美しい女性
私が生涯をかけてお仕えすると誓った侯爵令嬢カテリーナ様は、大変お美しい女性でいらっしゃいます。
この国の貴族子女が通う学園在学時に傷ついた左目を守る眼帯でさえも、カテリーナ様の美しさを引き立てる装身具でしかございません。
特に左目が傷ついたとき、婚約者だった王太子殿下の浮気相手の男爵令嬢を庇って階段から落ちられた際のカテリーナ様は、まるで女神のようにお美しかったのです。
あれから、もう十二年の月日が流れました。
学園卒業前に王太子殿下は男爵令嬢と別れて、カテリーナ様と再構築なさいました。
卒業後は殿下が学園で男爵令嬢と出会う前からの予定通りおふたりは結婚なさり、可愛らしい王子殿下と王女殿下に恵まれました。
ですが王太子殿下は王子殿下と王女殿下がご成人を迎えるよりも早くお亡くなりになってしまわれたのです。
ご健勝で文武に秀でていらした王太子殿下でしたけれど、お子様方がお生まれになったころから体調を崩されて、床に就くことが多くなられていました。
荒淫のせいです。お相手の男爵令嬢も王太子殿下以外の男性と結婚した後で早くに亡くなっていました。
王子殿下が十歳の誕生日をお迎えになるまで、王太子殿下が生きていらっしゃったことこそ幸いだったのです。
国王陛下と王妃殿下はお元気で、王子殿下が成人するまで玉座を守り続けるとおっしゃっています。
王太子殿下のご葬儀で、泣きじゃくる王子殿下と王女殿下を慰めながらも凛と立つ王太子妃カテリーナ様は、女神もきっと恥じ入るほどにお美しかったのです。
「……綺麗になったわね、ラリサ」
王太子殿下のご葬儀から一ヶ月、ようやく王宮も落ち着いて参りました。
お亡くなりになられたご夫君のぶんも公務に励んでいらしたカテリーナ様は、働き過ぎを心配した国王陛下ご夫妻に言われて、今日はお休みを取られています。
午前中は中庭で侍女にして親友の私とお茶を楽しみ、午後からは修行者となったもうひとりの親友を訪ねて、王都の神殿へ向かう予定です。
「ありがとうございます、カテリーナ様」
「伯爵の後妻になる気はないの?」
私の婚約者だった伯爵は、学園在学時は王太子殿下とともに男爵令嬢の取り巻きをしていた男性です。
卒業後の彼は私との婚約を解消し、王太子殿下と別れた男爵令嬢を娶ってご実家を継ぎました。
結婚してから一年ほどで亡くなった男爵令嬢との間に子どもはいませんでした。
「今さらですわ」
ほかの人間にならここで、もう男爵令嬢はいないのだから伯爵を許してやれば良い、などと言われていたでしょうが、カテリーナ様はそんなことはおっしゃいません。
「そうね」
「カテリーナ様こそ一層お美しくなられましたよ」
「ラリサ」
右目で鋭く私を睨みつけた後で、カテリーナ様が苦笑なさいます。
「夫が亡くなってから美しくなっただなんて、親友の貴女以外に言われたなら嫌味かと思うところよ?」
「でも……そうでしょう?」
「……ええ、そうよ。だってわかっていたのですもの。どんなに裏切られても私の殿下への愛が消えないことが、どんなに男爵令嬢を愛していても殿下が私と結婚するしかないことが……あそこで亡くなった男爵令嬢を美しい想い出にして心の奥で守り続けている殿下と結婚するくらいなら、自分が死んでしまったほうが良かったのよ」
けれどカテリーナ様はお亡くなりになりませんでした。
左目を失っただけで回復なさったのです。
そして婚約者の浮気相手を自分の命を懸けても守ろうとしたカテリーナ様のお姿に、王太子殿下の心が動きました。いいえ、元々は仲の良いおふたりだったのです。愛が蘇ったと言うべきでしょう。
「殿下に求められるのは嬉しかったわ。でも……わかっていたの。どんなに愛されても謝罪されても、私はもう殿下を信頼出来ないって。愛せなくなったわけじゃないの。愛しているからこそ信頼出来ないの」
変な話ですが、王太子殿下が裏切ったのがカテリーナ様でなかったのなら、カテリーナ様は殿下の反省を受け入れて過去の過ちを許すことが出来たでしょう。
けれど殿下が裏切ったのはカテリーナ様だったのです。
ご自身の心は引き裂かれ血を流しているままなのに、どうして裏切った人間を許して信頼することが出来るでしょう。
