弓道魔法少女
ここは、フィリスティアの西部に広がる森の中。
木漏れ日となった朝日が差し込むほら穴に、雨に濡れた木の葉のツンと鼻をつくような香りが、そよ風に乗って漂ってきた。
ほら穴の奥に張ってある小さなテントから、目を覚ましたカヲルが、まだ眠たそうに目をこすりながら顔をのぞかせた。
「・・・朝か。」
大きくあくびをしながらテントを這い出たカヲルは、ほら穴を抜け出て空を見上げた。緑色の天井の隙間から見える空は、すっきりと晴れている。
二日前から降り続いた雨がようやく止み、今朝は澄んだ青空が戻ってきた。
カヲルは思う存分体をのばし、朝のさわやかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
アイゼンベルグを出発してから、一週間が経った。国王から貰った路銀を極力使わないように、野宿をしながらひたすら西へと進み続けたが、三日前に食料の調達で立ち寄った街で、カヲルは目的地に関する有力な情報を得た。その街から北西にある森を抜けると、イメージで見た風景に特徴が合う村があるという。
連日の雨で思うように進めず、森を抜けるのに余計な時間がかかってしまったが、なんとか今日中に森を抜けられそうだ。嬉しそうにほら穴へ戻ったカヲルは、テントの前にある、魔物避けのために夜通しで焚いていた焚き火の跡に、新しい薪をくべて火をおこした。立ち寄った街で買った携帯食料の肉を、ステンレス製の小鍋に入れて火にかけ、やがて肉に火が通りはじめると、香ばしいにおいがほら穴に充満しはじめた。
「うん、良い香りだ。」
焼けた肉をひと切れフォークでつっつき、口に運ぶと、胡椒のスパイシーな香りと肉汁が口いっぱいに広がった。
肉をすべて食べ終えると、カヲルは荷物の中から、ピンク色の布でできた包みを取り出し、中から、セフォネ手作りのクッキーを一枚取りだした。
これまで大事に食べてきたクッキーも、残すところあと一枚となってしまった。
カヲルは、クッキーをしげしげと見つめながら、名残惜しそうにつぶやいた。
「・・・これで、最後の一枚か。」
クッキーを見つめていると、ふとセフォネの可愛らしい笑顔が頭をよぎり、カヲルはどこか悲しげな表情でつぶやいた。
「セフォネ・・・どうしてるかな。」
セフォネと過ごした時間は、たったの一ヶ月ほど。しかし、彼女と離れてからというもの、カヲルは度々こうして、セフォネの顔を思い浮かべている。
「・・・僕が本当に城に戻ったら、セフォネは喜んでくれるかな。」
約束をした以上、カヲルは城に戻るつもりでいる。それに、またセフォネに会いたい気持ちもある。
――どうして、こんなにもセフォネに会いたいんだろう・・・。――
解けない疑問を胸に秘めたまま、カヲルは最後のクッキーを口に放り込んだ。ほの甘いチョコの香りが、体に元気をくれるようだった。
「さて、今日で目的の村に着けるといいなぁ。」
身支度を整え、最後にカヲルは、焚き火に湿った土をかけて火を消した。
「じゃあ、一晩世話になったね。」
と、カヲルは空っぽのほら穴の奥に転がる、かつてここを住処にしていたと思われる、朽ちた動物の骨に向かって、静かに手を合わせた。
アイゼンベルグ付近の森と違って、この森は野生の魔物の数が少ない。そのおかげか、カヲルは余計な時間を取られることもなく、昼前には森を抜けきることができた。
森の向こうには、広大な田園風景が広がり、あぜ道が真っ直ぐ伸びている。
「あっ!あれが海か!」
遠くに、わずかだが水平線が見える。ようやく海が姿を見せた。
「うわーすごいなぁ!」
山に囲まれた片田舎で育ったカヲルは、本物の海を一度も見た事がなく、生まれて初めて目にした海に、カヲルは心を躍らせた。もっと近くで見てみたい。そう思ったカヲルが走りだした時、
ヒュン!
カヲルに向かって、突然なにかが飛来し、一瞬のうちにカヲルの左頬を掠めて通り過ぎた。
「――え?」
やがて、かすめた部分にじんわりと鈍い痛みが広がり始めた。おそるおそる触れてみると、指に血が付着している。傷は浅いようだが、どうやら横切った何かに頬を切られたらしい。
カヲルは、息を呑んで恐る恐る振り返った。
「――!」
カヲルの背筋に、戦慄が走った。数メートル先の地面に、矢が刺さっている。
ようやく自分の身に何が起きたのか理解したカヲルは、血の気が引いた青白い顔で地面に伏せた。
――誰かに狙われてる!でもどうして・・・――
矢が飛んできた方に目をやったが、前方は見渡す限りの田んぼで、弓を構える人の姿はどこにも見当たらない。
まさか、野盗に襲撃されたのか。
凍りつくような不安が襲い、額からどっと冷たい汗を滝のようにかいた。
直後、二本目の矢が、矢尻にきらりと日差しを反射して飛んできた。
「うわっ!」
とっさに頭を下げたカヲルの毛先を、矢が掠めていった。間違いなく、カヲルは何者かに狙撃されている。言い知れぬ恐怖が、腹の底に広がった。どこから矢を放ってくるのか分からない以上、このままここに留まるのはあまりにも危険だった。やむなく、カヲルは、三本目が飛んでくる前に、荷物をその場に残して再び森へと飛び込んだ。相手が追ってくることも有り得るため、カヲルは敢えて、木々が密集して生えている歩きづらい方へと逃げた。幸い、森を歩くことに慣れているカヲルは、すいすいと木々の間をすり抜けていった。
一体どれだけ走ったのか分からないが、無我夢中で森を駆けたカヲルは、一際太さが目立っている大木を見つけ、背後から狙われないように背中をピタリと木の幹にはり付けて辺りを見回した。
普段ならこの程度走ったところで息など切れないが、何者かに狙われてるという緊迫した状況と恐怖で、カヲルは肩で息をしている。できるだけ静かに息を整えながら様子を伺ったが、人の気配はない。ときおり吹き抜ける風が葉を揺らす音以外はなにも聞こえず、森は至って静かだった。どうやら、追いかけては来ていないらしい。
「・・・だ、大丈夫みたいだ。」
と、ほっと胸をなでおろしたカヲルが、木の幹に背中をはわすようにストンと腰を落とすと、
パスンッ!
「――!」
たった今まで顔があった場所に、矢が突き刺さった。
カヲルは、矢を見るや、とっさに口を手で覆い、悲鳴を上げたい衝動を抑えた。
――どうして!どこにも姿は見えないのに!――
恐怖で涙がこぼれそうだった。
必死に手で息が漏れないようにするが、呼吸はどんどん乱れていく。相手は威嚇ではなく、確実にカヲルの命を奪うつもりだ。姿の見えない敵に襲われるという言い知れぬ恐怖に飲み込まれそうになった。
カヲルは、そっと腹ばいになり、すぐ近くの茂みに身を滑らせた。
――これだけ静かで鬱蒼としてる森で物音一つたてずに近づいてくるなんて・・・一体どうやって・・・――
直後、ガサガサと遠くで茂みをかきわける音が聞こえてきた。カヲルの心臓が、ドクンッ!と脈打った。
――来た・・・!――
少しずつだが、音はこちらに近づいてきている。カヲルは、息が漏れないよう、口をがっちりと真一文字に結び、さらに茂みの深いところまで移動した。
やがて、足音はすぐそこまで迫ってきた。相手は今、カヲルが立っていた木のすぐ近くにいる。カヲルが潜んでいるところから、わずかに人の足らしきものが見えた。狙撃者で間違いないようだ。
――もっと距離をとらないと――
相手に気づかれぬよう、一歩ずつ一歩ずつ、カヲルは進んだ。そして、再度確認するために、狙撃者がいた所に目をやると、相手の足が無くなっている。
――・・・ど、どこに行ったんだ!――
すると、
ガサッ!
