メランコリック・コインランドリー。
10分100円。
それは、ちょっとした物思いにふける時間を手に入れる方法だった。
アパートの近くにある、古くも新しくもない、まあまあなコインランドリー。
そのコインランドリーの一角、左から三つ目にある乾燥機に、自分の持ってきたカゴの中身を放りこみ、100円を投下することで得られる時間。
ようするに、洗濯物が乾くまでの時間。
この時間の過ごし方は、人それぞれだ。
車で来た客は、乾燥機が終わるまで車内で待っていたりするが、徒歩で来た俺は戻るべき場所もないので、そのまま備えつけのスツールに座るしかなくなる。
店内に残った客も、スマホを取り出したり、近くにある読み古された雑誌を手にして時間を潰す。動画や音楽、ゲームを楽しむ客もいるが、基本、イヤホンは必須なようで、ここには乾燥機の駆動音以外の音はない。俺が訪れるのが夜の10時過ぎということもあって、客を見かけることもまれだし、騒がしい子ども連れもいない。店内には誰も聞いてない無駄なラジオが垂れ流されているが、それも乾燥機の音に紛れて聞こえないことがほとんど。
その安定した低音のなかで、俺は一人、何をするでもなく目を閉じて過ごす。
物思い。瞑想。
などという、大層なことをしているわけではない。
――今日の学食の日替わり定食のサバ、美味かったなあ。久々の魚だったなあ。次にあったら、また頼んでみるか。たまには魚を食わねえとなあ。
とか。
――ああ、明日は、またバイトだっけ。シフトが回らんって店長に泣きつかれたんだよなあ。「全然かまいませんよ」とか言っちゃったけど、ホントは「全然かまうんだよ」なあ。明後日提出のレポートもあるし。明日はバイト終わってからレポート漬けかあ。寝る時間あるかなあ。
とか。
眠りに落ちる寸前のような、どうでもいいことをつらつらと思い浮かべているだけの時間。思い返さなくても、深く考え込まなくてもいいことだけをとりとめもなく思考にのせる。
スツールに腰かけ、テーブルに片肘をつき頬を乗せる。一見、居眠りをしているように思われるかもしれない姿。
わずか100円程度で手に入れられるその時間は、大学にバイト、クラスメイト程度の浅いけど必要な友だちつき合い、一人暮らしの家事に追われる俺にとって、唯一の「何もしなくていい」、貴重な時間だった。
――こういうのを「メランコリック」って言うのかな。あー、でも物思いに沈んでるわけでもないし、憂鬱なわけでもないから、メランコリックは当てはまらないか。
なんてどうでもいいことを考えたりする。
メランコリックと表現するのはおこがましいほど、くだらないことばかり頭をよぎる。姿勢だけは、西洋画で描かれる「メランコリア/メランコリー」そのものだけど、思考には雲泥の差がある。
いつものように夜遅い時間、それも日中よく晴れた日だったからか。このコインランドリーを利用しているのは、俺だけだった。俺の衣類だけが、いつもの指定席、左から三つ目にある乾燥機のなかで、グルングルンと回り踊る。
静かな、俺の、俺だけの時間。
ピーッ。
軽い電子音。
それが、俺流メランコリックタイムの終了を告げる。
乾燥が終わった合図。
とりとめのない思考から現実に引き戻され、スツールから腰を上げる。
乾燥機の手前に置いておいた自分のカゴ。そこに、取り出した衣類を簡単にたたみながら放りこんでいく。
以前は、そのままポイポイッと無造作にカゴへ入れていたのだが、熱いままの衣類をクシャクシャにしたまま放りこむとシワが残ることになる。面倒であっても、熱いうちにたたんでおいたほうが後がラク。家に帰ってからも、タンスにしまうのに何かと都合がいい。
そうここの先人に聞いて以来、合理的だなと俺も納得してたたむことにしている。
「こんばんはぁ」
ガーッというより、どこかゴトゴトッとした自動ドアの開く音。それと同時に聞こえてきた挨拶。
「こんばんは」
