18
海淵から帰った夜、賢はノートに一つの問いを書いた。
——防具がない。
岩穿でコーラルクラブの爪を受けたとき、魔力膜があったから問題なかった。しかし魔力膜は消耗する。魔力残量が下がれば薄くなる。長期戦では確実に防御力が落ちていく。
ドローンが前衛を担うようになってから近接での被弾は減った。それでも完全にゼロにはできない。今の装備に欠けているのは、魔力に依存しない物理的な防護だ。
「MI、防具を作ることを考えている。素材の選定から始めたい」
『市販の素材か、自製の素材か、どちらですか』
「自製だ。……以前から考えていたことがある。魔鉄は魔力を通しやすい素材だが、それはあくまで魔力を受け入れる器として機能しているだけだ。俺の魔力と本当の意味で一体化した素材があれば、術式を刻まなくても意思だけで動かせるはずだ」
沈黙があった。
『……つまり、賢の魔力そのものを物質化する、ということですか』
「そうだ。魔力は以前の研究で"仕事を与えられて初めて意味を持つエネルギー"と定義した。エネルギーが固体として存在できるなら、それは魔力から生まれた金属になる」
『理論上は可能です。ただし——』
「効率が悪いのはわかってる。試してみる」
◆ ◆ ◆
賢は机に向かい、掌に魔力を集めた。
いつもの魔術発動とは違う。属性も定義も与えない。ただ「固まれ」という命令だけを与える。エネルギーに仕事を命令する——その仕事を「固体として存在すること」にする。
一分。五分。十分。
掌がじわりと熱を持ち始めた。魔力が抵抗している。気体が液体になるときのような、相転移の感覚だ。
(……なにかが変わり始めている)
二十分後。
掌に、ごく小さな欠片が現れた。
賢はそれを指先に乗せた。
黒い。
ただし、装備の黒とは質が違う。金属光沢がなく、光を吸い込むようなマットな黒だ。ドローンや銃の表面が光の加減で青みがかって見えるのに対して、この欠片はどの角度から見ても光を反射しない。まるで、空間に穴が開いているような黒だ。
『生成を確認しました。……分析します。魔力密度が既存のいかなる素材とも異なります。魔鉄の約200倍。深海鉄の約150倍。これは賢の魔力の固有特性がそのまま物質化されたためと考えられます』
「硬度は」
『計測不能です。私の分析範囲を超えています。ただし賢が意識を向けると密度が変化しています——つまりこの素材は、賢の意思に直接反応している』
賢は欠片に意識を向けた。固くなれ、と命じる。欠片の密度が上がる感触がある。柔らかく、と命じる。わずかに変形した。
(術式なしで動く。俺の意思がそのまま伝わる)
「名前が必要だな。MIはどう呼ぶ?」
『私は「賢の魔力から生まれた素材」と認識しています。名称は賢が決めるべきものです』
「……魔素でいい。魔力の素、という意味だ」
『記録しました。新素材——魔素』
賢は魔素の欠片をストレージに収め、今日の消耗量を確認した。
(二十分で指先ほど。この量で今日の魔力の三割を使った)
「MI、この生成効率だと防具一式に必要な量が揃うのはいつ頃だ」
『現在の生成速度と賢の魔力回復量から計算すると——コート型の防具一着分に必要な量を確保するには、毎日生成を続けて約八ヶ月から一年かかります』
「……長いな」
『はい。ただし賢の魔力量が増えれば生成速度も上がります。半年後と今では、おそらく数倍の差が出ます』
(長期の目標として持ちながら、毎日少しずつ積み上げる。急ぐ必要はない)
「わかった。今後は毎日の習慣にする。少しずつでいい」
賢はノートに書き込んだ。魔素、生成開始。コート型防具を目標とする。
◆ ◆ ◆
「コート型にする理由を整理したい。MI、防具の形状として何が適切か」
『戦闘スタイルから考えます。賢は近接と遠距離を使い分け、ドローンとの連携で動き回ります。重装甲は機動性を下げます。一方で、防御のない状態はリスクが高い。……軽量かつ全身を覆う形状として、コート型は合理的です』
「ただの白衣ではなく、魔素で作ることで意味が出る。攻撃が来た瞬間に硬度を上げ、刃を受ける角度に合わせて形が変わる。魔力の鎧ではなく、俺の意思に反応する鎧だ」