カヲルの頭のわずか数十センチ後ろに、足が降ってきた。
――・・・!!――
思わず声が出そうになるのを、すかさず手で口を覆いとどめた。
カヲルの後ろに降ってきた足は、さらにカヲルの斜め前に進んだ。どうやら、カヲルには気づいていないようだ。カヲルは、ゆっくりと首を回し、相手の方に顔を向けた。今相手は、カヲルに背を向けている。ここが絶好のチャンスだった。後ろから飛び出して羽交い締めにすれば、相手は弓を使えない。ナイフなどの武器も持っているかもしれないが、このままここに潜んでいても埒が明かない。状況を打破するなら、ここしかない。そう思ったカヲルは、一度ぎゅっと目を閉じ、覚悟を決めて茂みから勢いよく飛び出し、相手の体を後ろから羽交い締めにした。
すると、
「ひゃああ!」
飛びついた相手が、短く悲鳴をあげた。
――・・・ひゃああ?――
想像していた狙撃者とはかなりかけ離れた声色の悲鳴に、カヲルは一瞬戸惑った。つかみかかった相手は、凍りついたように動かなくなり、静けさが漂っている。
カヲルが恐る恐る目を開けると、目の前に、オレンジ色の髪の後頭部があった。そして、相手の前に回した両手では、なにやらとても柔らかいものを二つ掴んでいる感触があった。
――・・・こ、これは・・・!――
すると、相手は突然大声で叫んだ。
「きゃあああああ!どこ触ってるのー!離してよエッチー!」
掴んでいるものの正体が分かったカヲルは、一気に顔を真っ赤にした。だが、この女性が弓をうってきた相手である以上、不用意に離れることは出来ず、もがく女性の体を、カヲルは強く押さえ続けた。女性は、また大声で訴えた。
「きゃぁああ!もうヤダー!離してったらー!」
すると、女性は突然左手を真っ直ぐ上に伸ばして叫んだ
「サンダーボルト!」
直後、今まで経験したことのないような衝撃が、カヲルの頭から足の先まで一気に駆け抜けた。ほぼ同時に、カヲルと女性は悲鳴を上げて、二人揃って気を失い、茂みの中に倒れた。
次にカヲルが目を覚ましたときは、森の中ではなかった。
ソファーで寝かされていたカヲルが、薄く目を開けると、高い天井で四枚の羽が付いたシーリングファンが、くるくるとのんびり回っていた。
「・・・どこだ、ここ。・・・」
ゆっくり半身を起こすと、ズキリと頭に痛みが走った。まったく動かないほどではないが、手足の指先が軽く痺れている。矢が掠って切れた頬には、傷を覆う大きさの四角いガーゼが貼ってあった。
「・・・何があったんだ。」
カヲルは一瞬、自分に何が起こったのかを忘れていた。しかし
「・・・そうだ。森で知らない女の人に狙われて・・・それで・・・」
カヲルは、森での出来事を思い出したとたんに顔を真っ赤にし、恥ずかしさで顔から火が出るようだった。痺れているが、あの柔らかな感触が、いまだに手に残っている。カヲルは、頬をポリポリとかきながら、周りを見回した。人の姿は無いが、どこかの街の民家のようだ。
「・・・誰かに助けられたのかな。」
すると、ソファーの後ろの開いた窓から、心地よい風が入ってきた。ちょうどいい冷たさだが、その風は、なんだか少し生臭さが混じっている。これまで嗅いだことの無いような臭いに、カヲルは思わず顔をしかめた。
「・・・なんのにおいだ、これ」
ソファーを下りて、ふらふらと窓に近づいたカヲルは、窓の枠に手をついて、窓の外を見た。
遠くで、広大な海が穏やかに波を立てていた。
「あれは・・・海?じゃあ、もしかしてここは・・・」
カヲルは、窓から身を乗り出して、家の外壁を見た。カヲルが居る家は、外壁が全面赤いレンガで作られている。よく見ると、周辺の家のほとんどが、同様に赤いレンガで建てられている。どうやら、いつの間にか目的の街に着いていたようだ。
ポカンとしたカヲルは、あっけらかんとしてつぶやいた。
「気を失ってる間に、着いちゃったのか・・・」
すると、後ろの方から女性の唸り声のような音が聞こえた。とっさにカヲルが振り返ると、奥の部屋から、オレンジ色の長髪の女性が一人、太ももの付け根ギリギリまで顕になった青いデニム製のホットパンツに、肩紐が片方ズレ落ちた白のタンクトップ姿で、気怠そうにあくびをしながら部屋に入ってきた。
少女は、目をかきながら部屋をキョロキョロと見回し、寝ぼけたようなおっとりとした口調でいった。
「あれ、カリスー、いないのー?」
まるで、寝ぼけているような半目開きの目が、唖然としているカヲルを見た。
二人の目が合ったその時だった。
「・・・あっ。」
カヲルは、不思議な感覚にとらわれた。
――この感覚・・・ヴェイン隊長に感じたものと同じだ。・・・てことは、まさかこの子が・・・――
しばし、二人の間に、沈黙が漂った。
少女は、目を擦りながらいった。
「・・・もう、カリスったら、また変な置物買って・・・」
驚いたカヲルは、目を見張った。
――置物だと思われた!――
「そーいえば、なんでレーナ寝てたんだっけ・・・まぁいっか。」
すると、少女は、突然カヲルの目の前で、着ていたタンクトップを脱ぎ始めた。
カヲルは、慌てて声を上げた。
「うわーっ!ち、ちょっと待って!」
「ん?」
ブラジャーに支えられた、身長に似合わない大きな胸を顕にしたところで、オレンジ色の髪の少女は、再度カヲルを見た。
またも、二人の間に沈黙が漂った。
そして、思い出したように驚愕した少女は、カヲルを指さして叫んだ。
「わーっ!置物がしゃべったー!」
言われて、カヲルは、がくりと肩を落とした。
――・・・まだ置物だと思ってる。――
カヲルは、落ち着いた口調でいった。
「ち、違います。僕は人間ですよ。ほら、よく見てください。」
「・・・人間?」
怪しむように、少女はカヲルをジロジロと睨んだ。
すると、少女はまたも驚愕して叫んだ。
「あーっ!あなた、森でレーナのおっぱい触ったエッチなトーゾクだ!」
「ええっ!ちちち、違うよ!あれは事故で・・・それに、元はと言えばあなたが突然僕に向かって矢を飛ばしてくるのが悪いんじゃないか!ホントに死ぬかと思ったんですから!それに、僕は盗賊なんかじゃありませんから!」
自分をレーナと呼んだ少女は、眉間にシワを寄せてさらに訴えた。
「ウソだ!そんな変な髪型の人、レーナ見たことないもん!」
カヲルは、思わず絶句した。
まさか、髪型だけで盗賊と判断されるなんて思いもしなかったからだ。カヲルは、珍しく声を荒らげた。
「・・・ひ、ひどいじゃないか!髪型で人を判断するなんてあんまりだ!これでも、結構気に入ってるんだぞ!」
行く先の見えない口論を続けていると、家の玄関が開く音とともに、若い女性の声が部屋に響いた。
「ただいまー。レーナ起きたー?」
その声を聞くや、レーナは
「カリスッ!大変だよー!」
と叫びながら、玄関に走っていった。
部屋の外で、なにやらコソコソと話している声が聞こえる。
やがて、見知らぬ女性が部屋に入ってきた。
歳は二十代半ばくらいか。黒い瞳は細く切れ長で、髪は前髪の一部を紫色に染めた、肩にかからない程度の黒いセミロング。肌はやや日に焼けたレーナよりも白く、おへそが丸出しで袖をあえてボロボロにした淡黄色のノースリーブのシャツに、レーナが履いているものと同じの、デニム製で太ももが付け根ギリギリまで出ているホットパンツを履いた、明朗快活な女性だった。その女性の後ろに隠れて、レーナも一緒に部屋に入ってきた。
前を歩く女性と目が合ったカヲルは、ぺこりと頭を下げた。
「・・・こ、こんにちは。」
女性は、明るい口調でいった。
「あら、目が覚めたのね。」
すると、レーナが女性の後ろから顔をのぞかせ、怒りを含んだ声で叫んだ。
「カリス!この人トーゾクだよ!私のおっぱい触ったエッチなトーゾクなの!」
「・・・だ、だから、僕は盗賊じゃないってさっきから――」
カリスと呼ばれた女性が、カヲルの言葉を遮った。
「ごめんなさいね。この子、ちょっとおバカちゃんで、あなたを最近街で話題になってる盗賊と勘違いしたみたいなの。」
カヲルは首をかしげた。
「・・・話題になってる、盗賊?」
「絶対そーだよ!だって、こんな髪の毛の人見たことないもん!」
カリスは、呆れたように目を細めた。
「あのねぇ、いい加減決め付けで行動するのやめなさいってば。あんたこの間だって、お隣が散歩に連れてた大型犬を狼の魔物と勘違いして、危うく射抜くとこだったじゃない。アタシが止めてなければ、今頃どうなってたか。」
「・・・だ、だって!あんなに大きな犬見たこと無かったんだもん!」
「そーゆー種類なんだって、どうして思わないわけ?」
「だって、ニャンコはちっちゃいのしかいないし・・・」
呆れて言葉を失ったカリスは、カヲルに向き直した。
「・・・という訳で、この通り救いようのないアンポンタンなの。だから、悪く思わないでね。もちろん、お詫びはさせてもらうから。あ、私はカリス。よろしく。」
「・・・か、カヲル・Tライトニングです。こちらこそ、見ず知らずなのに、手当までして頂いて、ありがとうございました。」
と、カヲルは深く頭を下げた。
そんなカヲルを見て、カリスは未だに自分の後ろに隠れているレーナの首根っこを掴み、自分の横に立たせると、無理やりレーナの頭を下げさせた。
「ほら、あんたも謝んなさい。一歩間違えたら、この人を殺すところだったんだから!」
「えー・・・で、でも」
「・・・(じとーっ)」
渋るレーナを、カリスはさげすむような冷たい目で見下ろした。
「・・・うぅ。」
カリスに威圧され、眉をレの字に曲げててたじろいだレーナは、観念して、ごめんなさい、とカヲルに頭を下げた。
「許してもらえるかしら。」
「・・・ま、まぁ、謝ってもらえれば」
「そう。本当にごめんなさいね。どこか痛むところはない?」
問われたカヲルは、手足が少し痺れると答えた。カリスは、申し訳なさそうに眉尻を落とした。
