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『水鏡の街で、名前をほどく(ヴェネツィア)』

作者: 百花繚乱

目次


1. 乾いた成功

2. 招かれない受賞式

3. 水の迷路

4. 仮面の郵便局

5. ガラスの欠片

6. 失われた洗礼名

7. 沈む家族写真

8. サン・マルコの鐘

9. 潮が引くとき

10. もう一つの原稿

11. 水鏡の告白

12. 名前をほどく朝


---


## 1. 乾いた成功


賞状の紙は、指先に吸いつくほど上質だった。

壇上で差し出されたそれを受け取る瞬間、会場の拍手は波のように押し寄せたのに、私はどこか他人事のままだった。


「凛さん、次は海外プロモーションです。ヴェネツィア文学祭、スケジュール押さえてます」


編集者の丸い声が、ホールの壁に反射して戻ってくる。私は「はい」と言いながら、喉の奥で砂が擦れるような感覚を覚えた。成功は、いつからこんなに乾いたのだろう。


控室の鏡の中の私は、完璧な笑顔をしている。けれどその笑顔は、舞台装置みたいに取り外せそうだった。

私は“凛”という名で小説を書いている。本名は別にある。父がつけた名前。十年前、私はその名前を捨てた。


受賞の夜、席次表に目を落としたとき、心臓が一度だけ強く跳ねた。

招待していないはずの欄に、父の名前が印刷されていたからだ。


父の名を見た途端、幸福の膜が破れた。

拍手は遠ざかり、照明の白さが痛い。私は受賞の喜びを抱えたまま、底の抜けたコップみたいに立ち尽くした。


---


## 2. 招かれない受賞式


父は現れなかった。代わりに、ホテルのフロントから「お荷物が届いています」と連絡が来た。

黒い封筒。厚みがある。指で触ると、紙が冷たい。


封を切ると、古い航空券が一枚だけ落ちた。

行き先:VENEZIAヴェネツィア

便名の横に、鉛筆で走り書きがある。


――“名前を返しに行け。水の街で待つ。”


