閉ざされた屋敷
それぞれの素顔と、ひとつの違和感
藤堂冴の言葉が終わると、大広間に沈黙が戻った。
誰もが「秘密」という言葉に反応しながらも、それを口に出すことはなかった。
しかし、視線だけは鋭く交差し合い、静かな火花を散らしていた。
蓮は一歩引いたところから、部屋全体を見渡していた。
観察は癖だ。誰かの足元、視線の動き、椅子の距離感――些細なことの中に、人は正直な感情を落とす。
中でも気になったのは、若い女性・田嶋佳乃だった。
長い黒髪をきっちりとまとめ、白いブラウスの襟元には小さなシミ。
気を抜いていたのか、彼女は他の客とは目を合わさず、視線を床に落としていた。
(あのシミ……血?いや、違う。紅茶か?)
蓮の思考は一瞬でそこに飛んだが、次の瞬間には別の男の動きが気を引いた。
建築士の中原直樹が、屋敷の梁を見上げながら言った。
「……立派な造りですね。江戸後期の建築様式が見える」
その口調は穏やかだが、どこか押し殺したような緊張感があった。
「あなた、建築に詳しいの?」と話しかけたのは、演劇女優の篠田環。
その声はやけに明るく、誰かに見られることを意識しているような芝居がかった調子だった。
彼女の後ろでは、医者だった大島貴志が、ただ黙って環の様子を眺めていた。
冴が案内する形で、全員は一旦それぞれの客間に案内された。
廊下は細く、天井がやや低い。湿気を帯びた木の匂いが鼻をついた。
古い屋敷にありがちな感覚――時間がねじれているような、妙な閉塞感。
蓮の部屋は二階にあった。
窓からは森の中腹が見えるが、電波は完全に途絶えていた。
携帯電話を空に掲げても、アンテナは沈黙したままだ。
(なるほど、連絡が取れない場所……ますます、舞台が整ってるな)
部屋の引き出しには、屋敷の見取り図が丁寧に折りたたまれていた。
不自然だと思いつつも、蓮は目を通した。
客間、広間、食堂、渡り廊下、そして――「蔵」。
(これが、気になる)
そこへノックの音。
「失礼します」
通されたのは一枚の紙。夕食の案内と、屋敷のルール。
⸻
・屋敷の外出は日没後、禁止。
・蔵への立ち入りは禁止区域とする。
・携帯電話の電波は届きません。必要時は固定電話をご利用ください。
⸻
固定電話、とあったが、蓮は気づいていた。
屋敷に入ってから、一度も電話の音を聞いていない。
受話器の位置さえ、まだ確認できていない。
(蔵といい、電話といい……何かが始まろうとしている)
まるでこの屋敷全体が、すでに閉じ込めるための装置のようだった。
夕暮れが屋敷を朱に染める頃、全員は食堂に集まった。
古い木製の長テーブルには、季節の食材を使った料理が並んでいる。
質素だが丁寧な盛り付け――それだけで、この屋敷がただの廃墟ではないとわかる。
「すごい……これは豪勢ね」
女優の篠田環がやや大袈裟な声で言い、他の客が苦笑いを浮かべた。
「この鱒、うまいな。燻製か?」
中原が一切れを箸でつまみ上げながら、感心したように言った。
彼の声は落ち着いているが、瞳はずっと誰か――佳乃のほうを気にしているようにも見えた。
蓮は口を動かしながらも、全員の様子を観察していた。
その時、静かに扉が開いて藤堂冴が姿を見せた。
今日と同じ、落ち着いた色味の和装。その袖口から、柑橘の香りがわずかに流れた。
「皆様、お食事は口に合いますか?」
「ええ、ありがとう。でも、冴さん。どうしてこの屋敷に私たちを……」
初めに問いかけたのは、冴と学生時代からの友人という、眼鏡をかけた女性・遠藤初実だった。
理知的な雰囲気の中に、どこか警戒心が垣間見える。
冴は微笑んだ。
「詳しくは、明日お話しします。でも今夜はまず、皆様に屋敷に馴染んでいただきたいと思って」
その一言で、誰もが一旦はそれ以上深く聞くのを控えた。
しかし、その場に漂う空気は明らかに変わり始めていた。
夕食の最中、誰かが言った。
「この屋敷、どこか……寒気がするんですよね。風のせいかもしれないけど」
確かに、窓は閉まっているはずなのに、どこからか微かな風の音がする。
時折、天井裏から何かが動くような音が聞こえた。
そして、その食事の間。蓮は気づいた。
誰かが、スープに手をつけていない――田嶋佳乃だった。
じっと皿を見つめ、唇だけがわずかに動いていた。
(何か……におっている?)