「貴女の言う通りよ、ラリサ。愛することが女性を美しくすると言うのなら、私は今が一番美しいわ。今の私は心から殿下を信頼して愛しているわ。だって死人に裏切られることはないのだもの」
「そうですね、カテリーナ様」
「愛することだけでなく愛されることも女性を美しくするようね」
からかうような笑みを浮かべてカテリーナ様が私を見つめます。
私の婚約者は伯爵家の跡取りで、とてもとても美しい男性でした。
男爵令嬢が現れる前から、彼はさまざまな女性と浮名を流していました。男爵令嬢と結婚することになったのは、彼が彼女を愛していたからというよりも、そうせざるを得なかったからです。
王太子殿下は男爵令嬢との荒淫が原因でお亡くなりになりました。
殿下が彼女と別れて侯爵令嬢と再構築しようとしたとき、男爵令嬢はすでに身籠っていたのです。
秘密を守るために取り巻きのひとりだった伯爵令息が結婚相手に選ばれ、男爵令嬢は出産しました。生まれた子どもは王太子殿下の種ではなく、荒淫に溺れた上に王家の血筋を乗っ取られかけていた殿下は国王陛下ご夫妻に見切りをつけられました。
王子殿下と王女殿下の誕生後、王太子殿下が密かに毒を与えられていたことは、ご本人とお子様方以外の王宮の人間すべてが知っていました。
ええ、もちろん王太子妃であるカテリーナ様もです。
彼女はご夫君を疑わなくても良くなる日を指折り数えて待ちながら、弱っていく殿下を献身的に看病なさっていました。
生まれた子どもが王太子殿下の種でもそうでなくても、出産を終えた男爵令嬢は始末される予定でした。
そうなったら私は伯爵の後妻になるつもりでした。
愚かでしょう? でもどんなに見下されて粗末にされていても、私は彼が好きだったのです。美しい彼に振り向かれなくても追いかけ続けていたかったのです。
だけど──
男爵令嬢の死を告げて、私を求めに来た伯爵の姿に胸が騒いだのです。
ええ、そうなのです。彼は必死な顔で私を求めたのです。
出産後に始末されることは男爵令嬢には秘密でした。彼女を騙して機嫌を取り、ほかの女性は相手にしない生活、どんなに邪険にしてもついて来て恋慕の瞳で見つめる私がいない暮らしに彼は疲れ果てていたのです。
私は彼の求婚を断り、生涯をカテリーナ様に捧げることを誓いました。
ああ! きっとあのときの私はとても美しかったことでしょう。
王宮の夜会で会う独身のままの彼が、真っすぐ私のところへやって来て、カテリーナ様の許可を得て踊りを申し込んでくれるたびに、自分が美しくなっていくような気がします。愛することで、愛されることで女性は美しくなるのです。
「ナターリヤもきっと美しくなっていますね」
「ふふ、そうね。彼女は愛し愛されているから」
男爵令嬢を突き飛ばしたのは、私達のもうひとりの親友であるナターリヤでした。
彼女は王太子殿下の護衛騎士の婚約者でした。
不器用だった護衛騎士はナターリヤに嫉妬して欲しくて、男爵令嬢と親しい振りをしてしまったのです。その愚行がナターリヤの心を壊してしまったのです。
女性しか受け入れない神殿で純潔を誓い、厳しい修行を重ねる修行者になってナターリヤの心は癒えました。
護衛騎士は王太子殿下と男爵令嬢の不貞を止められなかったことと、元婚約者の行動を防げなかったことの責任を取って職を辞しました。
彼は今ナターリヤの暮らす神殿の近くにある男性しか受け入れない神殿で神官になるための修業に励んでいます。貧民街の炊き出しなどでふたりが顔を合わせることもあるようです。
「ナターリヤに会うのが楽しみだわ。殿下がお亡くなりになる前も忙しかったから」
「私も久しぶりです」
ナターリヤ達が還俗して結ばれることはないでしょう。
彼女は嫉妬で心が荒ぶり壊れてしまうような愛を望んでいません。
今の離れていても互いを想い、愛し愛されている日々で十分だと前に言っていました。
愛することで、愛されることで、愛し愛されることで女性は美しくなります。
だけど美しくなった女性が男性に都合良く生きるとは限りません。きっと身勝手に自由に男性を振り回すことのほうが多いでしょう。
とはいえ、そんな毒を持つからこそ美しい女性は魅力的なのだと思いませんか?
身元を伏せて孤児院へ送られた子どもの父親に操られていただけの男爵令嬢は、毒を持たない哀れな女性だったのかもしれませんね。