「待つ」なんて、勝手だ。私は父を待っていない。待つこと自体を、十年前にやめた。

それでも、黒い封筒の底に残った匂いが、胸の奥を刺した。古いタバコと、雨のコンクリートの匂い。私が子どもの頃、玄関に染みついていた匂い。


翌朝、出版社から電話が入る。

「凛さん、すみません。重大な件です。次作の企画、スポンサーが降りるかもしれない。『実名暴露系』の告発が出回ってて――」


私は耳が熱くなるのを感じた。

「告発?」

「“凛”は盗作だ、過去を隠している、家族に問題がある、って。匿名アカウントが“証拠”をちらつかせてます」


家族。

父。

言葉が喉で詰まる。私は「確認します」とだけ言って電話を切った。手が震えて、スマホを落としそうになる。


黒い封筒は、単なる挑発じゃない。

父は、私の仕事と人生が崩れるタイミングを、狙っていたのかもしれない。


---


## 3. 水の迷路


ヴェネツィアは、冬の薄いガラスみたいな空をしていた。

空港から水上バスに乗ると、エンジンの低い振動が骨に響く。水面は灰色で、建物の影がゆっくり揺れ、世界全体が呼吸しているようだった。


私は地図アプリを見ながら、指定された住所へ向かった。

路地は狭く、曲がるたび景色が変わる。洗濯物が頭上で揺れ、石畳は湿って滑りやすい。潮の匂いが、靴底から上がってくる。


目的の扉には、仮面の絵が描かれていた。カーニバルの、笑っているのに目が空っぽの仮面。

呼び鈴を押す。反応はない。


もう一度押しかけようとしたとき、扉の下から、何かが滑り出てきた。

小さな封筒。宛名がある。――私の本名。


喉がひゅっと鳴った。

私はその名を、十年ぶりに“見た”。

声に出して読めない。読んだら、また父の鎖が戻ってくる気がした。


封筒を開けると、鍵が一つと、手書きの地図。

鍵には刻印がある。

LUCIA。


ルチア。

なぜだろう。その名前を見た瞬間、胸の奥がじんと痛んだ。覚えていないはずの記憶が、皮膚の下で動くような。


地図が指す先は、郵便局のような古い店だった。


---


## 4. 仮面の郵便局


店の看板には、文字が薄れて読めない。けれど扉の取っ手には、小さな仮面がぶら下がっていた。

中に入ると、紙とインクと、乾いた木の匂いがした。壁一面に、封筒が並んでいる。棚には宛先のない手紙が、整然と差し込まれていた。


カウンターの奥から、白髪の女性が現れる。小柄で、目が鋭い。

彼女は私を見て、迷いなく言った。

「あなた、名前を探しに来たね」


私は息を呑む。

「……あなたは」

「私はアダ。ここは“投函されなかった手紙”を預かる店。誰にも届かない手紙を、ここに置いていく。代わりに、必要な人には返す」


背中が冷たくなる。

「父が……ここに?」

アダは頷いた。

「彼はここで働いていた。仮面を被ってね。顔を隠して、誰かの言葉を運んだ。自分の言葉だけは運べないまま」


私は笑いそうになった。父らしい。

“言えない”ことだけを、偉そうに抱え込む人。


アダは引き出しから、小さなガラスの箱を出した。ムラーノのガラス。薄い青。水の欠片みたいに透明。

箱の中に、欠片が一つ入っている。表面に、細い刻印。


――「ごめん」


たった二文字。

私は喉の奥が熱くなり、目の奥が痛んだ。十年分の沈黙が、二文字に圧縮されている。

アダは淡々と言う。

「水の街は沈む。沈むから、言葉は浮かべないといけない。浮かべない言葉は底に溜まって、腐る。あなたの仕事も、今、腐りかけてる」


私は告発のことを話した。匿名アカウント、出版社の焦り、次作が飛びそうなこと。

アダは一度だけ眉を上げた。

「それ、あなたの父のせいじゃない。あなたの“名前”のせいだよ。名前をほどかないと、誰かに結び目を作られる」


結び目。

私は鍵を握り締めた。LUCIA。


---


## 5. ガラスの欠片


その夜、宿の窓を開けると、運河の水音が近かった。

ぽちゃん、と小さな音がする。水が、何かを飲み込む音。私はスマホを開き、告発アカウントを見た。


「凛は偽名で逃げた」「家族を捨てた」「本名は――」


本名が晒されそうになっている。

十年守ってきた距離が、画面の指一本で破られる。


私はノートを開いた。原稿用紙じゃない、普通の罫線のノート。

そこに、本名を書いてみた。

一文字目で手が止まる。

二文字目で胸が締まる。

三文字目で、なぜか涙が落ちた。


私は、父の名から逃げたくて、本名を捨てた。

でも、捨てたのは“父”だけじゃない。

本名で呼ばれていた頃の私――子どもの私、泣けた私、怒れた私も、一緒に捨てた。


鍵LUCIAは、明日の朝、教会の地下を開けるらしい。

私はガラスの欠片を手のひらに乗せた。冷たい。

「ごめん」

父の謝罪なのか、私の謝罪なのか。どちらでも、どちらでもない気もする。


水音が、部屋の静けさをゆっくり削る。

私はその音に合わせて、息を吸った。

明日、何かが壊れる。

壊れないと、始まらない。


---


## 6. 失われた洗礼名


朝、サン・マルコ広場へ向かう道は、観光客が少なかった。空気が冷たく、吐く息が白い。

広場の端の小さな教会。地図の印。私は鍵を差し込む。金属が擦れる音。扉が、重く開く。


地下へ降りる階段は湿っていた。石の壁が、ひんやりと汗をかいている。

最下段に降りると、薄暗い部屋がある。そこに、写真が貼られていた。


若い父。若い母。幼い私。

――三人が笑っている。

知らない笑い方だ。父がこんな風に頬を緩めるところを、私は見たことがない。


写真の隅に、ペンで書かれた文字。

“Lucia”


私は息を止めた。

洗礼名。

そんなものが私にある? 私は宗教も、儀式も、知らない。

けれど、文字は確かに私を指していた。


壁の奥に、もう一枚の紙が貼られている。父の筆跡。

“この名は、あなたに光を渡したかったからだ。けれど私は、光の渡し方を間違えた。”


光。

私は、喉の奥に硬い塊があるのを感じた。怒りでも、悲しみでもなく、言えなかった言葉の塊。


スマホが震える。出版社からだ。

「凛さん、今、告発が拡散してます。本名らしき情報も――。どうします? 記者が動き始めました」

私は地下の湿気の中で、短く息を吐いた。

「本名は……私が話します」

自分でも驚くほど、声がはっきり出た。

言葉を外に出すとき、空気は痛い。でも、黙って腐るよりは痛い方がいい。


---


## 7. 沈む家族写真


地下室の奥に、水が溜まっていた。潮が満ちたときに入ってくるのだろう。床の隅が濡れ、石の匂いが強い。

水面に、写真が一枚浮いていた。父の最近の写真。痩せた顔。目が深い。


私は写真を拾い上げる。紙が柔らかくふやけている。

裏にメモがあった。


“私はもう長くない。

返すというのは、奪わないことだ。

あなたが選べるようにすることだ。”


胸が、ぐっと縮む。

父が病気? それとも嘘?

