はじめてのことば
足に噛みついたその金具は、どんなにあばれても外れることはありませんでした。
動けば動くほどそれは足を痛めつけ、はちみつ色の毛を真っ赤な血がよごしました。
どのぐらいここにいるのでしょうか。身動きがとれずに座りつづけているその小鹿には、時間がわかりません。なんせここは森の奥ふかくだったので、木で太陽がかくれていつも薄暗いのです。
小鹿はけがをしている自分の後ろ足を見て小さく鳴きました。
いたくて、いたくて、泣きたいのに涙が出ません。助けてほしいけれど、まわりにはほかの生き物は見当たらないのです。このままひとりぼっちで死んでしまうのでしょうか。不安になってきます。
もう一度、小鹿は弱々しく鳴きました。そのときでした。小鹿は頭を上げて耳をぴくぴくと動かします。人間の声が聞こえたのです。
たすけてもらえるかもしれない、という気持ちと、こわい人だったらどうしよう、という気持ちが一斉に頭に浮かびます。
がさがさとしげみが揺れ、足音がどんどん大きくなっていきます。小鹿はこわくなって立ち上がろうとしますが、足がいたくてうまく立てません。
がさがさ、がさがさ。
ついに人間が姿をあらわしました。小鹿にとっては初めて見る男の子でした。青い服を着ています。その男の子は、こちらを見て驚いたようです。あわてて後ろを向き、誰かに話しかけます。
「ワト、こっちにいたよ」
この男の子は誰だろう。小鹿はぼんやりと考えます。
またしげみががさがさと動き、男の子がもう一人あらわれました。二人目の男の子は赤い服を着ています。
今度は小鹿が驚きました。二人とも、同じ顔をしているではありませんか。髪の色も同じく二人とも黒色です。
赤い服の男の子がいいました。
「わなにかかったんだな、けがをしている」
「どうしよう」
青い服の男の子が心配そうに近づいてきます。
小鹿はかれを見上げて小さく鳴きました。二人はこわい人には見えません。たすけてくれるのでしょうか。
赤い服の男の子が、となりに立ちました。
「つれて帰って、手当てをしてあげよう。ボクが抱えるから、ヤトは足を支えてやるんだ」
青い服の男の子は大きくうなずきました。二人は小鹿を抱えて歩きだします。小鹿は二人を見上げていました。
青い服の男の子が、ヤト。赤い服の男の子が、ワト。
同じ顔の二人の名前を忘れないように、小鹿は心のなかで何回もつぶやきます。人間の言葉は話せないので、心のなかで、そっと。
ヤトとワトの家はとても大きいものでした。人もたくさんいます。小鹿にはめずらしいものばかりで、ついついきょろきょろしてしまいました。
小鹿の手当てをしてくれたのは、金髪の男の人でした。ヤトやワトよりも少しお兄さんに見えます。男の人は金具を慎重にはずして、けがに薬を塗って包帯をていねいに巻いてくれました。金具がはずれただけで、とてもらくになりました。
金髪の男の人の両脇で心配そうにこちらを見ていたヤトとワトが、ほっと息を吐いています。二人が見つけてくれなければ、小鹿はあのままきっと死んでいたでしょう。
ヤトとワト、それから手当てをしてくれた男の人に、小鹿はお礼をいいたいのですが、口からでるのはきゅーきゅーという鳴き声ばかりです。
ワトがやさしく小鹿の頭をなでます。
「いたいのか?」
さっきの鳴き声がいたがっているように聞こえたみたいです。
ちがうよ、ありがとうっていったの。そう伝えたいのですが、かれらには通じません。
小鹿は悲しくて、うつむいてしまいました。
どうしたら、ありがとうが伝わるのでしょう。いま人間の言葉が話せたらどんなにいいか。人間であるかれらのようになりたい。小鹿は初めてそう思うのでした。
夜になって月が空たかくまで上ったころ、小鹿はヤトとワトの寝室のすみで丸まっていました。二つの寝息を聞きながら、ずっとずっと考えています。
二人は小鹿に食事も与えてくれました。それになんと、ルカ、というすてきな名前までつけてくれたのです。小鹿は生まれてはじめて、名前をもらいました。うれしくて、飛びはねました。もちろん、けがをしているので飛ぶことはできないのですが。
親切にしてくれたかれらに、ありがとうを伝えたい。ただそれだけなのです。
人間になって、ヤトやワトといろんなことを話してみたい。人間になったら、二人のためにお礼だって、なんだってできるのに。いつの間にか、小鹿はヤトとワトのことをとても好きになっていたのです。
人間になりたいの。そう心で願ったときです。
とつぜん、部屋のなかに光があふれ、小鹿は飛び起きました。ヤトとワトは気づかないのか、起きる気配はまったくありません。光はどんどんつよくなり、まぶしくて目を開けていられません。
しばらくして、急に女の人の声が響きました。
「ルカ」
今日つけてもらったばかりの名前を呼ばれ、小鹿は驚いて目を開けました。すぐ側に髪の長い女の人が立っています。とても美しい人でした。部屋は真っ暗だというのに、彼女の金の髪は月のように光り輝いています。
神さまだ。小鹿はそう思いました。
「ルカ、人間に、なりたいの?」
女の人は小鹿の前にしゃがみ、やさしくたずねました。小鹿は大きくうなずきます。
「はい、人間になりたいです。そして、助けてくれた人たちにありがとうって、いいたいです」
「人間ははやく走ることも、たかく飛ぶこともできないけれど、それでもなりたい?」
「かまいません。わたしは、ヤトとワトに恩返しをしたい」
小鹿が力強く言うと、女の人はにっこりと笑いました。
「もう、人間になっているわ。自分の身体を見てごらん」
驚いて見おろすと、そこには、五本の指が見えました。身体中の毛はなくなり、腕も足もすべすべしています。そのかわりに頭にはふわふわしたはちみつ色の長い髪が生えていました。白い服も着せられています。
「服は特別に。二人が起きたら、ルカの想いを伝えなさい。わたしはずっと、ルカのことを見守っていますよ」
ふわりと風が通り抜け、いつの間にか女の人は消えていました。
ルカがきょろきょろと女の人をさがしていると、二つのベッドが同時に音を立てました。同じ顔の二人がこちらを見ています。
「ルカ、なのかい?」
ヤトがたずねました。ルカは危なげに立ち上がって、よたよたと二人に近づきました。いままでずっと四本足で歩いていたのです。やっぱり二本足ではうまく歩けません。ベッドにたどり着いたルカは、深呼吸をしました。
「わたし、ヤトとワトにありがとうって、いいたかったの。ずっとねがっていたら、神さまがわたしを人間にしてくれたの」
口を動かすと、人間の言葉が出ました。これでやっと伝えられます。ヤトとワトは驚いて顔を見合わせています。
「ヤト、ワト、ありがとう。あなたたちのおかげで、わたし、たすかった」
ルカは心からの感謝の気持ちを、表情にあらわしました。そう、笑顔として。
ヤトとワトも嬉しそうに笑いました。
「どういたしまして」
二人の声はきれいに重なっていました。
それから人間になったルカは、ヤトやワトと共に、とても楽しい日々をすごしました。