2、ラツェーテ
初顔合わせには誰だって緊張する。
今回は特に憧れのルロクが来るという事で、時間よりも早く練習場にやってきた。
「イルオラ!」
すると、茶髪を高く結い上げた女がこちらに駆けてきた。昔から一緒に歌や演技を練習してきたノーマ・アマデイだ。
「あらノーマ、久しぶり!」
お互いに手を取り合って飛び跳ねながら再会を喜ぶ。本格的な稽古が始まってからは中々会えなかったのだ。
「あなたと共演できて嬉しいわ! 脇役だけどよろしくね」
「こちらこそ。ねえ、それより聞いた? わたしあのルロクの相手役なのよ!」
興奮したままそう言うと、ノーマは更に飛び跳ねた。
「聞いたわよ!」
そう言って一緒に喜んでいると、監督が入ってきた。監督の横には長身の黒髪の青年がいて、彼の青い瞳がこちらに向き、イルオラの心臓が跳ねた。
ルロク・ブランキーニだ。彼は周りの役者達に軽く挨拶しながら悠然とした足取りでこちらへやってきた。
「久しぶりだね、イルオラ」
「お……久しぶりです。覚えていらっしゃいましたのね」
まさか何年も前に一度しか会っていないわたしを覚えていたなんて!
顔を真っ赤にさせて驚きながら言葉を返すと、ルロクはくすりと笑った。
「綺麗になったね。何年ぶりになるかな?」
「十五年ほどになりますわ、ブランキーニ様」
イルオラはいつもの調子を取り戻し、にこやかな笑顔で対応する。
「ブランキーニ様はよそうよ。年も近いし、僕と君は恋人役なんだから」
「ではルロク様?」
「いや、ただのルロク」
その提案に、乗るべきか否かを考え、戸惑いながらも了承した。
憧れの人を呼び捨てにするなんて!
ウーベルトやノーマの前では呼び捨てにしていたが、本人をだなんてそんな失礼な事、イルオラは簡単にはできない。
「頑張りますわね、……ルロク」
舞台を頑張るではなく、とりあえず呼び捨てを頑張ろうとの言葉に、ルロクは笑った。
***
オペラハウスで1ヶ月後に行う演目はラツェーテという悲恋ものだ。
1ヶ月後という短すぎる練習期限の理由は、今回の演目はラツェーテの作者の娘であるコンスエラ・ランニーニ氏の希望で行う事となり多大な寄付をされている。
そのランニーニ氏が実際に物語で登場する国立ホールでという希望も出され、その国立ホールの公演の空きが1ヶ月後から一週間だけなのだ。
なので急遽役者を揃え、1ヶ月後にラツェーテを一週間公演する事になった。
物語はルロクが演じるアンセルモ伯長子ディーノ・ランニーニが、田舎町で出会った、イルオラが演じるセレーナの歌を見初めて、自分の住む国の首都レセケッセに連れて行き、歌を歌わせるのが始まりだ。
そのうちにディーノは妻がいるにもかかわらずセレーナに惹かれ、彼女もまた惹かれる。
その後、ディーノの妻が邪魔をして破局。二人は離れ離れになって終わりだ。
しかし今回このラツェーテを希望したランニーニ氏がディーノとセレーナの娘である事は周知の事実で、物語の余韻を綺麗に残せている。
「破局しちゃうのね。残念だわ」
台本を役者に配られ、まずは演奏練習に入ったので、役者は練習場の外で台本読みだ。
イルオラも練習場の裏にある庭園でベンチに座りながら読む。
「でもランニーニ氏が二人の娘って事は、妻に意地悪されたけど、セレーナとディーノはまた再会できたということかしら?」
疑問に思って、誰もいないのに問いが口からこぼれた。
「それはランニーニ婦人に直接聞いてみるといい。でも確か再会はできていないはずだよ。両親がどうやって出会ったのか知りたいそうだからね」
背後からいきなり声がして、イルオラは驚きながらゆっくり振り返った。
「ル、ルロク、びっくりさせないで」
ごめんごめん、と笑いながら彼はイルオラの隣に座った。
自分は今、あの憧れのルロクと話して、しかも彼の隣に座っている。そう思うと、体が嘘のように固まった。
「熱心だね。みんなは今頃呑気にカフェだよ」
「……だってわたし、最近デビューしたばかりだし、せっかく主役に選んでもらったのだからきっちりやりたいの」
母の名前を使って知名度があがってしまっているのだから、きちんとしたものを見せなければ亡き母にも迷惑がかかるのだ。
ルロクはこちらが見入ってしまうような微笑みを浮かべると、まるで悪戯をするように人差し指をイルオラの口元に当てた。
「練習熱心な君に、パートナーから提案をしよう」
「……提案?」
すぐに人差し指が離れて、なんだか遠くの出来事のようにその一連の動きをイルオラは見つめる。
「僕が君の演技を指導する」
「ルロクが指導を……?」
何年も前から舞台に立っているルロクに指導してもらえるのは有り難い。顔をぱっと明るくさせると、彼はにこやかな笑顔のまま続けた。
「君のデビューは、歌は本当に素晴らしかったけど演技は見れたものじゃなかったからね。大根役者もいいとこだよ」
「……ルロク?」
今のは空耳か何かだっただろうか。
しかし彼は表情は実に爽やかなのに、口からは次々と爽やかじゃない言葉が出てきた。
「あの二幕目の始まりはいつも転けそうになってるし。どこに段差があるかくらい覚えておくべきじゃないかな? しかも幕が閉じる頃になると台詞が飛んでばかりだし」
えっと、とイルオラが戸惑っていると、彼は変わらない──むしろ先ほどよりも一段と輝いた笑顔で言った。
「そんな大根役者だから僕が指導してあげるよ。わかった?」
何年もずっと胸で温めていた“憧れのルロク”像は音を立てて崩れた瞬間だった。