父は嘘が下手だった。だから黙ることで誤魔化した。

このメモも、黙りの延長なのかもしれない。


足元の水が、微かに動いた。

水の下に、封筒が沈んでいる。私は手を入れ、冷たさに歯を食いしばりながら引き上げた。


封筒には、仮面の印。

中には、もう一枚の航空券。日付は今日。

到着:ヴェネツィア

発:ミラノ

そして、座席番号。


父は今日、来るつもりだった?

私は時計を見た。時間は、もうすぐ正午。

胸の奥で、何かが走り出す。私は地下から飛び出し、路地を走った。石畳が滑る。息が切れる。運河の匂いが濃くなる。


---


## 8. サン・マルコの鐘


サン・マルコ広場の鐘が鳴った。

その音は、空気の中で鋭く立ち上がるのに、水に触れた途端、柔らかく崩れる。ヴェネツィアの音は、いつも水に負ける。


私は広場の端、柱廊の影で息を整えた。

告発アカウントが、さらに投稿している。私の本名が、半分だけ晒されていた。あと少しで全部だ。


そのとき、目の前の人波が、一瞬だけ割れた。

仮面を売る屋台の向こう、杖をついた男が見えた。

帽子を深くかぶっている。けれど歩き方が、父だった。膝をかばうような、あの癖。


私は足が止まった。

十年分の怒りが、胸の底でうごめく。

会いたくない。

会わなければ、また傷つく。

でも――今逃げたら、私は一生“逃げる側”のままだ。


私は男の前に立った。

「……来たの?」

男は顔を上げた。

父だった。目の下に濃い影がある。けれど、私を見る目は逃げなかった。


「凛」

父は私のペンネームを呼んだ。

その呼び方が、妙に優しくて、私は逆に腹が立った。


「私の本名を、晒そうとしてるのはあなた?」

父は首を振った。

「違う。あれは――お前の“結び目”に寄ってくる奴だ。名前を隠せば隠すほど、結び目は強くなる」

「じゃあ、どうして今さら」

父は杖を握り直し、息を整えるように言った。

「返しに来た。お前の名前を。俺の手から、ほどいて」


その言葉は、鐘の音みたいに胸に落ちた。

鋭くて、すぐ柔らかくなって、消えない余韻だけ残る。


---


## 9. 潮が引くとき


父は私を、運河沿いの小さな橋の下へ連れていった。観光客の視線が届きにくい場所。潮が引き始め、水位が少し下がっている。水面に、空の灰色が映る。


父は封筒を差し出した。黒い封筒。最初に届いたものと同じ。

「これが最後だ」

私は受け取れなかった。

父は封筒を、自分で開けた。中から出てきたのは、一枚の紙。手紙だった。


「ごめん、と書くのは簡単だ」

父は声を絞るように言った。

「だから俺は簡単な言葉ばかり選んで、肝心なことを黙った。お前に必要なのは簡単じゃない言葉だ」

父は手紙を読み上げた。震える声で、でも止まらずに。


“お前が俺を嫌う理由も、愛する理由も、両方持っていい。

名前も、両方持っていい。

俺がつけた名前は、俺の所有物じゃない。

お前が選ぶためのものだ。”