軽くふり向いて、俺も同じ言葉を返す。
入ってきたのは、俺とよく似た年恰好の若い女性。手には濡れた洗濯物の入ったカゴ。
ここでの、俺の唯一の顔見知り。
「今日もいい天気でしたねえ」
彼女の指定乾燥機は俺の一つ置いた隣、左から五つ目。そこに、手慣れたかんじでカゴの中身を放りこんでいく。
――いい天気って。
コインランドリーで、洗濯ものをたたんだり乾かしてるヤツらが交わす会話じゃないよなあ。
いい天気なら、洗濯物ぐらい外に干すだろうし。
実際、好天が続くと、ここの利用客は0に近くなる。晴れ間の続く夏になると、閑古鳥が鳴きすぎてここが潰れてしまわないか、経営が大丈夫なのか変なところで心配してしまう。
――でもまあ、コインランドリーって潰れたのを見たことないんだよなあ。
好天続きでも、閑古鳥が群れをなしてやってきても、何とかなるシステムがあるのだろう。でなければ、家に乾燥機ああることが珍しくない昨今、ほとんど潰れずに残っていられるはずがない。
「お先に失礼します」
俺に、「乾いた洗濯物はたたんだほうが効率がいい」と教えてくれた先人――彼女に軽く頭を下げ、カゴを持ってコインランドリーを出ていく。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
いつもの定型句。
それ以上に交わす言葉もなく、街灯にだけ照らされた住宅街の道を、カゴを抱えて歩き出す。
――彼女も、学生なのかな。
時折、こうして会うことのある彼女。
名前も素性も知らないが、挨拶を交わす程度の知り合いになった。
いつも一人でこの時間にコインランドリーを利用する彼女。その洗濯物の量からして一人暮らし。おそらく、俺とよく似た年齢。徒歩で来ているようだから、この近所で暮らしてる。夜遅くに利用していることから、バイトとか遅くまで働いているのかもしれない。
それこそ、俺と同じように――。
――いや、ちょっと待て。
いくら断片的に入ってきてしまった情報であっても、勝手に推論するのはよくないだろ。
どこかの探偵よろしく、彼女の素性を考え始めた頭をフルフルと振って、思考をリセットする。俺だって、「学生かな? 一人暮らし? どこの大学だろ?」とか勝手に推測されるのは、あまりうれしくない。
――まあ、どうでもいいか。
満天の星空にむけて、白い息を吐き出す。
どうせ、今だけ限定の間柄だ。季節が変わって、春になったら、引っ越しとか生活の変化で消えてしまうかもしれない淡い関係。
――かわいい子ではあるんだけどなあ。
わりかし好みな子だとは思うけど、だからって、グイグイ押していくつもりもない。押さなきゃいけないほど、恋に飢えてるわけでもない。
「最近の若い子からは、意欲みたいなものを感じられませんねえ」
いつだったか。テレビのコメンテーターが、そんなことを言っていた。恋愛にも勉強、仕事にもガツガツした部分が少ない。淡々と、受け身でいることが多い。いわゆる草食系。
それを残念そうに語っていたが、そんなもん、人の勝手だろ?と思う。
グイグイ行って、失敗したら恥ずかしいから受け身になってると、そのコメンテーターは言っていたが、別に失敗を怖れてやらないわけじゃない。
やるだけの必要性を感じられないから動かないだけの話だ。彼女に対しても、「かわいいな」ぐらいは思うけど、「カノジョにしたいな」とまでは思わないので、それ以上の行動をとらないだけで、「好きです、つき合ってください」と言われたらそのまま受け入れると思う。
多分、そういうところが草食系と言われる部分なんだろうな。
――でも、全員が肉食系だったら食物連鎖は崩壊するし、食べるもの無くなって飢えちまうだろ。
肉食獣同士のマウントの取り合い。負ければ食われるデスゲーム、もしくはバトルロイヤルゲーム。
世界の均衡を保つためにも、一定数の草食系は必要なのかもしれない。
