救国の大悪党
小説の題材を探して異国を渡り歩いていたときのことだ。
ある国の港町で観光雑誌を手にうろうろしていた私に、案内を申し出てくれた人があった。こういうことは現地の人間に聞くのがいちばんだろうとも思ったし、なにより彼の丁寧な話しかたに好感が持てたため、私は数日間、彼と一緒に過ごすことにした。
港町のホテルに宿を取り、彼からその国のこと、歴史や文化のことを聞いた。彼はその国について、強国というわけではないが古くから一筋の王族が治めてきた国で、周辺国と渡り合い生き残ってきた歴史のある国だと言った。近代になって共和制へと移行し、王政は廃止されたものの、国土のいたるところに王政時代の歴史的建築物や美術が保存されており、当時を偲ぶことができるという。また、旧王家の血筋も途絶えずにつづいているそうだ。
一通り語り終えたあと、彼は翌日とっておきの場所に案内すると私に言った。観光雑誌には載っていないがこの国の人間であればみな知っている場所だというので、私は朝を心待ちにして床についた。
翌日、彼に案内されたのは、港町から内陸へ小一時間移動したところにある人気のない谷間だった。観光客はもとより、地元の人間もほとんど見当たらなかった。ここがとっておきの場所かと訊くと、彼は頷いた。国民ならだれでも知っている場所なのかと訊くと、そうだと言った。しかし、滅多にくるような場所ではないと、あとから付け足した。
うっそうと茂る草木をかき分け、道なき道を私たちは進んだ。小さい谷だったからまだ良かったが、これがそれなりの距離と高低差であればたいした冒険になっただろう。もっとも、彼は前日の夜には必要な装備をすべてそろえてくれていたため、私は気を悪くすることなく彼の後ろへついていくことができた。
前を行く彼が「ここだ」と言って立ち止まった先に、蔦と苔におおわれた塚が見えた。中央には洞穴が空いていたが、その口は錆びついた鉄の格子扉で閉ざされていた。
「あの扉の向こうに、大悪党の石像が眠っている」彼は言った。「売国奴として後世に名を残した中世時代の役人だ」
どのような人物かと尋ねると、「悪党だ」と彼は言った。
「彼は優秀な役人で国王からも信頼を置かれていたが、あるとき隣国が攻めてくるという情報がこの国にもたらされた。国王とその周辺は即座に兵を集め、徹底抗戦への構えを見せたが、その最中、主要武官のひとりが何者かによって謀殺されるという事件が起こった。重要な人物を失った国王は戦う気力をなくし、領土を割譲することを条件に隣国と和平を結んだ。そのとき外交官として活躍したのがこの役人だったが、彼の死後になって、彼こそが武官暗殺の首謀者だったことが判明した」
彼は淡々とした、しかしどこか憂いのふくまれたような声で語った。彼の見つめる先には石像の影が、洞穴の闇のなかにうっすらと滲んで見えた。
「彼の評価は一変した。救国の英雄から、史上最悪の売国奴へと変わり果てた。また、彼の存命中の日記とされる書物も発見されたが、そこには自国への批判的な内容が所狭しと書き込まれていた。国王と重臣たちの会議の様子を揶揄する絵も描かれていた。彼らは野蛮な獣のような容貌に描かれていた」
そこで彼は、目線を落とした。ちょうどいい大きさの石ころをふたつ拾いあげ、ひとつを私へ手渡した。
「ここに来た者は石を拾ってあの格子の内側にある大悪党の石像へ投げつけるのが習慣になった。少なくとも王政が廃止される以前まではこの習慣はつづいていたようだ」
彼はふたたび石像へと眼差しをそそいだ。
「しかし、現代の研究では彼の再評価が進んでいる。彼が冷酷な役人だったことはたしかだが、もし彼が武官を殺さずこの国が隣国と戦争をしていた場合、この国の未来はどうなっていたか……。じっさい彼は、国の未来を憂える主張をしていたが……、これはじつは以前からわかっていたことだった。彼の日記にはその思想、憂国の意思が事細かに書かれていたにもかかわらず、後世の歴史家は都合のいい部分だけを抜き出して、彼を売国奴へと仕立てあげてしまった。理由はおそらく、暗殺された武官を慕う重臣や人民が多数だったこと、そしてなにより、領土割譲による和平という屈辱的な事柄を、王家の愚策や国力の差といったことを問題とせずに裏切り者ひとりのせいにしてしまったほうが収まりが良かったからだ。彼はつくられた大悪党だった」
彼は石ころを持ち、格子の前へと進み出た。
「そういう事実もわかってきているし、だいいち、近代以降の都市開発に置いていかれたここらの田舎は廃れていき、今じゃここを管理する人間もいないから、わざわざここへ来て石をぶつける人間は少なくなった。ただし、国民の感情が長いあいだ大悪党と見てきた彼をいきなり救国の英雄として見直すことは容易じゃない。私の祖父は、昔あの像へ石ころを投げ当ててやったと得意げに話していたものだったし、余所でも自慢していたという。そういう話を聞いて育ってきた人間もまだたくさんいて、なにより研究途中ということもあって、学校の教科書でも詳しく教えていない。だから彼は、今でも悪党のままなのだ」
語りを終えて私をふりかえった彼は、投げるぞと言った。え、と私は訊きかえした。この人物は、結局悪党じゃなかったのではないのかと問うた。
「悪党だ」彼は答えた。「彼が武官の暗殺を指示したのは明らかだ。しかしそれは、国の未来を救うためだった。彼はみずから進んで悪党になった。だから彼は、救国の悪党として讃えられるべきだ」
彼の投げた石は格子の内へと飛び、石像の額に当たって落ちた。私は、自分は異国の者だからと言って石を投げるのを断った。彼はなにも言わなかったが、ほっとしたようすでもあった。
港町へ戻り、翌朝になって私たちは別れた。その後、彼と会うことはなく、二週間の滞在のあと私はその国を発った。後から考えるに彼は同伴者を必要としていたのだろう。そして、それは自国民ではだめだった。彼は、彼自身の葛藤にひとつの区切りをつける儀式のために、その証人として私を利用したのではないだろうか。