私は、涙が出そうになって堪えた。

「愛する理由なんてない」

そう言い切りたかった。言い切れれば楽だ。

でも、十年前の私が捨てたもの――本名で呼ばれていた私が、胸の奥で小さく首を振った。


父はさらに言った。

「告発のやつは、俺の昔の取引相手だ。俺が逃げたツケが、お前に来てる。だから俺は、ここで全部引き取る」

「引き取るって、どうやって」

父は笑った。ほんの少しだけ。

「俺の名前を出す。俺が悪者になるのは、慣れてる」


その言い方が、ずるい。

父はずっと、悪者でいることで、家族を守ったつもりでいたのだろう。

守る方法を間違えて、全部壊したくせに。


私は、息を吸って、吐いた。

「私は……怖かった」

声が、思ったよりはっきり出た。

「本名が怖かった。あなたの匂いが、あなたの影が、ずっとついてくるから。だから捨てた。でも捨てたら……私も薄くなった」


父は、目を伏せた。

「それが……俺の罪だ」


---


## 10. もう一つの原稿


その夜、アダの店に戻ると、棚の一番上から一通の封筒が出された。

宛名は“Lucia”。

中には、私が見たことのない原稿が入っていた。手書きの短編。父の筆跡。


タイトルはない。

内容は、水の街で娘を見失う父の話だった。娘の名は、Lucia。父は仮面を被り、娘に声をかけられないまま、手紙だけを預け続ける。


読み終えたとき、私は初めて理解した。

父は、自分の物語を“私に書かせる”ことで、謝罪を代替してきたのだ。

私は父の沈黙を材料にして、読者が泣ける形に整え、売れる物語にしてきた。

それが乾いた成功の正体だった。


スマホが鳴る。出版社。

「凛さん、父親の件、どうしますか。会見を――」

私は答えた。

「私が話します。私の言葉で。父のせいにして終わらせない」

言った瞬間、喉の奥が熱くなった。

私の声だ。私の責任だ。

“凛”の声でも、“本名”の声でもなく、今ここにいる私の声。


---


## 11. 水鏡の告白


翌朝、父と私は、静かな運河沿いを歩いた。水が鏡みたいに空を映す。建物が歪んで、現実が少し柔らかくなる。


「ルチアって、なんで?」

私が聞くと、父は少し時間を置いて答えた。

「お前が小さい頃、夜泣きがひどかった。母さんが抱いても泣き止まない。俺が抱くと、余計泣く。だから俺は歌った。意味のない歌を。すると、お前は一瞬だけ静かになった」

父は喉を鳴らす。

「その時、母さんが言った。“この子は、光に触れると静かになる。ルチアみたいだ”って。ルチアは光って意味だ」


私は胸が詰まった。

私は父の歌を覚えていない。覚えていないのに、なぜか耳の奥が疼く。

失った記憶は、失ったままじゃない。皮膚の下に残って、たまに痛む。


父は続ける。

「母さんが出ていった日、俺はお前の名前を呼べなかった。呼んだら、壊れると思った。壊れたのは……呼ばない方だった」

父の声が震える。

「だから今、呼ぶ。返す。お前の名前は、お前が選べ」


私は立ち止まった。

水面に二人の影が映る。歪んでいるのに、確かにそこにいる。

「私、まだ許せない」

私は言った。

「でも……憎むだけも、疲れた。だから、ほどく。少しずつ」

父は頷いた。

その頷きが、初めて“父”に見えた。威張る人でも、黙る人でもなく、ただ間違えた大人。


---


## 12. 名前をほどく朝


帰国後、私は小さな記者会見の場で、マイクの前に立った。

ライトが眩しい。喉が乾く。心臓が速い。


「私は“凛”という名で書いてきました。ですが、私には本名があります」

私は本名を言った。

言った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。痛いけれど、気持ちがいい痛み。長く締めていた紐が緩む痛み。


「私は家族のことを隠していました。隠して、物語にしました。けれど、隠すことで守れるものは少ない。私はこれから、隠さない部分も書きます」

会場が静かになる。

誰かのペンの音が、やけに大きい。


会見の後、編集者が小さく言った。

「……大丈夫?」

私は笑った。貼りついた笑顔じゃない。

「大丈夫じゃない。でも、書ける」

それは、私の新しい契約だった。


夜、机に向かい、次作の冒頭を書いた。

主人公の名はLucia。

水の街で仮面を外し、名前を選び直す人の話。


窓の外で、冬の風が鳴る。

私はペンを置き、静かに息を吸った。

乾いた成功は、もういらない。

私は、湿った言葉で生きていく。

水鏡の街で、名前をほどいたから。


そして、ほどいた糸は、切れなかった。

糸は結び直せる。

結び直すのは、私だ。

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― 新着の感想 ―
読み終えたあと、胸の奥がじんわり痛くて、しばらく画面を閉じられませんでした。 この物語は「親子の和解」や「再生」を安易に描かず、名前・仕事・成功・沈黙という複数の層を、水の街ヴェネツィアの湿度で包み込…
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