「レーナの晶術をまともに受けたんだもの、当然だわ。」
カヲルは首をかしげた。
「晶術?」
「あぁ、そう言われても分からないわよね。」
カリスは、足元で不服そうに口を尖らせているレーナの頭をわし掴みにしていった。
「レーナはね、恐らく世界で唯一、自在に晶術を扱える子なの。」
晶術。つまり、魔法のことだ。
かつて存在した、火や水といった元素を自在に操る業で、その用途は多岐にわたり、人々の暮らしに恩恵を与え、太古の文明を発展させた要因の一つとなった。
詳しい発動の条件や方法などは明らかにされていないが、一説によると、それぞれの元素に該当する精霊の力を借りて発動させるとあるが、それも数ある諸説の一つに過ぎず、さらに、産業技術の発展により、ある程度の知識と訓練が必要な晶術は徐々に衰退し、現代においては完全にその姿を消している。そのため、カヲルのように晶術の存在そのものを知らない者もいる。
カリスは、なるべく分かりやすいように、カヲルに晶術を説明した。
話を聞くうちに、カヲルはまるで無垢な少年のように、瞳をキラキラと輝かせた。
「す、すごい!そんな物語に出てきそうなものがこの世に存在するなんて」
「そうでしょ?私も初めて見たときは、目を疑ったわ。まさか、本当に晶術が存在したなんて・・・しかも――」
カリスは、腰を下ろしてレーナの首に腕をまわし、自分の方にぐいっと寄せて顔と顔をくっ付けた。
「こーんなおバカちゃんだけが使えるなんてね!」
すると、ムクっと膨れたレーナは突然カリスを押し倒し、馬乗りになると、不敵な笑みを浮かべてカリスに顔を近づけた。
「あんまりレーナをバカにすると・・・こうだ!」
と、レーナはカリスの両わき腹をくすぐりだした。
「やっ!やめて!くすぐったいってばー!キャハハハハッ!」
カヲルに構わずベタベタと戯れる二人を、カヲルは真っ赤な顔を背けて終わるのを待った。
レーナにくすぐられ過ぎて、肩で息をしているカリスは、ぐったりとした顔で体を起こした。
「はぁ、はぁ、つまり、あなたが受けたのはレーナの晶術よ。気絶するのも無理ないわ。」
それを聞いて、この少女が英雄の仲間の生まれ変わりかもしれないという疑問が、より確信に近づいた。
「あの・・・ひとつ聞きたいことがあるんですけど・・・」
「・・・な、なにかしら?」
カヲルは、レーナに顔を向けた。
「レーナちゃんは、もしかして、ご先祖さまがとてもすごい人だったってことはないですか?」
あまりにも直球過ぎる質問に、レーナとカリスは揃って首をかしげた。
「この子の先祖が・・・なに?」
「いや、だから、あの・・・レーナちゃんのご先祖さまは、何百年も昔に世界を救った英雄の一人なんじゃないかなぁと思って・・・」
レーナとカリスは、険しい顔を互いに見合わせた。
「・・・今まで聞いたことなかったけど、そうなの?」
「んー・・・」
腕を組んでうなるレーナだったが、わかんない。と首を横に振った。
「そっか・・・」
――そうだよな。僕だって知らなかったんだから、他の人だって・・・――
すると
「なんだなんだ、めずらしく湿っぽい雰囲気だなぁ。」
と、部屋の中に野太い男の声が響き渡った。
騎士の鎧を身につけた男が、開いた窓から部屋の中を覗き込んでいた。
レーナは、その男を見て、パッと明るい表情でいった。
「あっ!ミクりん!」
ミクりんと呼ばれた、色黒の目鼻立ちがハッキリした、いわゆる〝濃いめの顔〟の騎士は、やや困ったように笑った。
「おいおい、いい加減〝ミクりん〟て呼ぶの止めねぇか?」
「なんでー?可愛いじゃん!」
「もう今年で三十二だぜ?そんな風に呼ばれる歳じゃねえよ。」
今度は、カリスが声をかけた
「見回りお疲れ様。シーネスは今日も平和だった?」
「ああ、二丁目の空き家に住み着いた野良猫が子供を四ひき産んだ以外は至って平和さ。まったく、暇で暇でしょうがねぇよこの村は」
「あっ!赤ちゃん産まれたんだ!見に行かなきゃ!」
「平和が何よりよ。アイゼンベルグはまだまだ大変みたいだけどね。」
「まったく、天下の国家騎士団もいざって時に頼りになんねえよな。世界でも指折りの強さと団結力を誇るとか何とか言われてるけどよ。肝心な時に役に立たねえんじゃなぁ。」
「・・・」
黙って聞いていたカヲルだが、聞き捨てならないことを言われ、思わずムッとして立ち上がった。たくさんの犠牲者を出し、今もなお、街の復興に全力を尽くしているヴェイン隊長ら国家騎士団をけなしたことが、カヲルは許せなかったのだ。
「何も知らないのに、勝手なことを言わないでください!」
突然叫んだカヲルに、カリスは唖然とした。対して、騎士の男は怪訝そうにカヲルを見つめた。
「なんだあんた。突然叫んだりして・・・うん?」
すると騎士の男は、窓から屋内に身を乗り出し、目を細めてカヲルを凝視した。
すると、驚愕したように目を見開いてカヲルを指さした。
「あっ!お、お前・・・まさか、か、カヲル・Tライトニングか!?」
怒りに我を忘れていたカヲルも、騎士の男に名前を言われて、しまった!というような様子で口元を手で覆った。自分の名前が顔写真付きで全国の地方騎士団に通達されていることを、カヲルはすっかり忘れていたのだ。
「あらミック、この人知ってるの?」
「あ、ああ。二週間くらい前に、騎士団本部からこの男の名前が顔写真付きで通達されたんだ。例の、アイゼンベルグで起きた化け物の襲撃事件に関わってる、最重要人物ってな。」
「えっ、じゃあこの人、悪い人なの?」
カヲルは焦ってその疑いを否定した。
「ちちち、違います!話を聞いてください!僕は悪いことなんてしていません!ただ、街を襲った化け物と戦っただけで・・・」
依然、カリスは疑いの目をカヲルに向け続けているが、ミックが言葉を継いだ。
「そいつの言っていることは本当だ。今言った通りのことが書面に書いてあったし、最重要人物ってだけで、事件の首謀者とは記載されてなかった。」
「・・・へぇ。」
といいつつも、カリスの表情は変わらなかった。
困った様子のカヲルだが、ふと、ついさっきまでいたはずのレーナがいなくなっている。
「・・・そ、そういえば、レーナちゃんは?」
「・・・あれ?」
気づいたカリスも、辺りを見まわした。
「レーナ?」
「レーナなら、ついさっき外へすっ飛んでったぜ。おおかた、俺が話した猫の赤ん坊でも見に行ったんだろ。」
「レーナちゃんって、そんなに猫が好きなんですか?」
カリスは呆れたようにいった。
「好きなんてもんじゃないわ。あの子の猫好きは異常ね。死ぬときは猫に踏まれて死にたいって言うくらいだもの。」
いま聞いた話や、カヲルとの会話の噛み合わなさといい、髪型だけでカヲルを盗賊だと決めつけるところといい、レーナはかなり〝天然〟な性格のようだ。
「・・・だけど、本人は飼ってないんですか?」
「ええ、私が猫アレルギーだからね。仕方なく。」
「・・・な、なるほど。」
「ところで、さっき、レーナの先祖がどうだかって聞いてたけど、それを聞いてどうするつもりだったの?」
カヲルは、一瞬言葉に詰まったが、本当にゼウスがこの世界を攻めてくるのなら、遅かれ早かれ彼女たちも知ることになるだろうと思い、カヲルは質問の真意と、旅の目的をカリスとミックに語った。
「・・・なるほど。それで、晶術が使えるあの子が、英雄タクトの仲間の生まれ変わりなんじゃないかって思ったわけね。」
「いえ、そういうわけではないんですけど・・・」
今のところ、レーナが英雄の生まれ変わりだという物理的な証拠はどこにもない。
初めてヴェインと対面した時に感じたあの感覚を、レーナにも感じたからだ。などと言っても、普通は信じるはずもない。
「・・・直感で」
カヲルには、これが精一杯だった。
とたんに、ミックは腹を抱えて笑いはじめた。
「あのレーナが英雄の生まれ変わりなわけねぇだろ。それに、神様がこの世界を滅ぼす?冗談キツイぜ青年!」
やはり、まったく信じてはいないようだ。
「新聞の記事にも書いてあったじゃねえか。ありゃあどっかの国が寄越した生物兵器だ。」
実は、神の使いによる襲撃の翌日、新聞の一面には、〝謎の生物兵器がアイゼンベルグを襲う〟と載っていたのだ。
ゼウスのことについても、同様に報じられていた。国際問題にまで発展した事件でも、やはり世間は、簡単には神の存在を信じたりはしなかった。
カリスは、説得するようにいった。
「誰が何を信じようと、その人の自由だけど、他人を巻き込むのは良くないと思うわ。いくらなんでも怪しすぎるもの。」
「・・・は、はぁ。」
話があまりに現実離れしすぎていて、ミックもカリスも、カヲルの話には耳を傾けなかった。今の二人からすれば、カヲルはただの変わり者の旅人としか思われていないだろう。
――困ったなぁ・・・このままじゃ、信じてもらうどころか、レーナちゃんを仲間にできないぞ・・・ここはやっぱり、本人を直接説得するしか・・・――
その頃レーナは、村の東側にある古い納屋の中にいた。
ここは、元々農作業につかう道具などをしまうための物置だったが、長く使われなくなった今では、野良猫たちの良い住処になっている。その中の、無造作に敷かれた小汚いワラの上で、一匹の猫が生まれて間もない三ひきの子猫に母乳をあげていた。その様子を、レーナは目をキラキラさせて見つめていた。
「か、可愛い〜♡」
本当なら、子猫を手に取って撫でてやりたい所だが、母猫がしっかりガードして子猫を守っているため、レーナは不用意に近づかず、一定の距離を置いて子猫を見つめていた。
「元気な子が産まれてよかったねぇ、ニャンコ〜。あ、そうだ!」
レーナは、おもむろに持ってきた布の袋から、新鮮な魚を一尾取り出して、母猫の近くにそっと置いた。
