1.メール
酷く暗い色をした重たそうな雲が見えて、男は眼鏡を押し上げて眉を寄せた。
「ひと雨きそうね」
横で同じように空を見上げていた長身の赤髪の女は、僅かに不安をにじませた声で言う。
「街まであと少しだ。急ぐか」
「そうね」
足元においていた荷物を担ぎ直して、男達はまた山道を下り出した。
◇◇◇◇◇
ポツポツと赤の水玉の傘を水滴が濡らすのを見ながら、斎木 雪名は溜息をついた。
鞄にギュウギュウに詰め込まれた教材たちは、ただでさえ一冊一冊が分厚く、肩にずっしりと負担をかけてくる。
受験も間近で、周囲はクリスマス一色なイヴに受験生の雪名は昨日までと変わらず塾へと歩を向けていた。
憂鬱気にチカチカと眩しいイルミネーションを眺めていると、ふとポケットの中の携帯が震えた。
横を通り抜けて行くカップル達を恨めしそうに眺めながら、雪名は携帯を開いた。
差出人:セツナ
本文:
助けて、
思わず顔を顰めた。
「なにこれ……?」
言いようのない気持ち悪さに、雪名はメールから目を離せなかった。
カタカタと携帯を持つてが震えて、戸惑う。
きっとイタズラメールだろう。
そう思っても、意思に反して手の震えは収まるどころか酷くなっていった。
「なんで……」
酷く、嫌な寒気が全身を包んだ。
『きて。きて、あなたはーーー』
響く声は、そこで途切れた。
◇
「あーあー、だからさぁ」
どこか気だるげな声が遠慮も無しに響いて、雪名の意識は浮上した。
ボンヤリとした頭で目に飛び込んできた優しい白の天井を眺めてハッとする。
「ここ……保健室?」
数回しかきたことがないが、なんとなく見覚えがある。
ここは、雪名の通う高校の保健室だ。
ベットに寝かされているらしく、さっきの声は、真っ白いカーテンのような仕切りの向こうからしているらしかった。
「あー、だからぁ、あのさ人の話聞いてる?」
どこか苛立ちをのせた声は、次第にきつくなってくる。
カーテン越しでも、イライラしているのか、指で規則的にリズムを刻んでいるような音が聞こえた。
「うん、だから、別れたいんだよね。俺は」
少しだけ、息を飲んだ。
まさか、生徒の憩いの場とも言える保健室で、別れ話のもつれをきけるとは。
声は、一人分だけなので、どうやら電話のようだった。
雪名は僅かに気まずさを感じて、出て行くのが躊躇われた。
どうしようかと考えあぐねていると、予想外にシャッと音をたてて仕切りが開けられた。
「あ、やっぱ目、覚めてるな。大丈夫か?」
顔をのぞかせた男には、見覚えがあった。
今年就任したばかりの、保険医の若い男だ。
さっきの電話も、多分この保険医だろう。
「あ、はい。あの、ここどこですか?」
「ここ? 見てわかるでしょう、保健室だ」
「ですよね……」
どっからどう見ても保健室だ、疑いようもない。
けど、やはり腑に落ちない。
だって、さっきまで確かに街中にいたはずだ。
変なメールを開いて、それでーーー。
そこからは、記憶がない。
しかし、それで何故突然保健室なんかに……。
「お、速報だ」
ブブッと振動した携帯を開いて、保険医はちょっと嫌そうに「まずいな、このあと出張なのに」とごちた。
速報とは、地震速報なんかの類のことだろうか。
雪名が不思議そうに見ていると、保険医は、君の携帯にも来てるんじゃないの?と言った。
雪名は、そういう類のメールが来るものには入っていないので、首をふろうとしたが、それを遮る様に携帯が震えた。
慌ててポケットに手を突っ込んで携帯を引っ張り出す。
メールの題名は『妖魔速報』だった。
思わず顔を顰める。
また、イダズラメールだろうか。
「どうかした?」
雪名があまりに妙な顔をしていたせいか、怪訝そうに保険医が訪ねてくる。
「いえ、ちょっと……」
言うほどのことでもないと、曖昧に濁して、雪名は愛想笑いを浮かべた。
それより、今は確認しなければならないことが他にある。
雪名は思い切って尋ねる決心をする。
「あの、何で私ここに……」
いるんですか、と続ける前に、キーンコーンカーンコーンと聞き慣れた音に阻まれた。
「おっと、昼休みだ。君、もう体調大丈夫そう?」
「え? はい、えっと…」
体調なんて始めから微塵も悪くない。
ピンピンしてるぐらいだ。
雪名が返答に窮していると、保険医は机の上で資料を整えながらコッチに背を向けた状態で「じゃあ、もう教室にもどりなさい」と言った。
「え、あの、」
「ほら、もう鍵しめるから」
即すように言われて、雪名は慌ててベットから抜け出した。
下に綺麗に並べられた上履きに足を突っ込む。
ふと、そこで雪名はまたも違和感に苛まれた。
(なんで、半袖……?)
今は、冬ど真ん中のしかも冬休みの筈だ。
もしも学校に行くにしたって、制服だって、長袖でにカーデガンにブレザーまで来て登校しているのだ。
なのに。
半袖でもまるで寒さを感じないどころか、暑いぐらいだ。
その暑さは、エアコンから発せられる熱風によるものなかんじゃなく、明らかに湿気をともなったジメジメした夏の暑さのそれだった。
「どーいうこと…?」
呆然とつぶやくと、既に扉の向こうに立った保険医が雪名を即す声が聞こえて、慌てて保健室を出た。
「あー、せっちゃんお帰りー! 大丈夫?」
「優希…。」
教室に入るなり目ざとく見つけて声をかけてきたのは、友人の宇佐見 優希だった。
「心配しんだよ、急に倒れるからー」
「倒れた…? 私が?」
そんな記憶はない。
雪名が困惑していると、優希は驚いた顔をした。
「まさか、覚えてないの?」
「え。ん、まぁ…」
覚えてない、どころではない。
倒れた記憶がないどころか、学校に来た記憶もない。
ましてや、いつのまに冬から夏になったというのだ。
冬眠でもしていたのか、と本気で考えてしまう。
「せっちゃん、今日は朝から様子おかしかったもんね」
「そう……なの?」
雪名は内心首を傾げた。
今日は塾の時間まで一日中家でゴロゴロしていたのだ、優希になんて今の今まで会ってない筈だ。
「んー、だってなんかぼぉっとしててさぁ。ずーっと窓の外見てたんだよ? だと思ったら、授業中に突然立ち上がってそのまま倒れちゃうんだもん」
「え? 何それ……」
それじゃ、まるっきり変人だ。
もちろん、そんなことをした記憶もない。
(なに? 何なの⁈ どういうことよ…!)
頭の中は既にパニックだった。
確か、今は冬で冬休みの筈。
そして、雪名は塾に行く為に街を歩いてた。
それがなんだ、これは。
何故か雪名は夏服を着て、蝉のなく声が聞こえる教室にいる。
まるで理解が追いつかなかった。
「せっちゃん? 大丈夫? 顔色悪いよ、まだ保健室に居たほうがいいんじゃない?」
「あ、うん……。ごめん、やっぱり私今日は早退する。先生にもそう言っといて」
「え、あ、うん。それはいいけど……」
言うが早いか、雪名は鞄も持たずに教室を飛び出した。
うしろで優希が何か言っていたが、振り返らず走った。
嫌な汗が、こめかみを伝って、落ちた。