そんなことを考えながら、安い学生用アパートのドアの鍵を開ける。ピッキングとか簡単にできそうな安っぽい鍵。それでもドアを開ければ、そこは俺だけの小さな空間が広がっている。
ほとんど寝に帰ってくるだけの部屋。開ける必要もないので、閉めっぱなしの遮光カーテン。四年間過ごすだけならと、安さを最優先にして選んだ家具家電。片づけはするものの、母という監視の目がないせいか、どこかだらしなさも漂う部屋。
たたんでおけばシワが入らず、しまうのもラク。
そう教えてもらっても、しまうのは面倒で、カゴから取り出して床に置くのが精一杯。
――どうせ、明日も着るし。
しまったところで、明日出すのが面倒くさい。
などと合理的な言い訳とともに、洗濯物から衣類になった服をタンスの前に積み上げる。誰が訪れるわけでもないし。特に困ることもない。
一人暮らしの男所帯。洗濯してあるだけまだマシだ。
ということで、早々にベッドにもぐりこむ。寒いからとエアコンをつけるより、ベッドのなかでダラダラ過ごしたほうが合理的。
軽くスマホをいじって、動画を眺め、眠くなったらそのまま寝る。
明日も学校、そしてバイト。
疲れた身体は、さほど時間を要しなくても、そのまま深い眠りへと落ちていった。
* * * *
チャリン、チャリン。
二枚の硬貨の落ちる音。
今日はちょっと多めに200円入れておく。
いつものようにバイト帰りの夜遅く。利用客は俺しかいないコインランドリー。左から三つ目。俺のいつもの指定乾燥機。手近にあったスツールを捕まえると、そのまま寄せて座り、テーブルに頬杖をついて目を閉じる。
寝るでもなく起きるでもなく。ただただどうでもいいことをつらつらと思い浮かべる時間。
今日の学校でのこと。バイトの珍客。夕飯に食べたラーメン。面白かった動画。
意識しているわけじゃないが、過去の出来事を思い浮かべないようにしている。中学や高校でのこと。下手に思い出して、「若気の至り」みたいなのを痛感させられて、「うわ、黒歴史じゃん」って一人赤面はしたくない。21年しか生きてない俺でも、黒歴史はわんさとあるのだから、70、80になったら、どれぐらい封印したらいいんだろう。
――封印では抑えきれないから、「消去」するのかもな。
「ゴミ箱」いっぱいになっていく、不必要な情報。認知症は、積もり積もった黒歴史の結果、起こる症状なのかもしれない。
「あ、こんばんは」
そんなくだらない瞑想を打ち破るようにして聞こえた声。彼女だ。
いつものように、俺と一個間を置いた隣の乾燥機に彼女が洗濯物を入れていく。
「今日は、長いんですね」
俺の乾燥機の残り時間を見たのだろう。表示は、「12分」となっていた。
「ええ、まあ。今日はちょっと厚手のものを洗ったので」
「この季節はなかなか乾かなくて困りますよね」
「そうですね」
肌着、シャツ、トレーナー。
冬は他の季節に比べて着こむ服の量が増える。着こむ量が増えれば、洗濯物も自動で増える。そのうえ、トレーナーなどの地の厚い服はなかなか乾きにくい。特に今日はジーンズまで洗ったので余計に時間がかかる。これに、うっかりシーツなど洗った日には、さらに100円投下しなくてはいけなくなるだろう。
――ベランダに干せばいいんだけどな。
一応、ベランダにはそのための物干し竿が設置してある。洗濯ばさみだってハンガーだって用意してある。朝、学校に行く前に干して、帰ってきてからしまえば問題ない。――のだが。
――面倒なんだよな。
夏場なら、Tシャツ一枚、パンツ一枚、下着一枚、バスタオル一枚の計四枚で済む洗濯物が、冬場になると倍増する。ハンガーにかけて、干して、取り込んで、外して、たたんで、しまう。その工程を経るものが増える。正直、面倒くさい。時間がかかる。