「これ買ってきたの!たくさん栄養つけて、子にゃんこに良いおっぱいを飲ませてあげてね!」
母猫は、一見眠たそうな目でレーナを見続けていたが、急に何かを察知したように耳を動かし、納屋の外へ顔を向けた。
「どうしたの、にゃんこ?」
すると、母猫が見ている小窓から、カヲルが顔を覗かせた。
「あ、いたいた。」
と、納屋の戸が開き、カヲルが中に入ってきた。
カヲルは、レーナの横に立って、前かがみになって猫の親子を見た。
「その子が話に出てた子猫?可愛いね。」
レーナは、ムッとした表情でカヲルを見上げ、声を低めていった。
「何しに来たの?――まさか、今度はにゃんこのおっぱいを触りに来たの?」
ガクリと肩を落としたカヲルは、困ったような表情でいった。
「そ、そんなわけないでしょ…。
レーナちゃんに、どうしても聞きたいことがあるんだ。」
レーナは、ツンと口をとがらせて猫に顔を向けた。
「後にして。今はニャンコといたいの。」
「・・・」
カヲルは、困ったようにポリポリと頬をかいた。
「・・・じゃあ、外で待っているね。」
レーナは、返事をしなかった。
納屋は砂浜のすぐ近くに建っている。
納屋の目の前は、一面が広い大海原だった。時刻は、そろそろ夕刻を迎えようとしている。カヲルは、納屋の目の前に広がる浜辺に立ち、夕陽を反射して赤く染っている海を見ていた。
「イメージで見たのと同じだ。夕日に照らされて海が赤くなってる。・・・キレイだなぁ。」
寄せては返す波の音が、耳に心地良かったが、カヲルの心根は不安だらけだった。
「はぁ・・・困ったなぁ。レーナちゃんに完璧に嫌われてるよ。どうしよう・・・」
そこへ
「レーナは居たかい?」
と、騎士のミックがザクザクと砂を踏んで近づいてきた。さっきとは違い、鎧は身につけていなかった。
「・・・今、納屋の中に猫と一緒にいます。」
「そうか。例の与太話は聞き入れてくれたかい?」
カヲルは、またムッと眉をひそめた。
「与太話なんかじゃありません。すべて本当です。」
ミックは、フッと鼻で笑い返した。
「へっ、そうかいそうかい。まぁ、あんまり人様に迷惑かけんなよ。お前さんは騎士団に目をつけられてるんだからな。」
カヲルは、腑に落ちないといった顔でミックを睨みつけたが、事実であるため、言い返すことが出来なかった。
すると
「――!」
突然、地面が大きく揺れだした。地震だ。カヲルは、とっさに地面に体をふせた。
およそ二十秒ほど、大きな地震は続いた。直後、カヲルの後ろで凄まじい音が響いた。振り返ったカヲルは、一瞬で血の気が引いた。凄まじい轟音とともに、レーナがいる納屋が崩れたのだ。
「そんな!レーナちゃん!」
言い終えると同時に、ミックが崩れた納屋に駆け寄った。ミックは、崩れた瓦礫を退かしながらカヲルに叫んだ。
「お前も手伝え!完全に崩れるぞ!」
納屋は、まだ半壊程度で留まっているが、全壊するのも時間の問題だ。急いでカヲルも駆け寄り、瓦礫を退かし始めた。二人が一緒に屋根に使われていたトタン板を持ち上げると、骨組みの下敷きになっているレーナを見つけた。
「レーナちゃん!」
「おい!俺が骨組みを持ち上げるから、お前がレーナを引き出せ!」
と、ミックは腰を落し、声を上げながら太い骨組みをわずかに持ち上げた。すかさず、カヲルは骨組みの下に潜り込み、レーナの手を掴んで引き寄せた。それから、どうにかレーナを引き出すと、カヲルはすぐにレーナを納屋から離れた所へ運び、名前を呼びかけた。
「レーナちゃん!」
駆け寄ってきた汗まみれのミックも、レーナの顔を覗き込んだ。
「おい!レーナ!」
気を失っているレーナの顔が、わずかに動いた。安心したカヲルは、力が抜けたように肩を落とした。
「よかった・・・」
目を覚ましたレーナは、崩れた納屋に目をやった。
「あっ・・・ねぇ、にゃんこは?」
「猫・・・」
カヲルも納屋に目をやった。あの猫の親子は、まだ瓦礫の下敷きになったままだった。
「おいおい、猫なんかいいだろ。自分は助かったんだからよ。」
すると、カヲルは
「ミックさん、レーナちゃんをお願いします。」
と、再び瓦礫の山に駆け込んだ。
「お、おい!もう崩れちまうぞ!」
しかしカヲルは、瓦礫の下に潜り込めそうなところを見つけると、モゾモゾと身を滑り込ませた。
「バカな、あいつ死ぬ気か」
そこに、騒ぎを聞き付けた人がぞろぞろと駆けつけた。
「何があったんだ!」
「若いやつが一人、下敷きになった猫を助けに瓦礫の下に潜り込んだんだ!もう崩れちまう!」
直後、納屋は凄まじい音とともに完全に崩れた。
――カヲル――
誰かが呼んでる・・・
――カヲル、起きなさい。――
この声は・・・誰だ。男の人が僕を呼んでる。
――まったく、君に似てよく寝る子だよ。――
なんだろう・・・この声。懐かしいような、聞いたことがあるような気がする・・・
「・・・ん。」
目を覚ましたカヲルが薄く目を開けると、何かが顔にピッタリ当たっている感触がある。
――なんだ、すごく暖かくて、いい匂いがする――
「――!」
顔に当たっているものの正体が分かると、カヲルはとたんに顔を真っ赤にして驚愕した。すやすや寝息を立てて寝ているレーナが、まるで抱き枕でも抱いているかのように、カヲルに抱きついていたのだ。そして、レーナの胸がカヲルの顔に押し付けられていた。カヲルは慌ててレーナから離れた。
「・・・な、なにがあったんだ・・・」
すると、レーナも目を覚まし、あくびをしながらのそっと体を起こした。
「・・・あれぇ、ここどこ?」
レーナのボーッと寝ぼけたような半開きの瞳が、ふとカヲルを見た。そして、我に返ったようにパッと目を見開くと
「あっ!無事だったんだ!」
「・・・え、無事だったって」
「よかったぁ!」
と、レーナはカヲルに抱きついてベッドに押し倒した。レーナの突然の行動に、カヲルは再び顔を真っ赤にし、無理やりレーナを押し離した。
「れ、レーナちゃん、ここはどこ?」
「ここ?」
問われたレーナは、キョロキョロと部屋を見回した。
「ここは・・・あれ?カリスの部屋だ。」
「カリスさんの部屋・・・」
すると、部屋のドアが開いて、カリスが中に入ってきた。
カリスは、ベットの上にぺたりと座り込んでいるレーナを見ると、呆れたように眉をひそめた。
「もう、部屋にいないと思ったらまたここにいたか。」
レーナは、キョトンとした顔で首をかしげた。
「なんでレーナ、カリスの部屋にいるの?」
「あんたのいつもの癖でしょ。どーしてあんたはいつもトイレに起きると自分の部屋じゃなくてこっちの部屋に来るの。」
「えぇー覚えてないよぉー」
「そりゃそうよ。寝ぼけて動いてるんだもの。」
レーナは、人差し指を突き出した唇の下に押し当てた。
「うみゅう・・・」
「あ、あの、カリスさん。僕に何があったんですか?」
「あら、覚えてないの?あなた、崩れた納屋の下敷きになったじゃない。」
そう言われたカヲルは、一瞬考えを巡らせた。そして、すぐに気を失う前の出来事を思い出した。
「・・・あ。」
カヲルは、頭を打った衝撃のせいか、自分に何が起きたのかを忘れていたのだ。
「そうだった・・・」
「それにしても、あなた気絶して運ばれるの好きなの?気絶したあなたを家に運ぶのこれで二度目よ。」
カヲルは、頬をかきながら苦笑いを浮かべた。
「そういえば、あの猫たちどうなったんですか?子猫を三びき抱え込んだところまでは覚えてるんですけど・・・」
とたんに、レーナは悲しそうにうつむいた。何も言わないレーナの代わりに、カリスが説明をした。
「あなたが抱えてた子猫は助かったわ。だけど、親猫は瓦礫に潰されて死んじゃったわ。残念だけど」
カヲルは、目を見開いて驚愕した。
「あなたを助け出してる間、レーナが大泣きして大変だったのよ。よく面倒見てたみたいだから無理もないけど・・・」
カリスは、うつむいて動かなくなったカヲルの顔を覗きこんだ。
「ちょっと・・・あなた泣いてるの?」
それを聞いて、レーナもカヲルを見た。カヲルは、肩を震わせて泣いていた。セフォネを哀れんで泣いたときと同様に。
「ど、どうしたのよ。」
カヲルは、言葉を詰まらせながら答えた。
「・・・ごめんなさい、猫を、助けられなかったのが、悔しくて・・・」
カリスは呆然とした。
「・・・そんな理由で」
カヲルという青年はそういう性分だった。元々動物好きということもあるが、なにより、救いたかった命を救い切れなかった自責の念に捕らわれているのだ。
傍らで見ていたレーナも、釣られるように涙をこぼし始めた。
「優しいんだね、〝ケトルくん〟って」
カヲルは、涙を手のひらで拭いながら言い間違えを訂正した。
「え、泊まって良いの?」
カヲルは、テーブルを挟んだ向かい側に座るレーナに、申し訳なさそうに尋ねた。レーナは、満面の笑みでしっかり頷いた。
「助けてもらったお礼だもん。それに、もうすっかり夜になったし、行くところもないんでしょ?」
「・・・でも」
カリスは、厳しい表情でレーナにいった。
「悪いけど、私は反対よ。彼も悪い人じゃなさそうだけど、見ず知らずの男を女二人住まいの家に泊めるなんて」
もちろん、カヲルに二人を襲うような度胸も下心も無かった。だが、カリスの言い分はもっともだ。だが、レーナは少しも考えを改めなかった。
「猫好きに悪い人はいないよ!」
カリスは、ガクリと肩を落とした。
「なによその理屈、まるで私が悪人みたいじゃない。」
「そそそ、そんなこと言ってないよ!」レーナは、動揺した様子で席を立ち上がると、カリスの後ろに回りこみ、カリスの首に手を回して抱きついた。
「優しくてカッコイイカリスのこと、レーナだーい好きだよ!」
カリスの頬に自分の頬をすりすりと擦り付けた。カリスは、ふふっと微かに笑みを浮かべると、レーナの手をポンっと叩いた。
「知ってる。」
「えへへ」
