところを追いつかれ、孤軍奮闘の末に沈められる事になる。

 中には水雷戦隊などに包囲された末に降伏を選択し、キングストン弁を抜いて自沈した戦艦も出た。

 


 日本側の追撃戦は水上艦ばかりではなく、空母機動部隊の艦載機、潜水艦も加わり広い海域で実施された。

 特に午前9時30分頃から戦場に到着し始めた、日本軍の中型攻撃機(陸攻)群の攻撃力は大きかった。

 前日と同様に、約100機の機体が全て魚雷を装備していたからだ。

 この中型攻撃機の攻撃で致命傷を受けたり、新たに損害を受けて速度を落として日本艦隊の追撃を受けた艦艇が多数出た。

 砲雷撃戦だけでは、少なくとも第1任務部隊はこれほどの損害(撃沈)は受けなかっただろう。

 

 しかも陸攻撃による空襲や追撃を受けたのは第1任務部隊だけでなく、第2、第3任務部隊も激しい追撃を受け多くの損害が出た。

 

 また、日本側の警戒線が転じて包囲の輪となった哨戒任務の潜水艦に沈められた戦艦や巡洋艦もあった。

 アメリカ艦隊は、護衛の駆逐艦にも事欠いていた為、容易く撃破された。

 

 三カ所で行われた正面戦闘が終わって後の戦闘は、日本で言うところの「落ち武者狩り」そのものだった。

 そしてこの最後の追撃戦で撃沈された艦艇は非常に多く、「決戦場」での撃沈を上回る打撃(=沈没艦)をアメリカ海軍に与えた。

 日本軍の追撃の前に自沈した艦も、1隻や2隻ではなかった。

 全ては敵地深くで正面戦闘を強いられた末に大損害を受けた為だった。

 

 しかも日本軍陸攻隊は、長距離の移動にもめげずにその日の夕方にもう一度アメリカ艦隊、艦艇の上空に現れて、本来の決戦のためにサイパン島の弾薬庫に豊富に備蓄されていた魚雷や大型の徹甲爆弾を、傷ついたアメリカ軍艦艇に叩きつけた。

 

 日本軍による追撃戦は日が没しても続き、水雷戦隊や潜水艦によって夜間戦闘にまで及んだ。

 


 そして逃げるアメリカ艦隊、追う日本艦隊という構図、そして日米双方の余りにも開きのある損害差は、一連の大規模な海上戦闘を日本の圧倒的勝利だったと、歴史書に刻み込ませる事となる。

 日本海軍が夢にまで見た、進撃してきた敵の大艦隊を「決戦」で撃滅するというツシマ海戦と同様の戦闘が再現されたのだ。

 

 しかし一度の大規模戦闘で戦争が終わる時代は既に過ぎ去り、国家が総力を傾けて戦う時代だった。

 そしてアメリカという国家は、まさに総力戦を行うためのような国家だった。

 


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