6、告白
別れの歌は、透き通るようなソプラノが美しく、そして悲しく響いていた。
演奏と共に幕が下りていき、観客達は余韻につかりながら、歓喜の拍手を役者達に送る。
オペラハウスに響き渡るその音は、公演初日が大成功なのを意味していた。
余韻に浸りながら、その舞台がどれだけ素晴らしいのか気持ちを表現したい観客達は立ち上がって拍手の嵐を巻き起こす。
そんな喝采を聞きながら、イルオラは舞台裏で木箱に座って休憩していたルロクに興奮をおさめきれずに勢いのまま駆け寄る。
「ルロク、ルロク! どうだった? わたしの演技」
「素晴らしかったよ。もう大根役者とは呼べないね」
「演じていたらいつの間にかセレーナになりきっていたのよ! びっくりだわ」
目の前にいるルロクがディーノにしか見えなかった。妻役を演じていたノーマに舞台上ではずっとセレーナとして罪悪感を感じていた。
「役に入り込んでいたんだね。おめでとう。婦人も喜ぶよ」
この興奮を全てルロクに伝えたい。
しかし手段がわからずに、飛び跳ねたい衝動を抑える代わりに彼に思い切り抱きついた。
「うわっ」
勢いあまって木箱から落ちたルロクは床に尻餅をつき、イルオラは大胆にも彼の上にのしかかってしまった。
「やだ、ごめんなさい!」
周りの役者達に見られている事を思い出して羞恥に顔が真っ赤に染まる。ようやく冷静になっていくイルオラに、ルロクは苦笑して至近距離から口づけした。
何が起きたか理解できずにぽかんとしていると、髪を一房掴まれて、ルロクがその髪の束にも口づけを落とした。
「ルロク? み、みんなが見ているわ……」
恥ずかしくて両手で顔を覆って隠していると、ルロクが額にも口づけして、イルオラは素早く飛び起きてルロクの上から退いた。
「はは。イルオラ、顔が真っ赤だよ」
「あ、あなたのせいよ!」
笑いながら立ち上がるルロクを、イルオラは睨みながら後ずさりする。
「嬉しいくせに」
「何を言うのよ!」
こんな、大勢のいる舞台裏で言うような事ではない。破廉恥だ。
「イルオラ」
真っ赤になって俯いていると、ゆっくりと自分の名前を呼ばれ、あらがえずに顔をあげ──悪戯めいた笑顔を浮かべるルロクの表情を見て本能的に一歩後退する。
「な、なに」
何を言う気なのか。
そもそも、“優しいルロク”を売りにしているのに、大勢の目の前でそんな表情浮かべて大丈夫なのか。
「君は、僕が好きだろう?」
思わずうっとりしてしまうような表情を向けて言われ、イルオラはそのまま頷きそうになり──慌てて自分の顔を両手で抑えて阻止した。
口づけを許しているのだから理解しているはずだ。
自分の気持ちがとっくに奪われていることに、彼が気づいていないはずはないのに。
言わせたいのだろうか。彼が好きと?
イルオラは周りから集まる視線にも、射抜くような彼の目にも耐えきれずに俯いていると、ルロクを呼ぶ女性の声がした。
そちらを見てみると、豊満な体の美女が、少し露出のし過ぎにも思える派手なドレスに身をつつんで彼を手招きしていた。
「アリーチェ」
彼が彼女の名前を呼んでそちらへ歩いていく。そんな様子を見て、イルオラは冷水をかけられた気分になった。
自分だけ特別だなんて、少し思い上がっていた。
あの人は手の届くことはない高嶺の花。雲の上の人。
勘違いしてはいけない。
ちょっと優しくしてもらったからと言ってつけあがってはいけない。
イルオラは親密そうな二人を見てはいられず、踵を返した。
***
「飲みすぎだよ、イルオラ」
グラスの酒を一気に飲み干したイルオラを、ウーベルトが控えめに注意した。
「大丈夫ですわ、ウーベルトさん。少し現実逃避したいだけですから」
ボロボロの自分の家で夜ご飯を食べた後、飲んでいたらウーベルトが来たのだ。
「現実逃避って……、ラツェーテが上手くいかなかったの?」
「ラツェーテは大成功! 演技も今までの中で一番上手くできましたわ。明日の公演も凄く楽しみです」
笑顔で話すと、ウーベルトは椅子に腰かけながら首を傾げた。
「じゃあなぜ現実逃避なんて?」
ウーベルトがさりげなくイルオラからグラスを遠ざける。イルオラは一息吐いて、頬杖をテーブルについた。酔ったまま感情を口にする。
「……私はね、夢を見ていたの」
「夢?」
「そう。貧しい庶民が憧れの人と結ばれる夢」
察しの良いウーベルトは何の話なのか思い当たったようで、椅子をこちらに寄せて真剣に耳を傾けてくれる。
「でも夢は現実にはならないの。虚しいだけ」
ウーベルトは何も言わず、ただ頷きながら聞いてくれた。
今はアドバイスも何もいらない。ただ聞いてほしかっただけだったので、ウーベルトの気遣いは凄く心地が良い。
「イルオラ、元気を出して。今日はゆっくり休みなさい」
元々食材を差し入れに来てくれたウーベルトは、妻が家で待っているので長居は出来ない。早く帰らないと妻の愚痴が大変だと言うのにイルオラに付き合ってくれたのだ。
「ありがとう。ウーベルトさん」
礼を言うと、ウーベルトは笑いながら席を立つ。
ウーベルトがコートを羽織り、イルオラにおやすみの挨拶をしながらドアを開けると──ノックをしようとしていたルロクが立っていた。
「ルロク!?」
驚いてイルオラは立ち上がる。
「やあ、こんばんは。話したくて来たんだけど、入ってもいいかな?」