「ま、レーナがそう言うなら仕方ないわね。」
カリスは、カヲルの目を見据えると
「この子の見る目を信じるわ。」
といった。
「・・・じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます。ありがとう、レーナちゃん」
「レーナでいいよ、かおちゃん」
カヲルは、目をぱちぱちとさせていった。
「か、かおちゃん?」
レーナは目をキラキラさせた。
「そ!カヲルだからかおちゃん!可愛いでしょ?」
「この子、気に入った人に変なあだ名付けるのが好きなの。あんまり気にしないで」
レーナは、ぷくりと頬をふくらませた。
「変じゃないよぉ!可愛いもん!」
カヲルは、そういえば、とレーナがミックのことをミクりんと呼んでいたことを思い出し、納得した。
「・・・そ、そうなんだ。カリスさんには無いんですか?」
「知り合ったばかりの頃はあったわ。だけど、カリスだからって付けたのがカリカリよ?私はベーコンじゃないって怒ったの。」
「・・・カリカリ」
それはさすがに嫌だな。とカヲルは思った。
その晩、カヲルはカリスのベットを借りて寝ることになった。ベッドに横になると、真横の窓から月が見える。少し欠けた月は、カリスの部屋をぼんやりと白く照らし、反対側の壁に飾られている大きな絵を照らしていた。絵には、大海原に浮かぶ大きな船が描いてある。見たところ、海賊船のようだ。カヲルは、その絵を何を考えるでもなくじっと見つめていた。すると、ゴトッとなにか物音が聞こえた。
「・・・ん?」
それからすぐに、家の出口のドアが開かれる音が微かに聞こえた。
カヲルは半身を起こして、窓から外を覗いた。
「・・・カリスさん?」
ノースリーブのシャツに短パン姿のカリスが、家を出て浜の方に向かって歩いていた。カヲルは、部屋の中にある掛け時計に目をやった。時刻はすでに十二時を過ぎている。
「こんな時間に、どこ行くんだろう・・・」
少し気にはなったが、カヲルはそのまま寝ることにした。
夜の浜辺はとても静かで、寄せては返す波の音だけがよく響いている。夜空には、ところどころに雲がかかっていて、星はほとんど見えず、砂浜を照らしているのは月明かりだけだった。その砂浜を、三人の男が砂を踏み鳴らして歩いていた。
男たちは、目が隠れるほど目深に黒い頭巾のようなものを被り、無精髭の生えた口元はさらけ出している。両腕には、中身が詰まってパンパンに膨れ上がった白いズタ袋を抱えている。三人がやってきたのは、シーネスの外れにある、ひと気のない小さな入り江だった。
入り江には既に、数人の人影があった。その中の一人の女が男たちに気づくと、歩いてきた男たちに近づいて声をかけた。
「そこで止まりな。」
男たちは、女と数メートル距離を置いて立ち止まった。
「物をこっちに投げて寄越しな。妙な真似はするんじゃないよ。」
男たちは、かすかに覗かせる目で女を鋭く睨みつけると、両手に持ったズタ袋を、女に向かって無造作に放り投げた。
「よし、お前たち、中身の確認を」
すると、女の後ろに立っていた二人の男と女が、ズタ袋に駆け寄ると、ゴソゴソと中身の確認をした。袋の中身は、透明な箱に小分けにされた、大小さまざまな銃弾だった。ざっと見て、ひと袋あたりに二万発は入っている。
中身をひと通り確認すると、女が命令をしてきた女に声を低めていった。
「・・・確かに。」
女は、ニヤリとして軽くうなずくと、二人にズタ袋を持たせて、入り江で待機していた小さな木の船に乗せるよう指示を出した。二人は、袋ごと船に乗り込み、底から二本の櫂を取り出して、沖に向かって漕ぎ出した。残った女は、小舟が見えなくなるまで見守ると、男たちに向き直った。
「ご苦労だったね。もう用はないから、とっとと行きな。」
真ん中にいる男は、どこか不満げな表情を見せてから、他の二人に短く声をかけ、踵を返して入り江から出ようとした。直後、女はもう一度男たちに声をかけた。
「姉さんの様子はどうかしら?」
言われた男たちは、ピタリと足を止め、真ん中の男が形相で女に振り返った。女は、やれやれと言いたげにため息をつくと、
「姉さんによろしく。」
と、その場を立ち去った。
カヲルは、物音で目を覚ました。
うつ伏せになって寝ていたカヲルは、異様な気配を感じ、ムクリと体を起こした。そして、ふと部屋のドアに顔を向けると、影になって見えないが、誰かがドアの前に立っている。カヲルは、目を細めてその人影を凝視すると、その人影は突然倒れるようにベッドに飛び込んできた。とっさにカヲルは、体をひねって飛び込んできた人を避けた。それを見てカヲルは、目を丸くした。
「・・・れ、レーナ」
ベッドに飛び込んできたレーナは、なんの躊躇もなくクッションに頭を沈め、すやすやと寝息を立て始めた。
――ほ、ほんとに寝ぼけて来るのか――
泊めてもらっている手前、無理に起こして部屋に帰すわけにもいかず、仕方なくカヲルは、床で寝ようとレーナの頭を四つん這いで越えようとした。すると、レーナの手が下から伸びてきて、カヲルの首を掴んで無理やり引き寄せ、顔と顔が密着する体勢になった。顔を真っ赤にして困惑するカヲルは、なんとか抜け出そうとするが、首に回されたレーナの腕がガッチリカヲルを掴んで離さそうとしない。さらに
「・・・いぃ!!」
レーナは、猫になった夢でも見ているのか、カヲルの頬をぺろぺろと舐め始めた。続けて、額をカヲルの頬に擦り寄せ、にゃあにゃあと呟いている。硬直したカヲルは、レーナにされるがままだった。思う存分カヲルの顔をベタベタにしたレーナは、満足そうに眠っている。カヲルも、抵抗することをやめて、大人しく寝ることにした。
翌朝、結局レーナに一晩中抱きつかれて一睡も出来なかったカヲルは、やつれた顔でカリスが作った朝食を食べていた。ボーッとしているカヲルを見て
「あんたが襲ってどうすんのよ。」
と、カリスは隣でパンを食べているレーナの頭を指でツンっと押した。
赤い革製の鞄を肩にかけたカリスが、レーナとともに家の外に出てきた。
「それじゃあ行ってくるから、あとよろしくね。」
「うん!いってらっしゃーい!」
レーナは笑顔で手を振り、カリスが見えなくなるまで見送った。その後ろから、カヲルが顔をのぞかせた。
「カリスさん、お出かけ?」
「うん、お仕事だよ!」
「仕事・・・」
カヲルの脳裏に、昨夜遅くにどこかへ出かけていったカリスの後ろ姿がよみがえった。
――どこに行ってたんだろう。――
今朝、カリスの様子には特に変化はなかった。朝早くからカヲルが寝ていた自室にやって来て、またカヲルに引っ付いて寝ていたレーナをたしなめ、カヲルに謝罪をしてきた。それから、手際よく支度をして仕事に出かけた。なんてことのない、平凡な朝の光景だった。若い女性が真夜中に一人で出かけることは、この二人の間では、珍しいことではないのだろうか。そう疑問を抱き、カヲルは思い切ってレーナに尋ねた。
「レーナ。カリスさんって、よく夜中に外出するの?」
問われたレーナは、片眉をレの字に曲げて首をかしげた。どうやら、レーナ自身も知らないようだ。レーナに気づかれないよう、秘密裏に動いているらしい。
「・・・ごめん、なんでもない。」
家に戻ったレーナは、腰にエプロンを巻いてせっせと家事を始めた。どうやら家事は働いていないレーナの仕事のようで、普段の天真爛漫で天然な行動からは想像できない程の手際の良さで掃除と片付けをしていた。
楽しそうに鼻歌を歌いながら皿洗いをするレーナの後ろ姿を、カヲルは椅子に腰かけてジッと見つめていた。
「・・・ねぇレーナ」
カヲルに呼ばれたレーナは、顔をキッチンに向けたまま、声だけで返事をした。
「レーナのご両親って、この町に住んでるのかい?」
「ううん、住んでないよ。パパとママはレーナの故郷にいるー。」
ということは、レーナはこの町で生まれたわけでは無いようだ。
「へぇ・・・レーナはどこで生まれたの?」
「ロキナワだよ。」
カヲルは、唖然とした。
「・・・ろ・・・ロキナワ?あの、本島から南に渡った島の?」
「うん、そうだよー」
ロキナワは、島国であるフィリスティアから五百キロほど南下した位置に浮かぶ小さな島で、そこから更に数キロ南下すれば海外の海域に出てしまうほど、アイゼンベルグの領域の端っこに位置している。五百年ほど前、まだフィリスティアがニホンコクと名乗っていた頃、ロキナワは独自の文化を持つ独立国家であった。だが、約二百年前の国家統一の際の戦いに敗れ、正式にフィリスティアの支配下に置かれた。だが、せめて名前だけは残したいとの島民の申し出により、島の名前をロキナワのままにしてあるのだ。
レーナがロキナワ出身だと聞いて、カヲルは彼女の卓越した弓の腕のわけが納得できた。ロキナワは、独立国家であった時代から弓道が盛んで、古代の文献にも、
ロキナワノ弓兵ノ前ニ、数万ノ士倒レタリ。
とあるほど、ロキナワを落とす際にはかなり手を焼いたようだ。現在でも、ロキナワにはたくさんの弓道場が存在している。
「へぇ、だからあんなに弓が上手なんだね。オマケに、世界で唯一の晶術使いか。やっぱりレーナはすごいね。」
すると、レーナは皿洗いの手をピタッと止めてカヲルに向き直り、拳を腰に当てて偉ぶるように胸を張った。
「そう!レーナすっごいんだから!エッヘン!」
と、誇らしげに笑った。
レーナは皿洗いを終えると、今度は机に向かい、何やら真剣な表情で書き物をしていた。気になったカヲルが後ろから覗きこむと、どうやら手紙を書いているらしい。
「お手紙書いてる?」
「うん、ロキナワのパパとママにね。レーナのゴセンゾサマは何かを聞くの。かおちゃんは、それが知りたいんでしょ?だから聞いてあげる!」
「レーナ・・・」
レーナは、混じりっけのない、人懐っこい笑顔をカヲルに見せた。