それに、日が短く気温が低いせいか、乾きが悪い。とりこんでも湿ってた時、カーテンレールに吊るして乾かせばいいのかもしれないが、なんというか、その所帯じみた光景を、俺は好きになれなかった。たたんでもタンスにしまわないズボラ男所帯でも、これだけはやりたくないという一線は存在する。使った食器を洗わない、空のペットボトルを捨てない、カーテンレールに洗濯物を干すのは、ダメな男所帯のあるある風景みたいで、俺のなかのちょっとしたデッドラインになっていた。もちろんだが、食べたままレジ袋に入れて放置したコンビニ弁当の空、なんてのもアウトなマストアイテムである。
親元を離れ、自由な大学生活だけど、この一線だけは守り通したい。
100円を入れ、乾燥機の足元にカゴを置いた彼女。
続かなかった会話を気にするでもなく、俺から少し離れたところにあった席にチョコンと腰を下ろす。
――顔は知ってるけど、それ以上の素性を知らない相手となら、まあ、その距離だよな。
立ち上がって手を伸ばせば届くかもしれない距離。驚いても逃げ出すには余裕のある距離。
それは夜遅く、見知らぬ男女が二人っきりで過ごすのに最適な距離。
俺は彼女をチラッと見ただけで、また目を閉じ、とりとめのない思考へと戻っていく。特に話すこともないし、下手に話しかけたりしないほうが、彼女にとっても過ごしやすいだろうという判断。そして、どう話しかけたらいいのかわからない自分への言い訳。
ゴウンゴウンと響く乾燥機の音。彼女の分と俺の分。二つの音が重なるでもなく回り続ける。店内放送のラジオ。DJがリクエストに合わせ、よく知らない曲を紹介して流すのがそれに混じる。
かすかに湿った暖かい空気。乾燥機からこぼれる独特の匂い。
友だちでもなく、カップルでもなく。
見知らぬ者同士が同じ時間を共有するこの空間。コインランドリーは、電車のなかと似ている気がする。電車は同じ方向を目的地にする者同士、コインランドリーは乾燥機が終わるのを待つ者同士、一定の時間、意味もなく一緒にいることになる。
――ここから恋が始まる?
いやいや。
電車から始まった恋を聞いたことがないように、コインランドリー発の恋も俺は知らない。あったとしても、それはテレビや漫画の世界での話だろう。
ピーッ。
軽い電子音とともに、思考が終焉を迎える。乾燥が終わったのだ。
無言のまま立ち上がり、自分の乾燥機に近づく。
――あれ?
「私のがお先みたいですね」
見ると、自分の乾燥機は「1」と残りを表示している。どうやら、彼女に先を越されたらしい。
しかし、残り一分。椅子に座り直すのもバツが悪いので、そのまま待つことにする。どうせ一分だし。
微妙にいたたまれない俺の隣で、彼女が乾燥機の扉を開ける。――ここでたたんだほうが、シワになりにくい。教えてくれた通り、彼女自身もそこで衣類をたたみ始める。
シャツに、パンツ、靴下、タオル……。
――あ、これ、見てたらマズいよな、さすがに。
女性の洗濯物をじっくり見るのは、下着ドロをしているような後ろ暗い気分になる。
ピーッ。
タイミングよく俺の乾燥機も終了したので、そっちに集中する。
取り出したのは、ジーンズ、肌着、シャツ、トレーナー、バスタオル。それと下着。女性の前でそれを取り出すのは少しだけ勇気がいったが、まあ、脱ぎたてホヤホヤというわけでもないし。軽くバスタオルでくるんでカゴにしまう。靴下は失くさないように、片方の口でもう片方と一緒に丸めてまとめる。「そんなことをすると、一方だけゴムが伸びてダメになる」と言われたことがあったけど、片っぽ失くしてしまうより合理的に靴下を保管できるので良しとしている。それに、いつも同じ側の靴下でまとめてるわけじゃないし。ゴムが伸びるなら均一にどっちも伸びるに違いない。
――よっしゃ。
出来上がった洗濯物の入ったカゴを持ち上げる。
――あ。
タイミングが彼女と被った。
それぞれにカゴを持ち、自動ドアに向かう。電車で言うなら、「あれ? アナタもこの駅にで降りるんですか?」状態。どっちが先に出るか、ドアの手前で微妙な譲り合いになりながら外に出る。