「どうかしましたか?」
蓮が声をかけると、佳乃はハッとしたように顔を上げ、少し笑った。
「いえ……ちょっと、体調が悪くて」
それきり彼女はスプーンを置いた。
その場はそれで終わったが、蓮の中に引っかかるものが残った。
食後、客たちはそれぞれ部屋に戻っていった。
夜が深くなるにつれ、屋敷は不気味な静けさに包まれた。
その静寂を裂くように、蓮の部屋の引き戸が“コンッ”と鳴る。
誰かのノック。
開けるとそこに立っていたのは、大島貴志だった。
「……君、観察が鋭いようだね。少し話をしたい」
医者の目。
それは、かつて死と対峙してきた者の、冷徹な目でもあった。
「この屋敷、何かを隠してる」
それが、大島貴志の最初の言葉だった。
蓮は静かに頷いた。「……そう感じてました。何か知っているんですか?」
大島は、額にかかる前髪を押さえながら、低い声で言った。
「学生の頃、この屋敷の所有者だった藤堂家が地域の精神病院とつながっていたという噂があった。古い文献にも載っている。“屋敷の地下に収容施設があった”とまで……まぁ、都市伝説の類だけどね」
「けど、蔵といい、妙な規則といい……」
蓮は見取り図を思い浮かべながら言った。
「冴が何かを隠しているのは間違いない。問題は、その『何か』が命を脅かすようなことかどうかだ」
沈黙が流れた。
そのとき、微かに風の音が鳴った。……いや、それは「悲鳴」だったかもしれない。
⸻
最初の異変は深夜だった。
廊下を歩く足音。誰かが蓮の部屋の前を通り、そして階下へ。
蓮は気配で目を覚まし、音を殺して襖を開けた。
視界の奥、階段の影が揺れていた。
誰かが台所の方へ向かっている――そう直感して、蓮は後を追った。
廊下は静まり返っていた。
誰もいないかのような夜の気配。
けれど、匂いだけが、あった。
柑橘の香り――いや、違う。それをかき消すように、鉄と薬品の混ざったような重い匂いが鼻を刺した。
台所の戸が、ほんのわずかに開いていた。
蓮が手をかけた瞬間、背後で足音が止まった。
「どうしたんですか?」
そこには大島がいた。
「音がして……」と蓮が言いかけたとき――彼の顔が、急に固まった。
「……何の匂いか、わかるか?」
蓮は数秒遅れて気づいた。
「……まさか」
大島は無言で扉を開けた。
そして、そこに倒れていたのは――田嶋佳乃だった。
ぐったりと横たわり、食器棚の手前で冷たくなっていた。
「呼吸なし。……瞳孔拡大、皮膚に軽いチアノーゼ」
大島が即座に脈を取りながら、唸るように言った。
「ヒ素だ……間違いない。この症状は」
蓮はその言葉に、はっと何かを思い出すように目を見開いた。
(夕食……スープに口をつけていなかった。あれは……)
蓮が懐のスマートフォンを取り出す。しかし、アンテナは沈黙したまま。
「電話を……」と台所奥に向かったが、受話器のコードが途中で切断されていた。
鮮やかに断たれた断線。明らかな、意図的な破壊。
「……外と連絡が取れない」
その瞬間、屋敷全体が音を失ったように静まり返った。
⸻
夜は、まだ続く。
誰が何を知っているのか。
この屋敷に招かれた者の中に、“殺意”が確かに存在しているという事実が、静かに、全員の心に影を落とし始めた。