「助けてくれたお礼だよ!」
カヲルは、微かに笑みを浮かべた。
「・・・ふふっ、そっか。ありがとう」
「えへへ。いいえー」
手紙を書き終えると、投函のついでに買い物に行くことになり、カヲルもついて行くことにした。
昼間のシーネス村は、とても活気に満ち溢れていた。海が近いということもあり、新鮮な海産物を扱う店や、装飾品や衣服を売る店など、色とりどりの店が立ち並んで賑わっていた。その中に、色鮮やかな貝殻で作られたアクセサリーを並べている露店を見つけ、レーナは引き寄せられるように店に駆け寄った。
おさげ髪に白いバンダナを巻いた若い女性の店主が、おっとりした口調でレーナに声をかけた。
「いらっしゃいレーナちゃん。今日も元気そうね。」
「うん!レーナはいつでも元気いっぱいだよ!」
と、笑顔を見せた。
「お一ついかが?」
しゃがみこんで商品を物色していると、白くてキラキラ光る小さな貝殻のピアスを手に取った。
「これ可愛い・・・」
レーナは、そのピアスを自分の耳にあてがってカヲルに見せた。
「ねえ、似合うかなぁ?」
カヲルは、にこりと笑って答えた。
「うん、よく似合ってる。」
「じゃあ、これちょうだい!」
と、同じ貝殻が付いたイヤリングも一緒に手に取って、店主の女性に差し出した。
「レーナちゃん、こっちはイヤリングだけど、これでいいの?」
「うん、カリスとお揃いで付けるの!」
「そっかあ。きっとカリスちゃんも喜ぶわね。」
「でしょ〜。」
店主が商品を小さな紙の袋に包んでいると、向かいの店の店主がレーナに声をかけてきた。レーナは小走りでそちらに行き、他愛もない談笑を始めた。すると、その両隣の店の人や、そこで買い物をしている人も、わらわらと集まり始め、いつの間にかレーナの周りには軽い人だかりができていた。その様子を見ていたカヲルは、店主の女性にいった。
「レーナって、人気者なんですね。あっという間に人に囲まれちゃった。」
包装の手を止めて、店主の女性はレーナの方を見た。
「すごいですよ、レーナちゃんは。あんなに人から好かれる子、見たことないもの。誰に対しても分け隔てなく接するし、いつも笑顔で、見てるだけで元気が貰えるわ。実はこの村の村長って、強面で性格が気難しいことで有名なんだけど、その村長がレーナちゃんと話をしていたら、にっこりと笑ったの。あの気難しい村長が笑ってるって、みんな驚いてたわ。」
「へぇ・・・」
たしかに、レーナを囲んでいる人々は、レーナの笑顔が伝染したように、みんな明るい笑顔をしている。彼女には、人の笑顔を引き出す不思議な魅力があるのだろう。
――レーナだったら、きっとセフォネといい友達になれるかもしれないな。――
騒ぎは、その時起きた。
一人の恰幅のいい中年の女性が、慌てた様子で談笑するレーナへと駆け寄ってきた。
「レーナちゃん大変だよ!盗賊がまた出たって!」
その場にいた人々は、途端に騒然とした。
「ええっ!おばちゃんホント?」
「ああ、隣の家の息子が、北の森に入っていくのを見たって。」
「わかった!すぐに行くよ!」
レーナは、一目散に来た道を戻って行った。カヲルも、すぐにレーナを追いかけた。
「れ、レーナ待って!」
レーナとカヲルは急いで家に戻り、レーナは矢が収められた矢筒と、長さ二メートルを優に超す長弓を持ち、カヲルはアマラを腰の金具に収め、レーナとカヲルが出会った北の森に向かった。
森の入口の前には、すでに二人の騎士が待機していた。
二人ともレーナとは顔見知りのようで、レーナを見つけるや、片方の騎士が手を振ってきた。
「やぁレーナちゃん。いつも悪いね。」
「トーゾクはどこ?レーナが懲らしめてやる!」
威勢がいいレーナの言葉に、騎士は大口で笑った。
「アッハッハ。レーナちゃんの弓の前じゃ、盗賊も打つ手なしだな。」
すると、もう一人の騎士がカヲルの顔を見て、眉をひそめて表情を固くした。そして、レーナと話していた騎士を呼びよせ、カヲルとレーナに背を向けてヒソヒソと声を低めて話し始めた。
その様子を見て、カヲルはまたも自分がヘマをやったことに気づき、しまったという顔をした。
話し終えた騎士は、険しい顔つきでレーナに問いかけた。
「レーナちゃん、この人は知り合いかい?」
「うん、かおちゃんだよ。レーナのお友達なの。」
「・・・そうか。」
今度は、カヲルに視線を向けて問いかけた。
「きみ、名前は?」
カヲルは、言いづらそうに口を閉じて騎士から目を逸らした。騎士は、より強めに詰め寄った。
「答えたまえ!答えられないわけでもあるのか?」
すると、レーナが騎士とカヲルの間に割って入った。
「ちょっと、やめて!かおちゃんをいじめちゃダメだよ!」
「・・・レーナ」
「いきなりレーナのおっぱいを触ってきたけど、でもにゃんことレーナを助けてくれた良い人なんだよ!」
レーナは至って真面目に言ったが、その発言が逆効果であることに気づいてない。カヲルは、ガクリと肩を落とした。
「悪いがレーナちゃん。そこをどいてくれ。我々は彼に聞きたいことが――」
その時、突然耳をつんざくような男の悲鳴が、森の中から響き渡った。
四人は、同時に森の方を見た。
「今の声はまさか・・・」
「おい、行くぞ!」
と、二人の騎士は急いで森の中に駆け込んだ。
「かおちゃんはここにいてね!私も行ってくるから!」
「あ!ちょっ、レーナ!」
「いたぞ!あそこだ!」
森に駆け込んだ騎士の一人が、走りながら前方に向かって指を差した。
そこに立っていたのは、黒い頭巾のようなものを被った怪しげな男だった。男は、駆け寄ってくる騎士をチラリと見ると、くるりと背を向けて森の奥に消えていった。
「くそぉ!逃がすか!」
と、騎士たちが男が立っていた場所に辿り着くと、二人は突然立ち止まり絶句した。仲間の騎士が、背中にナイフのようなものを突き立てられて倒れていたのだ。
「そんな・・・フ、フラン」
「お前はフランを頼む!俺はヤツを追う!」
「わ、わかった!」
一人は逃げた男を追い掛け、もう一人は倒れている騎士に駆け寄った。
鉄製の鎧を、ガシャガシャとやかましく鳴らしながら、騎士は森の中を駆けまわったが、いくら走っても男の姿は見えてこなかった。
「くそっ、見失ったか。」
足を止めた騎士は、膝に手をついて荒く呼吸をした。夢中で走り続けた騎士は、気がつけば森のかなり深いところまで来ていて、どこを向いても鬱蒼とした木々しか見えず、方角も分からなくなってしまった。これ以上進んでも、男に追いつける可能性はかなり低い。むしろ、帰り道が分からなくなるかもしれない。仕方なく、騎士は来た道を戻ろうと踵を返した。すると、誰かが自分を呼んでいる声がかすかに騎士の耳に響いた。
茂みをガサガサとかき分ける音とともに、声は徐々に大きくなっていく。その声に、騎士は聞き覚えがあった。やがて姿を表したのは、同じ地方騎士のミックだった。
「おお、ミックさん。あなたは無事だったんですね、良かった。」
騎士は、安堵の表情を見せた。
ミックは、盗賊出現の通報を受けて調査に来た騎士の部隊を指揮していた。顔中汗まみれのミックは、ヘルムを外して短い茶髪をあらわにした。
「くそぉ、盗賊を一人追いかけてたんだが、追いつけなかった・・・あっちぃなぁ。」
ミックは白いタオルで顔を拭きながら、辺りを見回した。
「自分も、別のやつを追いかけてたのですが、見失いました。・・・それから、ミックさん、実は、フランが・・・」
騎士は、言いづらそうに口を紡いだ。
「フランがどうした。何かあったのか?」
騎士は肩を落として、仲間の騎士が盗賊に刺されたことを伝えた。
「刺されたって、鎧を着てたのにか?」
「・・・はい、一瞬しか見てないのですが、うつ伏せで倒れてるフランの背中に、ナイフらしきものが根元まで突き刺さってました。」
「まさか、青銅製の鎧を突き抜けるとはな・・・あいつには、お前たちを呼びに行くよう頼んだんだが・・・二手に分かれたのが失敗だった。」
「自分たちは、フランの悲鳴を聞き付けてやって来たんです。そうしたら、盗賊が森の中で一人で立っていて、その近くに、背中を刺されたフランが・・・いま、カタルがフランについてます。我々も戻りましょう。」
と、騎士はミックに背を向けた。
その時、
「危ねぇ!」
と、突然ミックが叫んで、騎士を突き倒した。と同時に、パァン!という強烈な破裂音が、森の中に響き渡った。
森の中に反響した破裂音は、波のように遠くへと消えていった。騎士を追いかけて、木が刈られた土の道を走っていたレーナは、突然の大きな音に驚き、足を止めて不安そうに辺りを見回した。
「――なに?なんの音?」
息を潜めて周りの様子を探ったが、それから、特に変わったことは起きない。
「・・・なんだったんだろう・・・」
不安は残ったが、レーナはまた歩みを進めた。その時、レーナが走っていた土の道の前方で、何かがふと動いた。
気付いたレーナは、すぐ近くの木の陰に、体の前側を押し付けるように隠れ、わずかに顔を出して前を見た。
真っ直ぐな道の前方およそ五十メートルほど先で、黒い頭巾の男が立ち止まっている。男はレーナに背を向けて立っているため、レーナの存在には気づいていないようだ。
見たところ、盗賊は一人しかいない。
――ここからなら当てられる!――
レーナは、隠れている木から道の方にわずかに体を出し、片膝立ちになって、矢を一本矢筒から取り出した。深く呼吸をして心を鎮めながら、弓弦に矢はずをかけた。弦がギチギチと音を立てながら、くの字に伸びていく。狙うは、立ち止まっている男の左腿。
いつものレーナとはまるで違う、別人のように鋭く真剣な眼差しで、刹那のあいだ、レーナは息を止め、全神経を矢じりに集中させる。心臓の鼓動の音も聞こえない。まるで、世界が音を失ったように・・・そして
ヒュン!
