「いふぁらきふぁふ」
彼の寝ぼけて、朦朧とした思考には解らなかった。何故、自分の部屋の、しかもベッドの上で、掛け布団と毛布まで綺麗に被って寝ていたのか。カーテンの隙間から床に伸びる光の線を見ながら、粉雪のように微かな記憶を探る。確か高校時代の友人と遅くまで飲み合い、仕事の愚痴やら、最近の恋愛事情やらをお互いに語り合っていた筈であった。
ふと、彼は起き上がって辺りを見渡すと、さらにおかしなことに気付く。彼は月三万五千円のアパートで一人暮らしをしていたのだが、ここはどう見ても彼の実家の部屋だった。カーテンや家具類の趣味――弟の趣味でゴツくてスマートがいいんだとか――や位置は変わっているが、あの扉の傷、この窓の錆、あの天井の染み。どれも彼にとって見覚えのある、懐かしいものだった。
黒く角ばったデジタル時計のLEDの数字を見ると八時五分ちょうど。
扉の向こうからは、包丁の音が微かに聞こえてくる。彼はもう一度横になり、僅かな扉の隙間から漂ってくる、鼻と胃を刺激する味噌汁の匂いを味わう。彼の頭には、豆腐と長ネギと油揚げの入ったシンプルでありながら、どうしても同じ味にならない、あの味噌汁が浮かんでいた。
その味噌汁の味を思い出してると、階段を上ってくるスリッパの音が聞こえてくる。彼も再び上体を起こし、大きく伸びをする。一度面白半分で着けた、女性用の矯正下着を脱いだ時の感覚が甦る。
「起きたんかい」
「ああ、母さん。味噌汁飲みたいな」
「おはようも言わずにそれかい? もう出来てるから早く降りてきなさい」
母親は笑って言うと扉を開けたまま出て行った。味噌とダシ――ダシと言っても顆粒のだが――の匂いが一段と鼻を刺激する。
ベッドから立ち上がった彼は立ちくらみでふらつきながらも、部屋を出て階段を降りていった。
一階では、父親がテレビを見ながら焼き魚をつついていた。父親は彼がテーブルに着くと、顔も見ずにおはようと言った。釣られて彼もおはようと言う。この二人のやり取りは、彼が一人暮らしする前から変わっていなかった。これが普通だった。
変わらない二人に嬉しそうな母親は、彼の前に白飯と味噌汁、それに父親のものより少し大きい焼き魚を置いた。
「どうぞ」
「俺のより魚が大きいな」
早速、父親が彼の焼き魚を見て母親に小さく抗議する。
「いいじゃない。久しぶりにうちで食べるんだから。それに、お父さんのは焼いてるうちに小さくなっちゃったんですよ。本当ですよ」
「むう」
母親は父親をやんわりと言いくるめると、台所から自分の分も持ってきてテーブルに着いた。
「さあ食べましょうか。いただきます」
彼も箸を取り、食べ始める。まず白飯を一口食べる。暖かい白飯の甘い匂いが口から鼻に抜ける。そして、彼はいただきますを言ってないことに気づく。
「いふぁらきふぁふ」
数ヶ月ぶりに書きました。内容はともかく、いいペースで書けました。
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読んでいただきありがとうございました。