檻の中の終幕
朝靄が山の木々を淡く包み込むなか、屋敷には沈黙が漂っていた。
蔵が焼け落ちた夜を最後に、一人の人物が忽然と姿を消していた。
蓮は朝から屋敷中を探していた。
部屋、廊下、庭、蔵の跡地、井戸、物置、倉……。
どこにも、その人物の姿はなかった。
残された荷物は一切動かされておらず、靴もなくなっていた。明らかに自発的な失踪だった。
「……いないな」
彼は肩で息をしながら、館の広間へ戻った。全員がそこにいた。いや、一人を除いて。
和やかな空気ではない。
目を合わせようとしない者、膝を抱えている者、所在なく座っている者。
皆、どこか怯えと疲労の色を浮かべていた。
三人の死。
自分たちがその渦中にいたことが、ようやく現実のものとして心に迫ってきたのだろう。
そして、失踪者が戻ってこなかったという事実も。
元医師の館林が声を落として言う。
「警察に連絡がつくまで、全員ここを離れずにいた方がいい。
……しかし、電話線が切断された状態で、外部と繋がる手段はまだない。
仮に、犯人が外へ逃げたとすれば、我々が捕らえる手段は限られている」
「確かに……」蓮は頷いた。
「だが、それでも戻ってこなかったのは――本人が戻れない事情があったか、
戻るつもりがなかったかのどちらかだ。いずれにせよ……あの夜、蔵が燃えた時点で、あの人の計画は狂ったんだ」
「計画、か……」誰かがつぶやいた。
その後も数日は、屋敷に変化はなかった。
警察の到着は悪天候と連絡不備のため遅れ、やっと来たのは滞在の最終日前日だった。
警察の捜査は慎重かつ徹底され、蓮の証言や現場に残された証拠、スマートフォンのデータなどから、ある人物が濃厚な容疑者として名前を挙げられることとなった。
だが――当の人物の行方は、ついに分からなかった。
蓮が東京へ戻ったのは、それからすぐのことだった。
⸻
駅から電車を乗り継ぎ、自宅の最寄りの改札を抜けたとき、見慣れた街の風景に少しだけ安心した。
人混み、車の音、商店街の匂い。
どれもこれも、山奥のあの静寂とはあまりにも違っていた。
(……終わったのか、あれは)
不意に、背筋を寒さが這い上がる感覚があった。
本当に、あれは終わったのだろうか?
あの人の名前を警察が公表しなかったのは、証拠が決定打に欠けていたからか。
それとも、何か……まだ隠された真実があるのか?
そんな不安をかき消すように、部屋のテレビをつけた。
ちょうどニュースの時間だった。
画面には見覚えのある山の写真と、警察の捜索隊の姿。
《速報です。今朝、○○山脈の斜面で、身元不明の遺体が発見されました。
その後の調査で、遺体は先日、行方不明になっていた○○氏であることが確認されました。
現場の状況から、滑落死とみられています。
また、現場からはスマートフォンが発見されており――》
「……!」
蓮は思わず身を乗り出した。
《スマートフォンの中には、自身が犯行を計画したとみられるメモや動画、音声データなどが記録されており、警察はこれを重要な証拠として、事件の全容解明を進める方針です。》
蓮の目が、テレビに釘付けになる。
《その内容はこうです――》
「この家が、私の人生を壊した。
私の母は、あの家に仕えていた女中だった。
若い頃、当主に無理矢理関係を強いられ、
その結果として、私が生まれた。
母は何も語らず、ただ黙って働き、黙って病に倒れた。
私には、父が誰なのかも知らされなかった。
けれど、母の遺品の中に残されていた書簡、手帳……
すべてを見て、私は知ってしまった。
私の存在が、ずっと『なかったこと』にされていたことを。
あの屋敷は、私という存在の過去を切り捨て、
何もなかったように、血筋を守り続けている。
彼らは知らない。
どれほどの恨みを、私がこの30年間抱き続けてきたか。
この屋敷の罪を、私は記録する。
そして、私の手で終わらせる。
あの家系に連なる者すべてに、代償を払わせる。
罪を、なかったことにさせない」
蓮は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
(……やはり、そうだったんだ)
犯人――は、屋敷の家系に連なる人間ではなかった。
だが、その血の一部を受け継いでいた。
誰にも認知されず、誰からも知られず、「影の子」として存在し続けた人生。
その人は、復讐を決意してからずっと、準備をしてきた。
自らが屋敷に入る手段を得るために、遺産や相続の話を口実に、当主に近づいた。