レーナが射った矢は、風を切り裂きながら土の道を平行に駆け抜け、まっすぐに男の左腿を突いた。男は、レーナの耳に届くほどの悲鳴を上げた。
――やった!――
左腿を押さえてうずくまった男は、すぐに道から外れて鬱蒼とする木々の中に消えた。
レーナは、すかさず二本目の矢を弓に添えながら、男が消えた方に向かって走り出した。男が消えた所よりも、およそ十五メートル手前で、レーナも道から外れて木々の中に入った。茂みをかき分けながら、男を探して走り続けると、二十メートル程先で、木に寄りかかっている男を見つけた。
レーナは、すぐに木の影に隠れ、いつでも矢を射れるよう、弦に矢はずをかけた。改めて呼吸を整え、陰から体を出すと同時に、男に向かって弓を構えた。
しかし、
「あ、あれ、いない。」
さっきまでいたはずの男が、姿を消している。
レーナは、弓を下ろして呆然と立ち尽くした。
「・・・どこ行っちゃったの」
すると、レーナが潜んでいた木の上から、不意に男が降りてきた。
あまりに突然のことで、レーナは気づくのが遅れ、背後に立った男に首と右腕を押さえつけられてしまった。
――そんな!足に矢が刺さってるのに、そんなに早く動けるはずが――
その男は、レーナに弓を射られた男とは別の盗賊だった。
男は、レーナの背中に回されている右腕を固める腕に、力を込めた。レーナの右肩を折るつもりらしい。
「イ、イタイイタイッ!」
レーナの悲鳴にも、男は眉ひとつ動かさず、腕に力を込め続ける。このままでは、二度と弓が引けなくなってしまう。
すかさずレーナは、左手に持っていた弓を落として、腕を左にサッと払うような仕草をした。すると、突然男の背後から強い突風が吹き荒れ、男とレーナを煽った。そのあまりにも強い風に、男は思わずよろめいてレーナを離した。そのすきに、レーナは落とした弓を拾い上げ、両手で弓の端を握りしめると、気合いの声と共に振り返りながら弓を大振りした。弓の本弭が、鈍い音を立てて男の頬に直撃し、男はふらついて木にもたれかかった。男は、赤く腫れた頬を抑えながらレーナを睨んだ。やはり女性でまだ幼いレーナの力では、男を打ち負かすことは出来なかったようだ。レーナは、苦しそうに荒く息を吐いて、その場にペタリと座り込んでしまった。
晶術の発動には、かなりの体力を消耗するため、連続の使用ができないのだ。さらに、先程の一撃で弓が折れてしまい、矢を射ることもできない。レーナは力なく手を地面についた。男は、苦悶の表情で自分を見上げるレーナに、懐から取り出した拳銃を向けた。レーナは、背筋に冷たい汗をかき、ビクッと体を震わせた。拳銃を向けられてしまっては、抵抗のしようがない。レーナは、必死に首を横に振りながら叫んだ。
「や、やだ!撃たないで!」
しかし、男は銃を下ろさない。
レーナはすぐにその場から逃げたかったが、足が疲れきってしまい、思うように動かない。
――そんな・・・レーナ、死んじゃうの・・・?――
小刻みに肩を震わせ、血の気の引いた頬に涙がつたった。レーナは、震えた声で絞り出すように呟いた。
「ヤダ・・・レーナ、死にたくないよ・・・」
すると、今まで一言も言葉を発さなかった男が、小さく声を低めていった。
「死ぬ覚悟も出来ていない小娘が。これは殺し合いだ。相手に矢を射るなら、自らが撃たれる覚悟をしておけ。中途半端に身を投じた、自分の甘さを恨むんだな。」
と、男は拳銃の引き金に指をかけた。レーナは、顔を伏せて自分を庇うように腕を前に出した。
そこへ
「やめろー!」
と、男の声が響いた。
男がとっさに横を向くと、鞘に収まったアマラを振り上げたカヲルが、地面を強く踏み込んで飛びかかってきていた。
男は、とっさに拳銃をレーナからカヲルに向けたが、その瞬間に、カヲルは男の拳銃を掴む腕の肘あたりに目掛けて、アマラを力いっぱい振り下ろした。ボキボキッと、男の腕の骨が砕ける気味の悪い音が鳴り、男は目を見開いて悲鳴を上げた。さらにカヲルはもう一歩踏み込み、横に払ったアマラを男の腹へ叩きつけた。体がくの字に曲がった男は、口から汚らしく吐しゃ物を撒き散らして、白目を向いて前に倒れ込んだ。
男が気を失ったことを確認すると、カヲルはレーナに駆け寄った。腰を落としてレーナの顔を覗き込むと、まだ顔色は悪いが、唖然とした顔をしている。
「レーナ、大丈夫?怪我はない?」
レーナは、少し間を置いて小さく頷いた。
「・・・かおちゃん、強いんだね。レーナびっくりした。」
カヲルは、微かに口元を上げた。
「そんな事ないよ。レーナが危なかったから、とっさにね。さあ、立てるかい?」
カヲルはレーナの手を引いて立たせようとしたが、腰が抜けてしまったようで上手く立てない。レーナは、おんぶして欲しいと座ったまま手を広げたが、カヲルはチラリとレーナの胸に視線を落とした。彼女を背負うということは、この胸が背中に密着するということだ。仕方なく、カヲルはレーナの背中と膝の裏側に手を回し、いわゆる〝お姫様抱っこ〟で持ち上げた。
「アハッ!お姫様抱っこされるの、レーナ初めて!」
と、レーナはカヲルの首に腕を回した。
「とりあえず、騎士の方たちと合流しよう。この盗賊が目を覚ます前に、ここで倒れてることを知らせなきゃ。」
「・・・ねぇ、かおちゃん」
「どうしたの?やっぱりどこか痛む?」
レーナは、ううん、と首を振り、微かに頬を赤らめてカヲルを見つめた。
「助けてくれたの・・・二回目だね。」
「・・・そういえば、そうだったね。でも、友達を助けるのは当然だから」
「そう・・・ありがとう、かおちゃん。レーナ嬉しい。」
と、カヲルの首元に頭をうずめた。
「・・・さ、さて、騎士の人を探さなきゃ。」
そのとき
パァン!
と、凄まじい破裂音が響いたと同時に、カヲルの立つすぐ後ろの木に何かが当たり、木くずが弾け飛んだ。
すかさず、カヲルはレーナを抱えたまま、その木から道を挟んだ反対側の木の影に腰を下ろして身を潜めた。
わずかに顔を出して木の奥を見ると、その瞬間、顔のすぐ近くで木くずが弾け飛び、カヲルはすぐに顔を引っ込めた。
レーナは、カヲルの胸にピッタリと体を密着させて尋ねた。
「な、何があったの?」
カヲルは、額に汗をため、声を低めていった。
「さっきのやつと同じ服を着たやつが、拳銃を撃ってきたんだ。足を引きずってるけど、ちょっとずつ近づいてきてる。」
「・・・さっきレーナが足を射ったやつだ」
「どうしよう、拳銃が相手じゃあ、太刀打ちできない・・・」
「かおちゃんも、拳銃で戦えば――」
と、レーナは地面に落ちているカヲルが倒した男の拳銃を指さしたが、カヲルは首を振った。
「・・・使い慣れてない武器じゃ、役に立たないよ。」
そうこうしている間に、男はどんどん距離を縮めてくる。
すでにその距離は、二十メートルを切っていた。困り果てたカヲルは、わしゃわしゃと頭をかきむしった。
「ど、どうしようどうしよう!」
すると、レーナは目を閉じて、心を鎮めるように深く息を吸い始めた。それから、右手の人差し指を伸ばして自分の眉間に当てると、間近にいるカヲルにも聞こえないくらいの声で、何かを呟き始めた。
「レーナ、何を」
レーナは、しぃ、とカヲルを制し、また呟き続けた。辺りを静けさが漂う。聞こえるのは、風が葉を揺らす音と、男が足を引きずって歩く音だけ
その時、レーナの人差し指と触れている眉間の間が、青くぼんやりと光りだした。カヲルは、レーナを見つめて眉をひそめた。
――水の匂いがする――
やがて、レーナは目をカッと見開き、人差し指を眉間から離して口の前に持っていくと、人差し指の先で留まっている青い光に向かって、蝋燭の火を消すように、フッと息を吹きかけた。
すると、青い光はより強く輝き、大気中の水分を集めながら、クルクルと高速で回り始め、やがてビー玉のような水の塊ができた。
レーナは、疲れたように肩で息をしながら、途切れ途切れに呟いた。
「・・・これを、あいつに撃つ。」
だが、短時間に二度も晶術を発動したため、レーナの意識はもうろうとしている。
「む、むりだよ!フラフラじゃないか!」
「でも・・・このままじゃ・・・かおちゃんも、レーナも、死んじゃうよ」
「そうだけど・・・」
すると、近づいてきた男が威圧的な声色で叫んできた。
「そこにいる二人、無駄なことはするなよ。大人しくしていれば、楽に死なせてやる。」
やはり男は、二人の命を奪うつもりのようだ。
レーナは、真剣な眼差しでカヲルをじっと見つめた。
「かおちゃん・・・」
ここは、レーナに頼るしかない。カヲルは覚悟を決めたように頷いた。
――でも、今のレーナが出ていったら、仮に相手に当たっても、レーナも撃たれて相打ちになってしまうかも・・・――
すると、ふとカヲルの目に、気を失っている男が見えた。男は、胸部を守るためのブロンズアーマーを身につけていた。
――あれを着ければ――
男は、矢が刺さったままの足を引きずりながら、徐々にカヲルとレーナが潜む木に近づいた。荒く息を吐きながら、親指で拳銃のハンマーを起こし、いつでも撃てるように銃口を二人が潜む木に向けた。その時、
「――!」
抱き合ったカヲルとレーナが、カヲルの背中を男の方に向ける体勢で木の影から飛び出してきた。男は、すかさず手前のカヲル目掛けて発砲した。
パァン!
銃弾は、カヲルの背中に命中したが、カーンと甲高い音を立てて弾き返されてしまった。カヲルは、倒した男からはぎ取ったブロンズアーマーを身につけていたのだ。
それとほぼ同時に、カヲルの肩に真っ直ぐ伸ばした腕を乗せていたレーナは、その手の人差し指に留まっていた水の塊を、男へ向けて放った。塊は、音速を超えた速さで男の眉間めがけ飛んでいった。だが、塊は男に命中せず、紙一重のところでかわされてしまい、その奥の背が高い大木の幹に当たった。地面に倒れた二人は、絶望感にさいなまれた。
「・・・そんな」
呟いたレーナは、カヲルの首に回した腕に力を込めた。男は、微かに口元を上げた。
「残念だったな。」
すかさず、カヲルはレーナを地面に下ろし、庇うように腕を広げてレーナと男の間に立ち塞がった。
「こ、殺すなら僕だけにしてくれ!この子だけは助けて!」
「ダメだよ!かおちゃんは逃げて!」
必死な二人をあざ笑うように、男は銃口をカヲルに向けた。
「感動の友情劇だな。安心しろ、お前たち二人仲良くあの世に送ってやる。」
カヲルは目をギュッと閉じた。
――ごめん、セフォネ・・・――
「死ね!」
「かおちゃん!」
すると、
ミシミシミシ・・・
男の背後で、木々の葉が擦れる音が響いた。男がとっさに振り返ると、レーナが放った水の塊を受けてへし折れた大木が、男へ向かって倒れてきていた。
「――なっ!」
そのすきに、カヲルはレーナを担ぎあげて茂みの中に飛び込み、男も逃げようとしたが、足が痛んで上手く走ることができず、
ドシーン!!
