I-1長い一日
寒い朝だった。
ここのところようやく春らしい暖かさが続いていたのに、新しい週が始まった途端にまたぶり返してきた。しかも雲行きも怪しいときた。なんだか雪でも降りそうだ。
寒空の下、遅刻しそうなわたしはすきっ腹を抱えて早足で学校へ向かっていた。
大通りを抜けてわき道に入る。少々気味の悪いところだけど、一番の近道だ。
そろそろ走り出したほうがいいかなと溜息を吐いて顔を上げると、変な帽子を被った人がふらふらと歩いていた。酔っ払い…だろうか?
「やあ、おはよう。いい朝だね」
念のため少し避けて通り過ぎようとしたら、しゃがれた、けれども案外ハッキリとした声で挨拶をしてきた。
「あ。おはようございます」
半ば反射的にやり取りを交わし、そのまますれ違う。
『歯車ガ、最初ノヒトツガハマルヨ、あるけもろす』
「――え?」
何か言われたような気がして振り返るが、すれ違ったばかりのおじさんは忽然と姿を消している。
「ありゃ?…ま、いっか」
あまりそういう事に頓着しないわたしは、さらに先を急いだ。
やっと不気味なトンネルまで来た。ここを通れば道路を挟んですぐに学校があるんだけど…。トンネルにはツルがびっしりと這っていて昼間でも薄暗く、異様な雰囲気をかもし出している。わたしはこのトンネルが嫌いだ。ハッキリ言って怖いから。そんな恐れに後押しされて、さっさと通ってしまおうと小走りになる。が、
「……何?」
トンネルの出口が陽炎のように揺れていた。しかも、向こう側の景色が薄れて歪な形を織り成し渦を巻く。足元に落ちていた葉が、乾いた音を立ててそれに吸い込まれていった。渦が、全てを飲み込もうと大きく口を開く。
「なっ…!」
わたしは後ずさった――つもりで全く動いていない。そればかりか、勝手に足が前へ、前へと歩き出す。
「え!?ちょ、ちょっと待ってよ!」
必死に止めようと足掻いてみても、いつの間にか体の自由が利かなくなっていた。そして――
「だ、誰か助――」
わたしの悲鳴は、暗闇に吸い込まれていった。
□□□
「あぁ、今日もいい天気だねぇ」
いつもは活気に溢れている大通りだが、今は閑散としていた。
朝一の散歩。それが彼女の長年続けてきた日課だ。さすがに雨の日は断念するが、ほぼ毎日続けている。健康に良いという理由だけではない。道端での小さな発見を彼女はいつも楽しみにしているのだ。もちろん、その中には仲間達とのお喋りも含まれている。だが、今日はなんだかいつもと違う気がしてならなかった。
「なんだろうねぇ」
ひとつ呟き、空を仰ぎ見る。
まだ夜の名残が残る中、一筋の光が大地を徐々に黄金色にと染めていく。市場の人々が店の準備をしている。小鳥達も朝が来たことを喜ぶようにチュンチュンと飛び交う。そんな、まったくいつも通りの早朝の風景。なのに、彼女の中では決定的に何かが違っていた。
色々と考えていると、いつの間にか上の道と道をつなぐ大きな橋まで来ていた。
「どれ、ここいらで一休みしますかねぇ」
気付かないうちにずいぶんと遠くまで来ていたようだ。これ以上先へ進めば、朝食に間に合わなくなってしまう。かといって休まずに戻るにはきつい距離だ。
彼女はゆっくりと橋の下に備えられている椅子へ向かって――
「うっ!―っった〜。もう、何なのいったい!」
――行こうとしたのだが、鈍い音を立てて突然現れた少女に阻まれてしまった。
□□□
最悪!何がなんだか判らないうちに、急に高い所から落とされた。ズキズキ痛むお尻をさすりながら顔を上げると、
「………え?」
目の前に広がっていたのは小さな薄暗いトンネルではなく、広く明るい小奇麗な景色。ずうっと続いている石畳に、見慣れない格好をした人々。
「な?え?あれ?わ、わたし…イタッ…………う、そ…」
目をこすったり頬をつねったりしても景色は変わらない。夢ではない。けれど、そんなすぐには信じられない。
こんな所、知らない。なんでこんな所にいるの?わたしの鞄は?学校、どうしよう…
泣きそうになりながら辺りを見回していると、人のよさそうなお婆さんがゆっくりとこっちに近付いてきた。この人に聞いたら、何かわかるだろうか。
「あの…」
「どうしたんだい?座り込んでしまって。見かけない顔だねぇ、旅の人かい?――おや、珍しい髪の色だねぇ黒色なんて」
お婆さんは、わたしが何か言う前に問い掛けてきた。
とりあえず、外国ではないようだ。けれど…旅の人って?今時、身ひとつで旅行する人なんかいるだろうか。むしろ、聞くなら迷子なの?とかじゃないかな。…この歳になって迷子なんて恥ずかしいけど。
「え、えっと…その、お婆さん、ここはどこですか?」
「ここはラービニだけど?」
「ラ…?えっと、それって国の名前?」
そんな名前一度も聞いたことない。違う国なら、どうして言葉が一緒なんだろう。
「クニ?なんだい、それは?」
「え!?」
一瞬にして、頭の中が真っ白になった。さあーっと血の気が引いていく音がするようだ。
「――――の?…家に…かい?孫と二人きりじゃ広すぎるんでねぇ」
あまりのショックにお婆さんの言葉が聞こえていなかった。わたしはギクシャクと顔を上げて、お婆さんを見上げる。
「急いでいるのかい?それなら、無理にとは言わないけど…」
まだ混乱しているけれど、このお婆さんについていくしかなさそうだ。一人で路頭に迷うよりはいい。
わたしが急いでない、と首を振ると、
「そうかい。じゃあ、私の家に来るかい?歓迎するよ」
そう言いながら手を差し伸べてくれた。
「うん…。えっと、お、お世話になります」
お婆さんの手は、かさかさしていたけれど―――とても、とても温かかった。




