1-3 始めてください
【CASE5 婚約者ヴィヴィアナ】
アルベルトから託されたベルベットの箱を胸に抱え、ヴィヴィアナは公爵邸への帰路を急いでいた。
馬車に揺られながら緊張した表情を浮かべているヴィヴィアナを、同乗している彼女の従者が心配そうに見つめていた。
「これはね、代々王子妃に贈られる国宝ともいうべき代物よ。アルベルト様に託されたの。そのときが来るまで我が公爵家でお預かりすることになったわ」
ヴィヴィアナは表情を緩め、従者を安心させるように言った。
「預かる? お嬢様は第三王子妃になられるのですよ? そちらはお嬢様に贈られたものでは?」
不思議そうな顔をする従者に、ヴィヴィアナは小さく笑った。
「そうだったら良かったんだけどね……」
「はい? 今なんと?」
「ううん、なんでもないわ」
ヴィヴィアナは窓の外に視線を向け、あの日のことを思い出していた。
「これ、本当に口に入れても大丈夫なのかしら……」
庭園のガゼボでアルベルトを待ちながら、ヴィヴィアナはある人物からもらった、上質な紙に包まれた小さな雪玉のようなキャンディーを見つめ、迷っていた。
(アルベルト様の気持ちが知りたい……。でも、後悔しないかしら。望む答えなら嬉しいけれど、それでもきっと罪悪感は残るわ。それに、もし否定的な答えだったら、わたしはどうしたらいいのかしら……)
「ヴィヴィアナ、お待たせ」
ヴィヴィアナが考え込んでいると、突然アルベルトの声が聞こえ、ヴィヴィアナは驚いた拍子に持っていたキャンディーを落としてしまった。キャンディーはテーブルの上で跳ね上がり、スリーティアスタンドに並べられていたブールドネージュの中に混ざってしまった……!
(どどど、どうしましょう!? どれがいただいたキャンディーかわからなくなってしまったわ……! いいえ、きっとあれね。他のものより少しだけ白い……ような気がするもの……!)
「ヴィヴィアナ、どうかしたのかい?」
「いいえ! どうもしませんわ!」
「でも、少し顔色が悪いようだが……」
「そんなことありませんわ! 至って元気です!」
「なら良かった。そうそう、先日の件だけど——」
笑顔を浮かべながら上の空で返事をしつつ、ヴィヴィアナはアルベルトがキャンディーを食べないように願っていた。すると、慌てた様子のメイドがやってきて、アルベルトの侍従に何やら告げた。アルベルトに近づいた侍従が彼に耳打ちすると、彼は心苦しそうな表情を浮かべて言った。
「すまない、ヴィヴィアナ。急な案件が発生した」
「承知いたしました。では本日はこれで失礼いたしますわ」
(よ、良かったぁー!)
ヴィヴィアナがそう安心したのも束の間、アルベルトは立ち上がる際にスリーティアスタンドに手を伸ばし、そのキャンディーを口に入れてしまった!
(!!)
「ヴィヴィアナ、ではまたね」
「えっ、ええ、あ、ええと、あっ、はい……」
ヴィヴィアナは焦りながら答え、呆然とアルベルトを見送った。そしてはっと我に返り、慌てて彼を追いかけた。
息を切らしたヴィヴィアナがアルベルトに追いついたとき、アルベルトは自室のベッドの上でペットの兎を抱きながら言った。
「大丈夫。彼女は一時的な婚約者に過ぎない。宰相がどうしてもと言うから断れなかったんだ。ときが来たらこの関係を解消して、僕は愛する人を妻に迎えるんだ」
その言葉を聞いて、ヴィヴィアナは心が凍りついた。乱れた呼吸がさらに浅いものになった。
(あれは紛れもない彼の本心だ。だってあのキャンディーは、『本音を語る魔法のキャンディー』なのだから……)
ヴィヴィアナは学園時代に彼を慕う令嬢たちから言われた言葉を思い出した。
『アルベルト様とヴィヴィアナ様の婚約は政治的な取り決めによるもの。あなたはアルベルト様が望んだ婚約者ではないわ』
それでも、ヴィヴィアナは良きパートナーになろうと努力してきた。アルベルトを愛していたからだ。けれどこのとき、自分はアルベルトが本当に愛している女性と結ばれるまでの、言わば仮の婚約者なのだと知ってしまったのだ。
「ちゃんと笑えていたかしら……」
ヴィヴィアナは馬車の窓から澄み切った青空に視線を向け、つぶやいた。
(アルベルト様はわたしが恥を掻かぬよう、仮の婚約者なのにもかかわらず、この宝石を預けてくれた。優しい方だから、きっと婚約解消後のわたしの心配もしてくれているわ。大丈夫、隣国に嫁いだ伯母様の伝手で、隣国へ向かう準備も既に整ったもの。アルベルト様が愛する方と結ばれるよう、わたしは彼を心から応援しよう)
ヴィヴィアナはベルベットの箱を開け、青く輝く宝石を見つめた。
***
【CASE6 事務官エヴァリーナ】
エヴァリーナは両手で口を押さえながら、第二騎士団執務室を飛び出した勢いのまま、女性更衣室へと駆けこんだ。
部屋の隅の壁にもたれかかり、ズルズルとしゃがんで息を整える。
「はぁ、はぁ……。この効力いつになったら切れるのかな……」
誰に問うでもなくそうつぶやいたエヴァリーナは、過去の出来事を思い出していた。