倒れた木の下敷きになってしまった。
辺りが静かになると、カヲルはレーナを残して茂みから抜け出し、倒れた木に駆け寄った。すると、木の枝葉の部分がガサガサと動き、下敷きになった男が這い出てきた。どうやら、運良く太い幹の下敷きにはならなかったようだ。
「・・・イツツツ・・・くそぉ、あのガキめ」
と、男は腹ばいのまま顔を上げると、
「観念しろ。もう終わりだ。」
と、アマラを鞘から抜いたカヲルが、剣先を男の眉間に向けて立っていた。
男は、悔しそうに舌打ちをしながら地面に顔を伏せた。
そこへ、騒ぎを聞きつけたミックと仲間の騎士が駆けつけた。二人の盗賊は、騎士によって身柄を拘束され、連行されていった。その様子を見ていたカヲルは、ふと、倒れた大木に目をやった。
木の折れた部分が、まるで砲弾でも受けたかのように、木っ端微塵に弾け飛んでいる。もし、これを男が頭に受けていたらと思うと、カヲルは背筋が凍るようにゾッとした。と同時に、助かるためとはいえ、危うくレーナは人を殺めてしまうところだった。まだ幼いレーナには、その事実は耐え難いだろう。むしろ、これで良かったのかもしれないと、カヲルは思った。
カヲルとレーナ、そして、地方騎士のミックが森を出てきたときは、時刻はすっかり夕方になっていた。
レーナは、夕日を見つめながら自分の腹をさすり呟いた。
「・・・お腹へった」
「そういえば、お昼ご飯も食べてなかったね。」
「俺はこのまま本部に戻るよ。よくやったなレーナ。今日は助かったぜ。」
すると、レーナはカヲルの腕に自分の腕を絡めた。
「ううん、かおちゃんがいてくれたおかげ!」
ミックは、赤くなっているカヲルを見た。
「・・・そうかい。ま、お前にも礼を言っとくよ。早く帰って、ゆっくり休めや。」
カヲルは、返事をしなかった。
「さ、帰ろ!かおちゃん。カリスももう帰ってきてるよ!」
「・・・うん。」
村に入ってすぐに、ミックとは別れ、すっかり忘れていた手紙の投函と、買ったピアスとイヤリングを受け取り、二人は家に帰ってきた。
「カリスただいまー!」
しかし、暗くガランとした家の中から返事は無かった。
「あれ?帰ってきてないのかな?」
「いつもはもう帰ってきてるの?」
「うん、いつもカリスが帰ってきてから一緒にお買い物行くの。レーナお金持ってないから」
そう言われて、カヲルは苦笑した。
貝のピアスを買う時、お金の持ち合わせがないレーナの代わりに、カヲルが代金を支払ったのだった。
「・・・そっか。カリスさんって、なんのお仕事してるの?」
「わからない。何回聞いても教えてくれないの。」
カヲルは、眉をひそめた。
夜中にどこかへ出かけていた事といい、カリスには不可解な事が多い。
「じゃあ、かおちゃんもレーナも泥だらけだから、カリスが帰ってくる前に先にお風呂に入っちゃお!レーナお洗濯物片さなきゃだから、かおちゃん先に入ってていいよ!」
カヲルは怪訝そうに眉をひそめた。
――・・・入って〝て〟いい?――
「・・・うん、わかった。」
いわれるまま、カヲルは風呂に入り、熱いお湯を張ったバスタブに体を沈めた。こんな風にゆっくりお湯に浸かるのは、城を出て以来だった。一日の疲れが、じっくりとお湯に溶けていくようで、心地よさに深く息を吐いた。それでも、カヲルはカリスの行動が気がかりだった。同居人のレーナにも秘密にしていることは、一体なんなのか・・・世話になっている手前、詮索をするのはよくないとは分かっているが、カヲルは気になって仕方なかった。
すると、
「かおちゃん、お湯加減はどう?」
レーナが脱衣場から声をかけてきた。
「あ、うん。いいお湯だよ。ありがとうね。」
「そっか!」
ガラガラガラ
「――!!れれれれ、レーナ!」
レーナが浴室に入ってきた。しかも、身につけているのは頭につけたピンクのシャンプーハットだけ。隠す素振りもない一糸まとわぬレーナの姿に、カヲルはとっさに目をつぶり顔を伏せた。
「な、な、なんで入ってくるの!」
レーナは、平然とした顔で椅子に腰かけた。
「だって、一人で髪洗えないんだもーん」
「だだだからって、僕男なんだから入ってきちゃダメだよ!」
「なんで?レーナ、ロキナワではパパとお風呂入ってたよ?」
「そ、それはお父さんだから良い訳であって・・・」
「そんなことよりさ!レーナの髪の毛、洗うの手伝って!」
「・・・」
こうなってしまっては、もう従うしかない。
カヲルは、なるべく目を閉じたままバスタブから上がり、腰にタオルを巻いてレーナの後ろに腰を下ろした。
「・・・ど、どうすればいいの?」
「はいこれ!」
と、レーナはシャンプーが入った透明の小瓶を差し出し、カヲルは手探りでそれを受け取ると、コルク製の蓋を外して中からシャンプーをひとすくい取り出した。
「・・・そ、それで?」
「後ろの髪よろしく!」
と言うと、レーナも自分の手にシャンプーを適量落とし、シャカシャカと頭頂部を洗い始めた。カヲルも、微かに見える程度に薄目を開けて、レーナの腰にかかっているオレンジ色の髪を洗い始めた。
「・・・は、裸見られて、恥ずかしくないの?」
「え?別に恥ずかしくないよ?」
「・・・そ、そう。」
偶発的に起こったこととはいえ、胸を触られるのは嫌がったのに、裸を見られるのは恥ずかしくない。やはりレーナは感覚が少しズレていると、カヲルは思った。
「・・・こ、こんな具合でいいの?」
「うん、上手ー!ありがとう!」
「じゃ、じゃあ僕もう出るからね」
「はーい」
カヲルは、手についた泡も落とさずに、早々と浴室から出ていった。
「・・・ふぅ」
腰に巻いていたタオルをラックにぶら下げ、レーナが用意してくれたバスタオルで頭を拭いていると、
ガチャ
「ただいまー、ごめんレーナ、遅くなっちゃ・・・」
仕事から帰ってきたカリスが、脱衣場に入ってきた。二人の目が合い、沈黙が漂うと
「ギャー!」
家の中に、カヲルの悲鳴が響いた。
レーナの家事の手伝いや、剣の鍛錬をしながらカヲルがレーナの家で過ごすこと四日目の朝、早速レーナが故郷に当てた手紙の返事が届いた。
その日は、カリスも仕事が休みのようで、三人でテーブルを囲みながら、レーナが手紙を読み上げるのを、カヲルとカリスは黙って聞いていた。
「じゃあ、読むね。」
カヲルは、固唾を飲んで頷いた。
手紙を読み進めていくと、レーナの父は、由緒ある弓道の流派の現継承者であることと、母方の祖母の家系が、数世紀前まで魔女(薬草の知識に長けていて、晶術を駆使して病気や怪我を治す薬を生成する術、また、占いやお祓いをする者)として生計を立てていた家柄であることがわかった。
現代において、レーナだけが晶術を使えるのも、偶然彼女に先祖返りが起きたからであることが分かり、カヲルの疑問は確信に変わった。
「やっぱりそうだよ!レーナは、英雄タクトの仲間の生まれ変わりなんだ!」
「へぇー、レーナ、ちっとも知らなかったよ。」
一方カリスは、不満そうに顔をしかめて腕を組んでいた。
「ただ魔女の家系だったってだけじゃない。何百年も昔なら、魔女だってたくさんいたはずよ。それだけでレーナが英雄の仲間の生まれ変わりと決めつけるのは、ちょっと気が早いんじゃないかしら?」
カリスの言葉に、カヲルは言葉を詰まらせた。たしかに、カリスの言い分も正しい。
カヲルは、打ち明けても説得にならないことだとわかっているが、レーナやヴェイン隊長に感じた、あの不思議な感覚のことを打ち明けた。
「・・・この家に来て、初めてレーナを見た時に、感じたんだ。初めて会ったはずなのに、昔からの知り合いに会ったような、不思議な感覚を・・・」
カリスは、カヲルの言っていることが理解できないとでも言いたそうに、首をかしげた。カヲルは、レーナの肩を掴んでいった。
「レーナも感じたでしょ?初めて僕を見た時に、今まで感じたことの無いような、不思議な感覚にとらわれなかった?」
レーナは、人差し指をおでこに当てて眉をひそめた。
「んー、たしかに、森からでてきたかおちゃんを見て、どこかで見たことがあるなって思ったけど、レーナ、かおちゃんがとーぞくだからなのかと思ってた。」
カヲルは、呆れたように項垂れた。
「・・・ち、違うよ。僕の先祖と、キミの先祖が仲間だったから、その心の繋がりを感じたんだよ。また現代でも、僕達を引き合せるための繋がりを」
とたんに、レーナは目をキラキラさせた。
「レーナ知ってる!それって、運命の赤い糸って言うんでしょ?」
カヲルは、口元を微かに上げて苦笑した。
「・・・そ、それはまた違うけど・・・」
すると、カリスはレーナの肩を後ろから掴み、カヲルから強引に引き剥がすと
「そんな漠然とした理由なんか、信じられるわけないわ!」
と、怒りを顕にした形相で声を荒らげた。
「それに、もし仮にレーナが英雄の仲間の生まれ変わりだったとしても、あなたの意味不明な目的には巻き込ませないわ!」
カリスのあまりの剣幕に押され、カヲルはたじろいだ。
「・・・で、でも」
「今日まではレーナの間違いで怪我をさせてしまったからこの家に置いていたけど、もうあなたの好き勝手なことには付き合えないわ!今すぐ出ていって!」
「ちょっとカリス、落ち着いて――」
「レーナは黙ってて!」
レーナは、ビクッと体を強ばらせた。
途端に雰囲気が殺伐としてしまい、場を落ち着かせるため、カヲルは一度家を出ることにした。
カリスに深く頭を下げて謝罪し、出口の方へ向かうと
「号外!号外!」
外の方から、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
どうやら、号外新聞が出たらしい。突発的な事件や災害が起きた時に、国から全国へと配られるのだ。
カヲルは、すぐに家の外に出た。家の前の道路では、近所の住人たちが、なにやらただならぬ雰囲気で号外新聞を見ている。カヲルは、すぐ近くで号外新聞を見ていた中年の女性に声をかけた。
「なにかあったんですか?」
「・・・こんな恐ろしいことが起こるなんて」
「――!」
カヲルは、我が目を疑った。
号外新聞の内容が、カヲルがもっとも恐れていたことを伝える内容だったからだ。
「・・・こ、コデルニア、壊滅・・・」
そこには、北の大陸に位置する大国が、謎の生物による襲撃を受け、壊滅したという記事が載っていた。
――完