コインランドリーと違って、外は冬の夜らしい、目の覚めるほどヒンヤリとした空気に包まれていた。
「寒いですね」
「そうですね」
ブルッと、軽く俺が身震いしたのを見たんだろう。顔見知り程度ならこれぐらいの会話は、どうってことはない。
次に続くのは、「それじゃあ」とか「お気をつけて」とか、そういった類のものだろう。あるいは、いつものように「おやすみなさい」か。
そう思いながら、ひとけのない駐車場を過ぎ、道路に出る。
が。
「あれ? 家、こっちなんですか?」
コインランドリーに面した道。右にも左にも行けるのに、彼女は俺と同じ右に歩みを進めた。
「ええ。アナタもですか?」
「そうですね。この先の学生専用アパートで暮らしてます」
言わなくてもいい情報が答えとして口からこぼれる。この先のアパートに住んでる。だから、たまたま一緒になっただけで、ストーカーみたいについてくつもりはなかったんだとのアピール。
「学生専用って。……大学生、なんですか?」
「ええ。一応これでも。大学三年です」
「そうなんですね。私、てっきり、社会人の方だと思ってました。ほら、ここでお会いするの、いつも遅い時間だったから」
「あー、それはバイト終わってから来てるからです」
「あ、そっか。学生さんでもバイトとか忙しいですよね」
ちょっとだけ抱えたカゴで顔を隠した彼女。
そのままどちらともなく歩調を合わせて歩き出す。ここまで話しておいて「じゃあ」と下手に足早になるのもおかしすぎる。
「私、看護師をしてるんです。去年の春からそこの病院で働き始めたんですけど。仕事が終わるもの遅いし、シフト制で不規則な生活だから、つい洗濯とか後回しになっちゃって。よくコインランドリーを利用するんです」
そっか。
それでこんな遅い時間に一人でコインランドリーを利用してたのか。
軽く「どうして?」と思う部分もあったので、彼女の自己紹介にストンと納得する。女性がコインランドリーを頻繁に利用するなんて――。化粧っ気のない顔をしていたが、身ぎれいにしていたので、コインランドリーの常連であることに違和感を覚えていたのだ。
コインランドリーというものは、俺のような面倒くさがりとか、ズボラな人間が利用するものという偏見が俺のなかにあるせいだろう。洗濯をマメにせず、着るものに困って、ドカッとまとめて洗濯したものの、乾かす時間をひねり出すこともできずに、緊急で駆け込むのがコインランドリー。そう思っていた。
看護師のように不規則な生活なら、洗濯にも乾燥にも余裕はないだろう。一人暮らし、それも女性の場合、干しっぱなしにしておくのも防犯上、あまりよくない。
彼女のような理由でコインランドリーを訪れる客がいる。俺の狭い偏見に満ちた視野をグイッと広げられたような気分だった。
「それじゃあ、私、ここで」
しばらく歩いた先、十字路で彼女が別れを告げる。が。
「ゴメン、俺もそっちなんだけど……」
住宅街にあるいくつもの十字路。この辺りは駅も近く、通勤にも便利なうえに大学があるせいか、一軒家も多いが単身者用のアパートやマンションも多数林立している。そんななかで、まさか曲がる先まで一緒になるとは。
「すごい偶然……」
彼女が俺の代わりに同じ驚きを言葉にした。
その後も彼女と並んで歩いていくが、次の角も一緒に曲がることになり、なんと着いた場所は通りを挟んで俺のアパートの向かいにある、5階建てのマンションの前だった。
「こんな近くに住んでたんですね」
マンションとアパートを「お向かいさん」と表していいのかわからないが、立地はまさしく「お向かいさん」だった。
お向かいさんなら、一緒のコインランドリーを使っていてもおかしくない。
いや。
コインランドリーだけじゃない。もしかしたらすぐそばのコンビニも、スーパーも同じように利用していたのかもしれない。道ですれ違うことだってあったかもしれないし、もしかしたら、ゴミ出しの時にでも挨拶ぐらいしていたのかもしれない。
