5、彼女の想い
それからは練習を必死にやった。ルロクにも頼んで演技指導してもらい、着々と公演日が近づき──そして公演前夜となった。
ルロクの屋敷で練習を終えたイルオラは椅子に座わる。
「いよいよ明日ね」
「緊張してる?」
「……少しだけ」
何度も練習した。何度もイメージした。だけど、本番より怖いものなんてない。
しかし、怖いと思うのと同時に、ようやく待ちに待った本番に、胸が高鳴る。台本を読んでるうちに大好きになったラツェーテを演じる事が出来るのだ。
「ラツェーテっていうのは天使という意味なのでしょう? なんだかセレーナへの思いが伝わってくるわ」
ディーノはセレーナへ想いを書いた。この《ラツェーテ》という作品はディーノからセレーナへのラブレターなのだ。
田舎町で見つけた天使。そんな意味を込めて《ラツェーテ》と付けられている。
「わたし、緊張しているけど凄く楽しみなの。上手く出来るかしら」
「君なら大丈夫だよ」
目の前に立っているルロクがこちらへ手を伸ばして顔を上へ向かせる。
見上げるようなかたちでルロクを見つめていると、端正な彼の顔が近づいてきて、イルオラは戸惑いながらも目を閉じた。
緊張のせいで睫が震える。
静かな部屋に、二人きりだった。
***
「やだ、もう公演時間よ!」
ノーマがイルオラの前を行ったり来たりしている。いきなり主要人物に抜擢されて緊張しているのだろう。
「落ち着いて、ノーマ。練習通りにやればいいのよ」
「そうね! わたしはあなたを苛めればいいのよね!」
少し語弊があるようだが、やる気になってきなノーマに水を差す事はしなかった。
やがて会場のざわめきが止み、ゆっくりと演奏が流れ始めると、いよいよ舞台裏も静かになった。
「イルオラ、準備はいい?」
演奏に合わせて幕が上がっていくのを見ながら、イルオラはルロクの言葉に大きく頷いた。
「もちろん」
幕が上がりきると、ルロクが先に歩き出し、舞台に登場していった。
初めから舞台上にスタンバイしていた脇役達に混ざり、田舎町にディーノがやってきた事を全員で演じている。
やがて演奏の節目が来て、イルオラは喉を奮わせて歌いながらゆっくりとした歩調で舞台上に上がった。
かつて、ディーノが聞きほれたという歌。
歌しか取り柄のなかったイルオラは精一杯歌った。セレーナの歌に劣りませんように。
演技が進むに連れて、イルオラはいつの間にかセレーナだった。目の前にいるのはルロクだけどルロクじゃない。──ディーノだ。
セレーナはディーノが好きだった。
ディーノがセレーナを想ったように。初めは恩しか感じていなかったのに、いつの間にか変わっていた。
だけど、彼には妻がいる。他の女性から取るだなんて出来なかった。
「駄目よ」
震えてしまいそうになる声を必死に抑えた。
「どうして?」
「あなたには奥様がいるじゃない」
浮気だなんて、そんな背徳的な事、セレーナには出来なかった。だから彼と距離を置いた。彼にこれ以上気持ちがいかないように。
しかし日にちが経つのと同時に気持ちまで募っていく。
ついに耐えきれなくなった。
我慢しているのは嫌だ。奥様にディーノを取られるだなんと嫌だ。──彼を自分の物にしてしまいたかった。
***
妊娠がわかったのは、彼と逢瀬を始めて数ヶ月経った時だ。彼の子を宿した喜びと、ついに来た別れという絶望。
子供が出来たらディーノから離れて奥様に返す。
セレーナはそう決めていた。
さすがに愛人が本邸に上がり込むことはしない。だから自分が生まれ育った田舎町に行き、生まれてくる子供と暮らす決意をした。
「わたし、出て行くわ」
妊娠の事は彼に話さない。知ったらきっと手放さないだろう。
「……どうして?」
「あなたに飽きてしまったの」
彼が嘘を見抜きませんように。心の中で必死に祈りながらセレーナは言う。ディーノは、立ち去ろうとするセレーナの腕を素早く掴んだ。
「どうしてそんな嘘をつくんだ」
「嘘じゃないわ」
いいえ、嘘よ。
だけど見抜かれるわけにはいかないセレーナは、尚も嘘を口にした。
「やっぱり浮気だなんてわたしには無理。もう田舎へ帰りたいの」
「苛めが酷いのか?」
ディーノの妻からは度々嫌がらせを受けるが、だからと言って彼女が悪いわけではない。
ディーノを彼女から取った自分がいけない。だからセレーナは妻を憎めない。自分さえいなければ、彼女は嫌がらせなどしなかったのだから。
「奥様は関係ないわ。これはわたしの気持ちの問題なの。理解してちょうだい、伯爵様」
あえて彼を名前で呼ばなかった。傷ついた顔をした彼は、やがて掴んでいた手を離した。
「幸せになって。わたしも幸せになるから」
子供と一緒に幸せになる。
だから傷ついた妻の側にいてあげて欲しかった。
いっときは仲が良かった彼女に、幸せになってほしかった。だから彼を手放す。自分の我が儘はもうこれ以上、叶えるわけにはいかない。
「さよなら、ディーノ」
最後だけ名前で呼ぶ事を許して。
セレーナは立ち去った。一度も振り向く事はなかった。