巧みに立ち回り、調査し、あの場に関係者たちを集めさせた。
その人の計画は、すべて「因果応報」をテーマにしていた。
被害者となった3人は、それぞれかつて屋敷の事件や不祥事、過去の圧力に加担していた過去を持っていた。
直接的な加害者ではないとしても、沈黙し、黙認していた――。
それが、彼女の目には「同罪」と映った。
だが――最後の最後で、蔵の火災により、彼女の計画は崩れた。
予定外の目撃。予定外の死体損壊。証拠の焼失。
さらに、蓮による予想外の追及と推理。
追い詰められた彼女は、最後の最後に逃走を図った。
だがその山道は、険しく、崩れやすいものだった。
滑落――。
あまりにも皮肉な最期だった。
テレビでは、最後に彼女の顔写真と、関係者によるコメントが流れた。
映像の中で語る記者の声が言う。
《彼女の動機は、憎しみだけではなかったとされています。
遺書の一節には、こうも記されていました――》
「私はずっと、どこにもいなかった。
この世に自分の名前を残したくて、あの屋敷に踏み込んだ。
せめて一度くらい、私がここにいたと、誰かに覚えてほしかった」
蓮は、胸が締め付けられるのを感じた。
――あの、柑橘系の香り。
――あの、静かな声。
――あの、微笑みの裏に隠された哀しみ。
今になってようやく、彼女の全てが「悲鳴」だったのだと分かった。
蓮は静かに、リモコンを取り、テレビを消した。
音の消えた部屋で、しばし何も考えられずにいた。
映像が切り替わり、山肌の遠景と、無数のテントが立ち並ぶ現場の様子が映された。
遺体はひどく損傷していたという。
発見時、既に死亡から数日は経過していたとみられ、転落後そのまま発見が遅れたようだった。
蓮は背もたれに体を預け、しばらくテレビを見つめていた。
犯人は……もう、この世にいない。
全ての真実は、あのスマートフォンに刻まれている。
だが――。
(結局、最後まであの人の気持ちは……)
そう、蓮は心の奥で思っていた。
復讐の動機は明確だった。屋敷に関するある過去、家系にまつわる歪んだ憎しみ。
だが、それ以上に、彼女(犯人)の心に積もったものは、きっと言葉にはできない類の「孤独」だったのかもしれない。
蓮はそっと目を閉じた。
浮かぶのは、あの静かな夜の屋敷。
虫の音、板のきしみ、柑橘系の香り、火の粉の舞う蔵。
そして、誰もが心に闇を抱えたまま過ごした数日間――。
あの夏の記憶は、決して消えないだろう。
窓の外、夕日がゆっくりと沈んでいった。
(完)
この物語を最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
執筆にあたって、私が最初に思い描いたのは、「復讐とは誰のものか」「正義とは誰が決めるのか」という問いでした。
時に復讐は冷たく、時に哀しく、そして何より、時に理解できてしまうものでもあります。
その危うさと、人の感情の複雑さを物語に落とし込みたくて、私はこの物語を綴りました。
屋敷という閉鎖空間、限られた人間関係、情報の遮断、疑心暗鬼、そして崩れていく日常。
サスペンスという枠の中で、「人の内面」と「過去の罪」を軸に据えたことで、
読者の皆様の中に、登場人物たちと同じような“混乱”や“戸惑い”が生まれていたら、それは私にとって大きな喜びです。
この物語の犯人である桐野梓は、明確な悪として描いてはいません。
むしろ彼女は、何者にもなれなかった人生の中で、
ただ一度、自分の痕跡をこの世界に刻みたかっただけなのかもしれません。
彼女の行いを肯定することはできませんが、理解しようとする姿勢だけは、私たちに求められているのかもしれません。
また、探偵役・蓮という人物は、感情よりも観察に長けた、いわば理性の化身のような存在です。
彼が事件を通して「推理」ではなく「理解」に近づいていく過程も、もう一つのテーマでした。
謎を解くことで終わるのではなく、何を残すか――その先に“読後感”があると信じています。
最後になりますが、この物語を読んでくださったあなたが、
登場人物の誰かに共感したり、あるいは強く反発したりしながら、
少しでも心を動かしてくれたなら、私にとってこれ以上の幸せはありません。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
また、どこかの物語でお会いできる日を楽しみにしています。
――柳より