ただその時は、景色のなかに溶け込んでお互い気づかなかっただけで。夜遅く、コインランドリーで二人しかいない空間を共有したから、互いのことをとして認識しただけで。
「景色」が「人」であったことに驚く瞬間。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
互いに衣類の入ったカゴを持って歩いていく。彼女はマンションのエントランスに。俺はアパートの部屋の扉に。彼女が何階の部屋なのか。俺が何号室なのか。詮索はしない。それぞれに背を向けたまま玄関の扉を開ける。
――また明日。
そうつけ加えてもよかった気がしたけれど、「コインランドリーでまた明日ってなんだよ」と一人ツッコんで、言葉を呑み込む。通勤電車で出会う関係なら「また明日」もおかしくないが、コインランドリーではちょっと情けない。どれだけヘビーユーザーなんだ、自分。
部屋に上がると、手にしていたカゴからたたんだ衣類を取り出す。いつもなら、そのままタンスの前、床に直置きなのだけど、なぜか今日だけはキチンと引き出しにしまう。どうしてそうしたのか。その理由は今もってわからないが、どこかテンションが上がっていたのかもしれない。
スマホを手にベッドに潜り込むものの、素直に寝つけない感情が何よりの証だった。
* * * *
それからというもの。
俺は彼女と、とりとめもない世間話を交わすようになった。
もちろん、場所はコインランドリー。
あの少し熱と湿気のこもった空間で、一人物思いにふけりながら、彼女が来るのを待つ。
彼女も俺も決まった時間に訪れるわけではないので、いつだって必ず会えるということはなかったが、会えた時にはどちらからともなくもう一方の乾燥が終わるのを待ち、一緒に並んで帰ることが習慣となっていいった。
「夜道に女性一人じゃ危ないからね」
自分でもよく言ったものだと思う。
危ない原因が俺自身かもしれないのに。
厚かましいかと思えた俺の意見に、彼女は「お願いします」と軽く笑った。
洗濯物の乾燥に約10分。徒歩でわずか5分程度。
それでも、貴重な時間。
冬の澄んだ空気のなかに浮かび上がるオリオン座。そこからつながる冬の大三角。おうし座のスバル。なけなしの星座知識を披露したりしながら一緒に歩く。
春が近づき、就職活動を余儀なくされた俺は、どうでもいいような愚痴を社会人の先輩である彼女に漏らす。看護師として働いている彼女は、俺の愚痴に同意するでもなく意見するでもなく、ただ淡々と話を聴いてくれた。だからといって聞き流されているわけではなく、ちゃんと以前にこぼした愚痴も覚えてくれている。きっといつもこんな風に、職場で患者さんの話を聴いてあげてるんだろう。聴き上手な彼女といると、ついいろんなことを話してしまう。たまには彼女の愚痴も聴いてあげようと決意しても、結局最後は俺の話になっている。
そんなつき合いのなかで知った彼女の情報。
彼女は俺より一つ年上の22歳。一月、早生まれの彼女は、学年こそ一つ上だが生まれ年は俺と同じだった。看護系の専門学校を三年で卒業して、この春に就職した。地方出身の俺とは違って、実家は近いらしいが、看護師という不規則な生活で家族に迷惑をかけたくなくて家を離れたという。
「工場に三交代制で勤めてる父と、手のかかる弟が二人もいるしね。やれ部活だ、朝練、弁当だって忙しいところに、お父さんとタイミングの合わない不規則交代勤務の私まで加わったら、お母さんが目を回しちゃうよ」
フフッと笑いながら教えてくれた彼女の事情。家族思いの彼女は、父親と休みの合った時など、実家に顔を見せに戻ってるらしい。
「病院の看護師寮でもよかったんだけどね。仕事が終わってからぐらい自由になりたいかなって思ったから、近所のマンションを借りることにしたんだ」