『魔素の特性を最大限に活かした設計ですね。現状の魔力膜と役割が被る部分がありますが——』
「魔力膜は魔力を消費する。魔素のコートは、一度作れば俺の意思だけで動く。消耗しない防御になる」
『了解しました。長期目標として設計を記録します』
賢はノートにコートの概略を描いた。丈は膝下まで。袖は長く、手元まで覆う。動きを妨げないよう裾には切れ込みを入れる。色はもちろん、魔素のマットな黒だ。
(完成は遠い。でも方向は決まった)
◆ ◆ ◆
「MI、一つ聞く。魔素の生成効率を上げる方法はないか」
今度の沈黙は長かった。
『……一つ、提案があります。ただし非常に危険です。先に危険性を説明してから内容を話します』
「わかった」
『賢は以前、魔力を"仕事を与えられたエネルギー"として定義しました。またベクトル操作では、運動エネルギーへの直接干渉を行っています。——この二つを組み合わせた発展として、二段階の変換工程が理論上は可能です』
「二段階?」
『工程を整理します。第一段階——錬金術で物質の質量エネルギーを解放し、運動エネルギーとして取り出す。熱・振動・衝撃波として物理空間に放出します。第二段階——そのまま発散させるのではなく、ベクトル操作魔術でその運動エネルギーを魔力へと定義変換する。この二段階を経ることで、物質を魔力の源として使えます』
賢はペンを走らせた。
(……なるほど。一度「質量→運動エネルギー」という物理的な中間状態を経由する。運動エネルギーへの干渉はベクトル操作で既にやっている。その延長だ。工程を分けることで、それぞれの段階で制御できる)
「理屈は通っている。——危険性は」
『第一段階の質量エネルギーの解放が最大のリスクです。E=mc²で計算すると、1グラムの物質が完全に運動エネルギーとして解放された場合、約9×10¹³ジュール——広島型原子爆弾の約2倍に相当します。制御に失敗すれば連鎖的な爆発が起きます』
静寂が部屋を満たした。
(……やはり、そこか)
「失敗すれば横浜が消える」
『最悪の場合はそうなります。だから提案を迷いました。ただし——対象を極限まで絞れば話は変わります。最初は分子一個だけを変換する。分子一個の質量エネルギーはきわめて小さく、失敗しても検出限界以下のエネルギーしか出ません』
賢はノートを開き、ペンを持った。
(分子一個を丸ごと変換する。魔力視で分子一個を認識して対象を絞る。変換は錬金術で制御して、運動エネルギーとして解放する。その瞬間にベクトル操作で捕捉して魔力に変換する——既存の技術の組み合わせだ。ただしその組み合わせが、かつてない規模の危険を孕んでいる)
「練習の手順を整理する。MI、段階を提案してくれ」
『五段階を提案します。第一段階——分子一個を運動エネルギーとして解放し、その全量をベクトル操作で魔力に変換する。第二段階——分子十個を対象に同じ操作を並行して行う。第三段階——分子百個に拡張する。第四段階——ミリグラム単位の物質への応用。第五段階——実用的な変換効率の確立。各段階で安全性を確認してから次へ進みます』
「第一段階は今日から始められるか」
『はい。ただし場所を選ぶ必要があります。制御が外れた場合に備えて、最初は人気のない屋外で行うことを推奨します』
「明日、採掘後に人気のない場所で試みる。今日は理論を整理する」
賢はノートに書き始めた。二段階の変換工程の図。錬金術で解放するときの定義式。ベクトル操作で変換する際の魔力への再定義の方法。それぞれを繋ぐ論理の線を一本一本引いていく。
一時間後、ノートの上に変換工程の全体像が完成した。
賢はペンを置き、しばらくその図を見た。
(……組み上がった)
今まで別々に存在していた技術が、一本の線で繋がっている。錬金術の物質変換、魔力の定義、ベクトル操作。それぞれを習得した順番に並べると、まるで最初からこの一点に向かって積み上げてきたかのように見えた。
設計が完成したときの感覚——それは感動ではなく、静かな確信だ。理屈が合っている。動くはずだ。
「MI、理論は合っているか」
『はい。論理的な矛盾はありません。あとは実装だけです』
「……そうだな」
賢は少し息を吐いた。
