1、デビュー
歓声と拍手が嵐のように巻き起こった。
観客達は舞台に立ち、見事なソプラノの声を響かせて歌を披露した歌い手に魅力されていた。
豊かに波打つ真っ赤な髪と、深い緑の目。小さな唇は僅かに震え、歌の余韻を残している。
歌い手──イルオラ・マルタのオペラデビューである。
***
オペラ界屈指の歌姫クロエティラ・マルタの娘というふれ込みに、誰もが興味を持った。
イルオラの役はしがない脇役に過ぎなかったが、監督の計らいで最後の場面、イルオラは一フレーズだけ歌える事が出来たのが幸運だった。
しがない脇役が一気に主役級の活躍だ。
母にも劣らない綺麗な高音域の出る声に、長年のファンも満足した。
舞台公演も大盛況で幕を閉じ、イルオラはオペラ界で有名人の仲間入りを果たした。次は何の役をするのかという話で持ちきりになり、スポンサーが話し合い始める。
『天才マルタの娘、次の舞台は……?』
スキャンダルを取り扱う新聞が大きな見出しを載せて、更に話題になった。
しかし、それを一番嬉しく思わないのは当の本人。
ぱさり、と買った新聞をテーブルの上に置いて、イルオラはため息をついた。
どこの話題も“マルタの娘”尽くしだ。イルオラではなく、亡き天才オペラ歌手クロエティラ・マルタの娘を面白がって取り上げている。
「……わたしはクロエティラじゃなくてイルオラなのに」
むす、と唇を尖らせて、買ってきたばかりパンを頬張る。
イルオラは誰もがその声に魅了されたという、天才オペラ歌手クロエティラの娘だ。
しかし、亡き母の力も借りず一人でやって行こうと思った矢先に出演した演目で、クロエティラの娘という事がバレてしまった。
「まあおかげで歌を歌えたのだから感謝しておくべきよね」
話題になっている有名人のイルオラだが、実際に今回の演目で稼げた額は少なく、住んでいるのも低級住宅だ。
クロエティラの残した財産は父がギャンブルで使い果たし、おまけに借金を作って逃げた。今はどこで何をしているのかも知らない。
「まったく借金まで作るなんて最低だわ」
と、独り言を呟いているとボロボロの玄関ドアをノックされた。
「どなた?」
「イルオラ。僕だよ、ウーベルト」
「あらウーベルトさん!」
ウーベルトはイルオラの幼い頃から歌のレッスンをしてくれている先生だ。借金があってお金を払えなくなっても、こうして今でもレッスンをしながら、話題人となったイルオラの財産管理やスケジュールまでやってくれている。
イルオラは急いでドアを開けた。すぐにふくよかな体のウーベルトが現れた。
いつもの人の良さそうな笑顔を浮かべて彼は挨拶をする。
「おはようイルオラ」
「おはようございますウーベルトさん。どうぞ入って」
家の中へ招き入れ、すぐに友達からもらった食材と共に入ってあった茶葉で紅茶を淹れて出した。
ありがとう、と笑うウーベルトにこちらも笑顔を返し、彼が三十路過ぎには見えないことを今日も思った。
ふくよかな体格もあるが、たれ下がった優しい目や、自然と綻ぶ口角。肌もそこらの若い女よりすべすべしている。
「ウーベルトさんと知り合ってもう十年くらいになりますけど、全然ふけませんのね」
今年二十一になったイルオラがしみじみとそう言うと、ウーベルトは困ったように眉尻を下げた。
「もう、それは言わないでったら」
言う度にウーベルトに注意を受けるが、幼くみえる彼の容姿がそうさせているのだから仕方ない。三十路過ぎでも同世代くらいにみえるのだから特ではないかとイルオラは思うが、ウーベルトはそうではないらしい。
「それで、こんな朝からどうかされましたの?」
「ああ実はね、イルオラにオファーが来ててさ。これが凄い話題になってるやつで……」
そう言いながら何やら革の茶色い鞄から書類を取り出し、そこに書いてあった役のキャスティングに、思わず目を見張る。
「主役イルオラ・マルタ! しかも相手役はあのルロクですって!?」
ルロク・ブランキーニは今、最も評価を得ている人物だ。
演技も一目置かれ、歌も高評価らしい。年は二十四だが、すでにオペラ界の指折りに入る実力者。
「あのルロクとわたしが共演? 本当に?」
「イルオラだってもう人気度はルロクにも劣らないよ。それに昔会った事もあるって言ってたじゃないか」
「そんな! 彼とわたしなんかを一緒にしちゃ駄目です! 彼は天才なんだから!」
イルオラが興奮しながらそう言うと、ウーベルトは紅茶をすすりながら「君も天才だけどね」と苦笑まじりの言葉を零した。
イルオラが六歳の時にはすでにルロクは天才で、子供ながらに発表会を度々催していた。まだ今よりは裕福な暮らしをしていたイルオラはその発表会で、すっかり彼に夢中になったのだ。そして来てくれた客人に挨拶をする彼に、イルオラも声をかけた。
「素敵な声でしたわ! わたしもきっとあなたのようになります」
憧れの彼にそう言えただけで、イルオラは満足だった。
しかし彼は、予想以上の態度でイルオラに接してくれたのだ。
「君みたいな可愛い人にそう言ってもらえて嬉しい。どうもありがとう」
そう言ってにこやかに微笑んでくれた彼の笑顔は、今でも鮮明に覚えている。その言葉と笑顔は一瞬でイルオラを魅了したのだ。
「あのルロクとだなんて! わたしの憧れの人とだなんて!」
「しかも彼からの指名らしいよ」
更に嬉しい報告をしてくれるウーベルトに、イルオラは思い切り抱きついた。いつもの事なのでウーベルトは慌てたりしないが、やれやれとため息をついた。
「イルオラ。君も、もう淑女だろう。いくら幼い頃からの付き合いとはいえ、やめなさい。君のその綺麗な顔が近くにあると、起こしたくもない悪い気が出てきそうになる」
「だってウーベルトさんってば手触りがいいんですもの」
そう言いながら腹をつつくと、思いっきりウーベルトが顔をしかめた。
彼の腹はさわるだけで癒される。
今晩はこの嬉しさを記念して奮発してシチューにしようと、イルオラは満足そうに笑いながら晩御飯を決定した。




