目覚め
東向きの窓から差しこむ午後の日差しが、明かりのついていない暗く狭い部屋を、ぼんやりと照らしている。せまい部屋の真ん中に座り込んで、窓から見える空をぼーっと眺めていたカヲルは、突然大きなため息をもらした。
ここは、アイゼンベルグ城のとある部屋で、昨日セブクティス国王から、突然のセフォネ王女専属の護衛を頼まれたカヲルは、その期間この部屋に滞在することになった。
本来、護衛を任命された騎士は、城内の専用控え室を使う。しかし、元々護衛を任されていた騎士が、部屋を使っていたままの状態で帰郷してしまったため、いまは使うことが出来ない。そこで、昨日まで物置に使われていたこの部屋を、カヲルの控え室として与えられたのだった。
いきなりのことだったため、カヲルのための家具など用意されているはずも無く、部屋にはベッドと小さなタンスがあるだけで、ガランとした部屋の中は、狭くてもどこか寂しさが感じられた。
護衛を務める騎士の業務は、基本的には王女セフォネが公務で外出する際に同行し、常に身の周りの安全を守ることのみ。この日、セフォネが公務にでる予定はない。朝早く起きたカヲルは、見たこともない豪華な朝食をとり、部屋に戻って暇を持て余していたが、そこへ、あの無表情な女中が城を案内すると部屋を訪ねてきたのだ。城の中は、地図が必要なほどに広く、廊下は複雑に入り組んでいて、まるで迷路のようだった。
ひとしきり城内を案内され、時間も昼にさしかかった頃、カヲルは、所用で城を訪れていたヴェインと、その部下のゼントに、廊下でばったり鉢合わせた。
先に気づいたカヲルが足を止めると、ゼントと話しながら近づいてきたヴェインもカヲルに気づき、足を止めた。
すかさずカヲルは、謝罪の意を込めて、二人に頭を下げた。
「昨日は、本当にすみませんでした。おふたりの邪魔をしてしまって・・・」
バツが悪そうに目をそらすゼントとは反対に、ヴェインは眉間に深くシワを寄せて、頭を下げているカヲルをジッと睨んだ。
ヴェインは、とてもプライドの高い男だった。反逆罪を犯して捕らえたはずの男が、まさか罪に問われることなく、人柄と剣の腕を国王に見込まれ、セフォネ王女の護衛に任命されたことが、ヴェインにはどうしても納得出来なかったのだ。国王に、
「自分の判断は間違っていた。」
と、言われた気分だったからだ。
ヴェインは、目線をカヲルから外すと
「――いくぞ、ゼント」
と、廊下の奥へと消えていった。
頭を上げて振り向いたカヲルは、誰もいない廊下を、悲しげに見つめた。
それから、部屋に戻ったカヲルは、物思いにふけっていた。案内をしてくれた女中が、珍しく気遣いの言葉をかけてくれたが、これまで誠実に生きてきた彼が、他人から疎ましく思われるのは初めてのことで、これからの城での生活に、不安を覚えずにはいられなかった。
「やっぱり、引き受けるんじゃなかったかなぁ・・・」
誰にいうでもない独り言を、ポツリとつぶやくと、そこへ
コンコン。
ドアをノックする音が部屋に響いた。
ハッとしたカヲルは、慌ててドアに向かって返事をした。すると、そっと開いたドアの向こうから、セフォネがあたりを気にするように、そろそろと部屋に入ってきた。
カヲルは、驚いたように目を見開き、スッと立ち上がった。
「・・・せ、セフォネ様」
カヲルは、背筋がサーっと冷たくなった。さっきの独り言が、セフォネに聞かれたのではないかと不安になったのだ。
だが、部屋に入ってきたセフォネからはその様子は伺えず、後ろ手にドアを閉めると、家具の少ないカヲルの部屋を、まるで美術館にでも来たかのように、興味深げにキョロキョロと見回していた。
「・・・へぇ、こんな部屋もあったのね。」
――よかった、聞かれてなかったみたいだ。――
ほっと胸を撫で下ろしたカヲルに、セフォネは目を向けた。
「どうかしました?」
「い、いえ!なんでもないです!そ、それより、なにかご用ですか?セフォネ様」
「・・・フフッ、セフォネって呼んでもいいんですよ?」
カヲルは、露骨に困った顔をした。
いくら本人がそう言っても、相手は国王の娘。呼び捨てで呼ぶなど、無礼を通り越して身の程知らずもいい所だった。
カヲルは、慌てた様子で首を振った。