嬉しい、という感覚がある。感情として強く出るわけではないが、確かにある。自分が考えたシステムが理論として完成した——それが、賢にとっての喜びの形だった。
「MI、これが完成したとして——どの程度の変化になる?」
『理論値では、周囲の岩石1グラムから抽出できるエネルギーだけで、今の賢の全魔力量の数百万倍になります。実用的な変換効率を10%と仮定しても、数万倍です。事実上、魔力の枯渇という概念がなくなります』
「……数万倍か」
『ただし繰り返しますが、制御の失敗は即座に致命的な結果を招きます。段階を飛ばさないことが絶対条件です』
「わかってる。……まず第一段階から積み上げる」
賢はノートを閉じた。今夜の思考はここまでだ。
電気を消す前に、ストレージの中の魔素の欠片を一度確認した。マットな黒が暗い中でも光を吸い込んでいた。
(小さい。でも確かにある)
布団に入りながら、今日決まったことを整理した。魔素の生成は長期目標。コートの設計は固まった。物質変換魔術の開発は始まった。
そしてもう一つ——
(Dランクダンジョンもそろそろクリアしておく必要がある)
スカイフィールドはまだ踏破していない。海淵も同じだ。物質変換の練習場所を確保する意味でも、深層への道を開いておいた方がいい。
どうせなら練習を兼ねて潜りながら、クリアを目指す。
◆ ◆ ◆
翌日から、賢の一日は三つの柱で動くようになった。
午前——岩穿または海淵の深層で採掘と戦闘。深海鉄の確保とドローンの実戦データ収集を兼ねる。
午後——人気のない場所で物質変換魔術の練習。第一段階から始める。
夜——魔素の生成と、設計の研究。
物質変換魔術の第一段階は、思ったより繊細だった。
対象を分子一個に絞るには魔力視の解像度を極限まで上げる必要がある。通常の索敵モードでは荒すぎる。賢は魔力視の定義を書き直し、焦点を絞り込む新しいモードを作った。
「MI、これで分子が見えているか」
『視覚情報を確認します。……解像度は十分です。空気中の窒素分子の振動が観測できています』
「分子一個を対象にする。錬金術で質量エネルギーを運動エネルギーとして解放する。その瞬間にベクトル操作で捕捉して魔力へ変換する。同時にやる」
賢は息を止めた。
一個の窒素分子に意識を合わせる。錬金術の定義を当てる——解放。
同時にベクトル操作を起動する——捕捉、変換。
一瞬の空白があった。
(……流れてきた)
極めて小さなエネルギーが、魔力として体に認識された。分子一個分など、感じるかどうかの量だ。しかし——変換できた。
『第一段階、成功を確認しました。変換エネルギー量は約8.2×10⁻¹⁴ジュール。安全域内です』
賢は動かなかった。
しばらく、その感覚を確かめるように手を見た。
(……動いた。俺が設計した工程が、初めて動いた)
感動、というほど大げさなものではない。ただ——静かな、深い充足感があった。理論を組み立てて、定義を書いて、何度も整合を取り直して、ようやく一回動いた。その一回が、すべての積み上げを肯定した。
賢が一番好きな瞬間だ。自分が考えたシステムが、初めて動く瞬間。
「……次は十個を並行してやる」
声が少し低くなっていた。集中ではなく、静かな高揚の形だった。
翌日も、また翌日も、賢は練習を重ねた。十個、百個、千個——対象の数を増やすごとに、変換できる魔力が増えていく。同時に操作の精度も上がり、制御に要する集中力が下がっていく。
数日後、賢は第二段階に移った。分子百個を対象に同じ操作を並行して行う試みだ。
これは次元が違う慎重さが必要だった。百個の分子が同時に質量エネルギーを解放する。タイミングがずれれば制御が崩れる。場所は横浜郊外の山中を選んだ。周囲に人が誰もいないことをMIの索敵で確認してから臨む。
第一段階——分子を一個ずつ絞り込みながら、百個に定義を同時に当てる。第二段階——一斉に解放して、発散する前にベクトル操作で捕捉する。
最初の試みは失敗した。タイミングがわずかにずれ、数個の解放が捕捉に間に合わず、手元で小さな爆発が起きた。
「——っ!」
魔力膜が衝撃を吸収した。腕に軽い痺れが走る。岩の表面が焦げた。