看護師寮では、プライベート部分ででも同僚、先輩に会うことになる。相手への好悪の感情もあるだろうが、仕事とプライベートを切り分けて考えたい。オフ時のぐらい、看護師でない自分で過ごしたいのだろう。
俺がコインランドリーで、俺流メランコリックに浸る理由に似てる気がした。あそこで無為に過ごすのは、大学生でも学生アルバイターでも適当につるめる同級生でもない自分に戻る、貴重なひとときだった。
彼女のことを聞いたオレは、お礼というわけではないが、田舎から両親が送ってくれた野菜なんかを彼女におすそ分けした。市民農園を借りて素人が作ってる野菜だから、不揃いなものばかりだったけれど、彼女は素直に喜んでくれた。
その上、お礼と言って野菜を料理に変化させて俺にお返ししてくれた。看護師として忙しく働いてる彼女に気を使わせて申し訳ないなと思ったが、その物々交換のような交流は、俺たちの関係を加速度的に進展させた。
互いのことを名前で呼ぶ。最初はぎこちなく苗字呼びだったが、夏を越えるころには名前呼びに、冬になる前には、彼女を呼び捨てにするような関係になった。(彼女は相変わらず「くん」づけだったけれど)
タッパーでやりとりしていた料理は、野菜が材料のまま俺の部屋に保管され、彼女が俺の部屋にゴハンを作りに来るようになった。
コインランドリーに立ち寄るのは変わらずだったけれど、それは一緒に出かけた結果であり、俺は彼女と楽しい語らいの時間を過ごすようになった。
出会って一年近く。
クリスマスを迎えるころ、彼女は「カノジョ」となり、仕事が休みの日は、俺の部屋に泊ったりするようになった。
「こういうとき、看護師寮でなくてよかった。根掘り葉掘り訊かれたくないもん」
「そうだな」
狭いシングルベッドのうえで、カノジョと笑い合う。寮であっても恋人同士になれたかもしれないけど、余計な詮索をされなくてすむのはありがたい。
そしてカノジョと迎えた二度目の春。
どうにか決めた会社に就職した俺は、カノジョに引っ越しと同居を提案する。俺が暮らしていたのが学生用アパートで、引っ越しを余儀なくされたこと。カノジョと一緒に暮らすには、あちらのマンションでは少々手狭だったこと。
それとなにより、一分一秒でも長くカノジョと一緒にいたいという俺の願望。幸いというか、俺の仕事は朝8時半に出社して夕方5時に終わるという一般的な就業時間だったので、一緒にいて、看護師として頑張っているカノジョを支えたいと思ったのだ。
「それじゃあ、これからもよろしくお願いします」
頬を少し赤らめ、はにかむように笑ってOKをくれたカノジョ。その笑顔に、俺が有頂天になったのは言うまでもない。
別々だった洗濯物が一緒になって、外に干す機会が増えても、俺たちは時折コインランドリーを利用した。仕事が忙しくて干してばかりいられなかったこともあるけれど、なにより俺たちにとってコインランドリーがちょっとした特別空間になっていたからというのが最大の理由だった。
二人が出会うキッカケになった場所。
最初は無言で行きずり合っただけの相手。それが今では、乾燥機のなかで仲良く服が回り踊る関係。取り出して入れるカゴも同じなら、たたむときに下着に触れられても恥ずかしくない。(後で知ったが、カノジョは下着をコインランドリーに持ち込まず、洗面所に干していた。俺と違って、誰かに見られるのも触られるのも恥ずかしいらしい)
「普通、同棲して一緒に出かける場所っていったら、銭湯だよな。マフラー代わりの赤い手ぬぐいとかさ」
「いつの時代の話よ。昭和?」
メランコリックではなくなったコインランドリーに、カノジョの笑い声が響く。
俺たちが結婚を決めたのは、カノジョが26の誕生日を迎えた日。出会って四年、つき合って三年目のことだった。
互いの仕事も軌道に乗って、同棲して、ケンカもするけど気の合う相手だと実感できたから迎えた次のステップ、自然な流れだった。
