力
人の立ち入らない山頂で意見を対立させる二体の魔物に、『聞かれてはまずい』という意識はおそらく存在しなかった。何故ならこの場所には魔物しかいない。聞かれる聞かれないという二項自体がそもそも存在せず、だからこそ彼らは大っぴらに煽り、怒り、自分の意見をぶつけ合っていたのだから。
その誰もいない場所に土を踏む音が差し込まれる。
二体の魔物の空気が一瞬で変わる。彼らの半ば平生の範疇にあった表情は消え、口を閉じた魔物の姫がこちらを振り向く。ワイアームの黒々とした巨大な瞳が僕の姿を反射して映し出す。
「何だ貴様は」
巨竜の口が大気を震わし、問い掛けの声を発する。見る者が一瞬で理解せざるを得ない世界最大の力。目前にそびえ立つこの圧倒的な存在感を前にすれば、先に語られた臆病さなどは詭弁としか思えないだろう。
魔物の姫もまた視線をこちらの顔に向けて離さない。推定Sランク、あるいは更に上の強さを持つとも目される高位のモンスター。人を殺す事を本能でなく目的として遂行する冷酷さは、最上級の冒険者パーティにすら忌避される。
「人間? 何故ここに?」
ワイアームも魔物の姫も一様に解せない様子でこちらを見ている。人間が来ないからこそのこのロケーションのはずなのに何故。そしてもちろんその数秒の観察で計り知れる事など無く、やがて溜息でもつくかのような声音でワイアームはこちらへと告げてきた。
「おい人間、今は取り込み中だ。見逃してやるから大人しく山を下りろ」
先程の言葉通りというべきか、やはりワイアームは人を害さない姿勢を崩さない。伝え聞いた人類との接触記録も合わせ、この対応は予想の範囲内だった。
「待て」
そしてそれに対し口を挟んだのは魔物の姫だ。
「私の存在を知られた。この人間は殺す」
先程の平行線を引き継ぐかのようにスタンスの違いを見せつける魔物の姫。改めて交わる二者の視線。基本姿勢が喧嘩をしている以上はそこから派生する様々な行動だって当然相容れるはずがない。
「俺が貴様の事情に配慮する必要があるか? 俺の縄張りで人が死ぬのだけは許さんからな」
「わかった、じゃあ山を下りてから殺そう」
ワイアームの呼吸音に不快そうな音が混じる。それに対し魔物の姫は勝ち誇るように薄く笑った。
「何を不服そうにしている? お前は今、やめろと言わなかったな?」
心の奥を見透かすような大きく見開いた瞳。巨竜は忌々しそうに目を細める。
「お前は私に協力はしたくないが、応援はしているんだ。同盟を気取る自分の代わりに人類に壊滅的な打撃を与えてほしい。人類に敵対はしたくない、でも人類には滅んでほしい。浅ましい臆病さだ」
さっきまで否定の返事を返していたワイアームが、ただ唸り声を上げる。あぎとの先に立つちっぽけな女との触れそうで触れない距離は、正に今の言われた言葉を証明するかのようだった。
「強ければ強いほどその臆病さもまた強い。世界最強の生物であってなお震えて動けないお前らは世界一の臆病だよ」
人間の前でこれみよがしな講釈を垂れる魔物の姫。彼女からすれば協力してくれないワイアームに対してのほんの小さな嫌がらせなのだろう。最強の存在であるワイアームを前に綱渡りとしか言いようが無いこの行為、よほど冷静で度胸があるのか、単に頭のねじが飛んでいるのか。ワイアームも図星を突かれて言葉が見つからなくなったのか、彼女を睨みつけつつも押し黙っている。
「魔物同士で化かし合いみたいに喋っているのはやめろ。意味が無い」
数秒の隙間が生まれた。これまで黙っていた人間が口を開いた事により、ほとんど無視するように会話をしていた魔物たちが改めてこちらに目を向ける。
「僕はそこの魔物に用がある。ワイアームには悪いが邪魔をさせてもらうぞ」
意外なことを言われたという顔で魔物の姫は「なんだって?」と目を見張る。ワイアームの瞳にも似たような感情の色が見えたが、数秒置いてギリギリとその無数の牙を剥き出しながら大気を押し潰すように息を吐いた。
「人間。二度言わせるな。俺の縄張りで人死には許さない」
怒りを押し殺しながらワイアームが一言一言、区切るように告げる。
「貴様もここまで来れるという事は腕に覚えのある冒険者なのかもしれん。だが魔物の姫には敵うまい」
人間を死なせないがために重ねられるワイアームの言葉。人類側には魔物の姫の強さについて正確な情報は無いのだが、その口ぶりから察するにやはり相当の実力らしい。
「そもそも俺が去れと言って去らないのであれば、それは俺に仇名す行為だ。貴様個人がワイアームを敵に回して相手できるつもりか?」
深淵のような口腔、見せつけるかのように大きく顎を開きながら問い掛けるワイアーム。あれほど死ぬなと言っておきながら殺すぞとでも言わんばかりの脅しだが、もちろん普通の人間であれば理屈など関係無しに震えて逃げだしてしまう事だろう。
僕はワイアームの言葉には答えず、その大口の真ん前へとすっと歩み出た。
「……何のつもりだ」
「相手をすればいいんだろう」
いよいよ怒りが頂点に達したと見え、ワイアームはぐらぐらと眼球を揺らしながら射殺すように僕の事を睨みつける。口腔の奥の巨大な生体機構を思わせる複雑なノイズが頭上から降りかかった。
「自死願望でも持っていたか。貴様のちっぽけな死に箔を持たせたいなら他所でやれ」
先程魔物の姫に対峙した時よりも余程忌々し気に吐き捨てるワイアーム。よほどの狂人か狡猾か。どちらにせよ彼にとっては不愉快極まりない存在に見えている事だろう。
「さっき999999にしたんだ」
「何の話だ」
ワイアームが吐き捨てるように言う。抑えられないのか口の中から種々様々な魔力が漏れ出している。
「力だ」
直後、鼓膜を破らんばかりの轟音と共に山全体を震わせるような地響きが広がった。周囲の植物はその揺れに合わせてゆさゆさと頭を振り回し、衝撃を吸収し切れなかった石や砂がばらばらと何度も宙に飛び散らかっている。
端が割けるほどに見開かれたワイアームの瞼。釘付けになったような黒の瞳に映るただの人間の男の姿。その後ろには同じく目を見開いた魔物の姫。
「な、に……?」
何が起こったのか解っていないのか、ワイアームはただ困惑していた。体に走った衝撃。動かせない首。最初何かしらの攻撃を受けたと思ったのであろう、世界を食らう大蛇の異名を持つその体を軽率にうねらせながら、更なる地響きと共に自分の体に異常が無いかを確認する。そしてぎょろぎょろと高速で瞳を動かして辺りの様子を伺ったあたりでようやく状況を把握したように息を止める。
動いている。周囲の景色がほんの少しだけ動いているのだ。地面に見える擦り付けたような巨大な痕。宙に舞う砂ぼこり。そして巨竜の顎を掴んで離さない人間の腕。
それは攻撃などではなかった。ただ引きずられただけだ。その体一つで小島に匹敵されると言われるワイアームの巨体が人間の細腕の力によってほんの1メートルほど動いていたのである。
「このくらいでいいか? 相手」
理解が追い付かない顔のワイアームに僕が言うと、その瞳には怒りとも不満とも違う初めての色が見て取れた。そう、例えるなら……何かとてつもなく大きな生き物を見た時にはこんな顔をするのかもしれなかった。
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