当時まだ学生だったエヴァリーナは、侍女を連れ街で官吏試験のための資料を探していた。どれがいいか迷いながら何軒かの書店を回っていると、突然現れた背の高い男性が「こっちだよ」と、エヴァリーナの手を引き歩き出した。
見知らぬ男性だったが、エヴァリーナは不思議と怪しさを感じなかった。戸惑いつつもその男性について行くと、歩いていたはずの大通りに出た。エヴァリーナはいつの間にか裏通りに迷い込んでいたのだ。
彼の顔を見上げると、彼は先ほど歩いてきた裏通りを鋭く睨みつけていた。そのとき、彼が不審者から自分を守り、大通りに戻してくれたことに気づいた。
「ご親切に感謝いたします。ルプシアン公爵令息様とお見受けいたします。わたくし共はアウレウス子爵家の者でございます」
呆然としていたエヴァリーナを察した侍女が礼を述べ、その声で我に返ったエヴァリーナは慌てて頭を下げた。
「危ないところを助けていただき感謝申し上げます。わたくしはエヴァリーナ・アウレウスでございます」
それが、まだ騎士養成学校の学生だったエルネストとエヴァリーナの初めての出会いで、彼女が恋に落ちた瞬間だった。
エルネストはエヴァリーナが官吏試験のための資料を探していると知ると、「それならあの書店がいいよ」と案内を申し出てくれた。
「官吏試験を受けるのか。やはり法務部や財務部志望なのかな? 参謀部や騎士団事務局は女性には難関だけど、もし君が騎士団所属になってくれたら、きっと俺たちは頑張れるだろうな」
エルネストは明るい笑みを浮かべ、片目を閉じる仕草を見せた。
「いいえ! わたしは騎士団事務局志望です!!」
法務部志望だったエヴァリーナは、瞬時に方向転換を決めた。
エヴァリーナが官吏試験に合格したとき、エルネストは第二騎士団所属の騎士になっていた。エヴァリーナは当然のように第二騎士団への配属を希望した。勤務初日、緊張しながら挨拶をしたエヴァリーナを、エルネストは覚えていた。
「お、君か。官吏試験に合格してここまで来たんだな。すごいじゃないか」
「はい! ありがとうございます。本日よりよろしくお願いいたします」
数ヶ月が過ぎると、エルネストはその実力と信頼から副団長に昇進した。新たな役職についても、変わらない親しみやすさで部下を導いてくれるその姿に、エヴァリーナはエルネストに対する尊敬の念をますます深めた。
エルネストは、部下に対してもよく気を配る人物だった。記念日や仕事で成果を上げたときなど、部下たちにさりげない贈り物をしてくれた。エヴァリーナはその心遣いに触れるたび、彼への特別な気持ちを募らせていった。
そんな日々を過ごしていたある日、団長がエヴァリーナに見合いを勧めてきた。この国の結婚適齢期は十八歳から二十歳。エヴァリーナは先日十九歳を迎えたのだ。
(わたしはエルネスト様に助けてもらったあの日からずっと彼が好きだ。けれどわたしはしがない子爵令嬢で、エルネスト様は公爵家のご令息。身分的にも釣り合わないもの……)
この想いは叶わないものだ。エヴァリーナはそう理解していたが、エルネストには婚約者も恋人もいないため、つい夢を見てしまうのだ。
(わたしも貴族の端くれだもの。いずれは結婚し、義務を果たさなければならないわ。けれど、自らこの気持ちに終止符を打つのは難しい。彼の気持ちを知ることができたらそれができるかもしれない……! でも、どうやって聞く……? 告白なんかしたら、きっと彼を困らせてしまうわ……)
エヴァリーナがそう思っていたとき、ある人物から『本音を語る魔法のキャンディー』をもらった。
そしてあの日、エヴァリーナは誰もいない執務室の自分の席に座り、上質な紙に包まれた小さな雪玉のようなキャンディーを手に、エルネストを待っていた。
「これ、本当に食べても平気なのかな……」
エヴァリーナがそう迷い出したとき、背後の扉が開き、エルネストが執務室に入ってきた。
(どうしよう!? やっぱりまだ心の準備ができていないわ……!)
エルネストの足音が近づき、エヴァリーナは咄嗟に机の上の紅茶の入ったカップへキャンディーを落とした。
「ん? どうかしたか、エヴァリーナ」
「いいえ、何も」
エルネストに尋ねられ、エヴァリーナは平静を装いながら、紅茶をひと口飲んだ。
(あっ! 飲んじゃった……っ!!)
その直後、エヴァリーナは口をきゅっと結んだ。声を出すことができない。なぜなら、エルネストに「好きだ」と言いたくてたまらなくなってしまったからだ。
エヴァリーナは冷や汗をかきながら、全身全霊で気持ちを抑え込み、慌てて執務室を後にした。
キャンディーの効力は消えず、エヴァリーナはエルネストを見ると、気持ちを告げたくてたまらなくなってしまう。しかし、それは駄目だと彼女は必死に耐えている。
エヴァリーナは更衣室の隅に座ったまま、エルネストが付けた髪留めをそっと外した。手に収まる小さな飾りを指でなで、食い入るようにじっと見つめた。