カノジョは年上女房になることを気にしていたようだったが、「生まれ年は同じなんだし、年上期間はわずか三か月なんだから」と俺は笑い飛ばした。一月生まれのカノジョと四月生まれの俺。俺が早産だったり、学年の区切りが年末とかだったら同級生になっていたぐらいの誤差。俺より先に社会に出ていたせいか大人びた印象の強いカノジョだけど、実際はそこまで差があるわけではない。
同棲と結婚、夫婦での生活に大きな変化はない。彼女は看護師として、俺はサラリーマンとして働き、不規則な仕事の彼女を支え、俺の足りない部分を彼女が補う。
いや。
一つだけ変わったことがある。
それは、コインランドリーに行かなくなったこと。
同棲からステップアップした俺たちは、浴室乾燥機付きの賃貸マンションに引っ越した。
「これなら、子どもが生まれて洗濯物が増えても問題ないよね」
夫婦になるということは、家族が増える可能性があるということ。家族が増えれば、洗濯物も増え、コインランドリーでなんて悠長なことは言ってられなくなる。共働きだからこそ、いつでも干せて、いつでも乾かせる環境が必要になる。恋人同士と夫婦の違いはそこにあるのかもしれない。大げさな言い方だけど。
「夜遅くに、『明日までにこの体操服、洗って』って言われても問題ないもんな」
「それはさすがに気が早すぎるよ」
妻となった彼女は、とてもよく笑う女性だった。
* * * *
ピーッ。
昔と変わらないコインランドリーの電子音。
その音に、俺は久々のメランコリックから呼び戻される。
「ぱぱぁ。ピーしたよぉ」
幼い声が、椅子に座ったままの俺を促す。先ほどまで乾燥機を楽しそうに眺めていた息子の声だ。
人生初めてのコインランドリー。クルクル回る洗濯物に興味津々だったらしく、乾燥している間じゅう、ずっと眺めていた息子。次は取り出したくて仕方ないのだろう。
イヤイヤ期真っ盛りの二歳児だが、うまくおだてれば手伝いだって遊び感覚で喜んでやってくれる。取り出した洗濯物のなかからタオルを渡すと、いそいそとテーブルの上に広げ、一生懸命たたみ始めた。タオルの次は小さな彼の半袖Tシャツ。ちょっとどころか、かなりクチャクチャなたたみ方になっていたが、息子なりにがんばった証なので、そのままカゴに入れて、よくやったと頭を撫でてやる。
なるべくなんでも褒めて、やりたがったことをやらせるのは、妻の育児方針だった。三人姉弟の長女である妻は、小さい子との接し方が一人っ子だった俺より上手い。
「行こうか」
片手にカゴ、もう片手に息子を抱っこする。
「ままのとこ、いくの?」
家に帰るつもりでの「行こう」だったのだが、息子には「ママのところへ行こう」と聞こえたらしい。
「そうだな。これを家に置いたら、ママと赤ちゃんのとこに行こうな」
「うん!」
うれしそうに、俺の首にギュッとしがみついた息子。
今、妻は二人目の子ども、娘を産んで病院にいる。母親が出産のために入院していると言われても理解できない息子。育休を取った俺と過ごして、不満というより寂しさをつのらせてるようだったので、こうして家事にかこつけて、気分転換にとコインランドリーへ足を運んだ。
いつもと違う空間に、いっとき寂しさを忘れていたようだけど、やはり母恋しなのかもしれない。
――やっぱ子どもにとってママは一番なんだよなあ。
どれだけ尽くしてもママには勝てない。なんたって、生まれるまでへその緒という強力な絆で結ばれた相手だからなあ。そんじょそこらの絆で断ち切れるもんじゃない。
――まあ、こうして抱っこされてくれるんだから、良しとしておくか。
俺の服と息子の服、それと入院中の妻のパジャマ。タオル。
家族の衣類の入ったカゴと息子を抱えて、コインランドリーを後にする。
「ぱぱぁ」
ゴロゴロと猫のように頭を擦りつけてきた息子。
その柔らかい髪からは、どこか懐かしい妻との思い出の香りがした。