『警告。変換量が設定値の3倍に達しました。制御の精度が不足しています。今日はここまでにしてください』
「……わかった」
賢は手を見た。手袋が焦げている。痺れは引いていく。魔力膜があったから怪我はなかった。しかし——百個の分子が同時に解放されたとき、捕捉に間に合わなかった数個分がこれだ。千個になれば、同じ失敗で桁が二つ上がる。
(軽く見ていた。段階を守る。絶対に飛ばさない)
その夜、賢はMIと並行処理の精度を上げるための定義を三時間かけて書き直した。百個の分子への定義の適用タイミングを揃える術式。解放と捕捉の間の遅延を限界まで詰める定義の修正。捕捉漏れが起きたとき自動で変換を中断する安全装置。一つずつ積み上げた。
◆ ◆ ◆
練習を重ねながら、ダンジョンの攻略も並行して進めた。
スカイフィールドは20階層のボスを改めて攻略した。以前は苦戦したゴブリンキングも、今の編成では時間がかかるだけで危険な場面がなかった。ドローンが四方を塞ぎ、賢が空間分割でボスの武器を断ち、銃で弱点を削る。終始安定した展開でクリアした。
『スカイフィールド、全階層踏破を確認しました。Dランクダンジョン一つ目のクリアです』
「記録しておいてくれ。次は海淵だ」
海淵は水没エリアを迂回しながら深層を目指した。10階層のボスは巨大な海蛇型の魔物——タイダルサーペントだった。胴体が長く、ドローンが取り囲む戦法が使いにくい。
(長い。空間分割で頭部と胴体を分断するのが最速だ)
壱弐がガトリングで頭部に連続して弾を当て続けた。注意が上を向いた瞬間、賢が空間分割を発動した。刀に定義を乗せて踏み込み——頭部と胴体の境界を断った。
静寂。
タイダルサーペントが、音もなく崩れ落ちた。
『海淵、全階層踏破を確認しました。Dランクダンジョン二つ目のクリアです。横浜のDランクダンジョンを全て踏破しました』
「……全部クリアか」
賢は崩れた魔物の傍に立ち、その事実をしばらく処理した。特別な感慨はなかった。ただ、次に向かう場所が決まった、という感覚だけがある。
「MI、Cランクのダンジョンの情報を出してくれ」
『確認します。……神奈川県内にCランクダンジョンが三つあります。横浜市内に一つ、川崎市に一つ、相模原市に一つです』
「わかった。物質変換魔術の練習の進捗次第で判断する。今は焦らない」
賢はストレージに深海鉄と魔石を収め、海淵の出口へ向かった。
今日の成果は多い。換金して帰る。
◆ ◆ ◆
WEA横浜支部の換金所に向かうと、見覚えのある後ろ姿が三つあった。
黒髪のショートボブ、茶色のポニーテール——そして、その少し後ろに立つ、だらしない猫背。
(……凛と陽菜と、あの男か)
我妻蓮が、こちらを見ずにあくびをしていた。
陽菜が先に気づいて振り返った。
「あ!神谷くん!」
「今日も海淵か」
「そうです。我妻さんが朝から「今日ここに来るといいことありそう」ってついてきて——」
「陽菜、余計なことは言わなくていい」
凛が短く遮った。我妻は相変わらずあくびをしている。
「いいことありそう、か」
賢がそう言うと、我妻がようやくこちらを見た。眠たげな目が、一瞬だけ細くなった。
「そう。……来たね、ちゃんと」
(この男は、俺が来るとわかっていたのか)
MIの警告はなかった。気配も読めない。この男に関しては、今もそれが変わらない。
四人で換金の列に並んだ。賢が素材を出すと、受付の担当者が目を見張った。
「Dランクを……ソロで全階層ですか。確認しますので少々お待ちください」
後ろで陽菜が「やっぱり規格外だ」とこそこそつぶやくのが聞こえた。凛は黙っている。
我妻は特に驚いた様子もなく、ただ賢を横目でじっと見ていた。
換金が終わり、四人がロビーへ移動した。
「ねえ、レベルいくつ?」
我妻が唐突に言った。陽菜が「それ聞くんですか」という顔をした。凛は黙っている。
探索者のレベルを直接聞くのはマナー違反に近い。しかし我妻の口調には悪意がなく、純粋な好奇心だけがあった。
「前に会ったときと、ちょっとしか期間ないのに重さが全然違う。確認したくなった」
(……そういえば、最近確認していないな)
賢はそのことに、今初めて気づいた。