「そ、そんな、王女様を呼び捨てだなんて出来ないですよ!」
「でも、昨日はセフォネと」
「あ、あれは、まさかあなたが王女だとは知らなかったので・・・」
「とても王女には見えなかった?」
と、セフォネは皮肉っぽく笑ってみせた。
カヲルは、しまった。という顔をした。
「・・・ふふっ。カヲルさんて、素直な方ね。やっぱり私は王女には見えなかったのね。」
「そ、そんなことはありませんよ!セフォネ様は王女様にふさわしい、とても綺麗な方です。」
「そんなに、無理しなくてもいいんですよ?」
「無理なんてしてないです。こんなに綺麗で気品のある人は、生まれて初めて見たと思いました。」
あまりにも真剣な顔で言われたセフォネは、困ったように頬を真っ赤に染めた。
「・・・街でも思ったけど、カヲルさんって、そういうことを恥ずかしげもなく言えるのね。」
「本当のことですから。」
セフォネは、恥ずかしそうにうつむいた。
「・・・そ、そうですか。ありがとうございます。」
セフォネは、ドレスが乱れないように気を使いながら、カーペットの上に直接座り込んだ。カヲルは、慌ててセフォネが座れるものを探したが、当然そんな気の利いた物は、この部屋には無かった。
セフォネは、うろたえるカヲルに優しい口調でいった。
「あなたも座ってください。」
言われるがまま、カヲルもその場に座り込んだ。
「・・・」
「・・・」
二人のあいだに、静けさが漂う。
セフォネは、何を言うでもなく、ドレスの裾を見つめてそこを手でいじり続けている。カヲルは、何か話題はないかと、思考を巡らせた。
「・・・そ、そういえば、昨日から一度もセフォネ様のお母さんを見かけてないですけど、どこかにお出かけでもしているんですか?」
カヲルの質問に驚いたセフォネは、はじかれたように顔をあげた。
唖然とするセフォネに、カヲルも、どうかしたのかと言わんばかりに首をかしげた。
セフォネは、少しだけうつむくと、声を低めていった。
「・・・亡くなったの。私がまだ、五歳のときに」
驚いたカヲルは、申し訳なさそうに肩を落とした。
「す、すみません、僕、知らなくて・・・」
セフォネは、柔らかく笑っていった。
「大丈夫ですよ。本当に知らなかったのなら、無理もないわ。それに、もう何年も前のことですもの。」
「・・・どんなお母さんだったんですか?」
セフォネは、少し考えてからいった。
「・・・そうですねぇ・・・綺麗で、優しくて、とても暖かい方でした。王妃の身だから、一緒にいられた時間は短かったけれど、それでも、抱き上げられた時のあの優しい声と温もりは、今でもはっきりと覚えています。」
母のことを語るセフォネは、今までに見せたことがないほど、優しい顔で笑っていた。きっと、セフォネはそれほどまでに、母のことが大好きなのだと、カヲルは思った。
「・・・きっと、セフォネ様も、将来はそんな風に素敵なお妃様になられるでしょうね。」
すると、セフォネは途端にうつむいてしまった。
「・・そんな風に・・・か。」
カヲルは、様子のおかしいセフォネの顔を覗きこんだ。
「・・・どうかしましたか?」
「・・・できることなら、私、妃になんかなりたくない。」
カヲルは首をかしげ、どうして?と尋ねた。
「これから私に待っているのは、どこの誰かも分からない人と結婚させられて、お世継ぎを産んで、一生この城に閉じ込められる生活だけ。」
カヲルは目を見張った。
「・・・結婚する相手を、勝手に決められてしまうんですか?」
セフォネは、深く頷いた。
「もし私が王子だったら、自分で決めた女性を王家に迎え入れて結婚することができるのだけど・・・私は一人娘だから、遠縁の貴族の方と結婚させられるでしょうね。」
「どうして、女性は好きな相手を選べないんですか?」
セフォネは、ため息混じりにいった。
「・・・私と結婚するということは、次期国王になるということ。・・・国王になれるのは、王家の血を引く人間だけ。」
なるほど。と、カヲルは思った。
国王は、いわば、国そのものを象徴する顔と言える。国の運営が良い方に傾くか、また悪い方へ落ちていくかは、国王の器量によって決まる。そのために、国王となる者には、幼少の頃から国の先導者になるための教養と所作を、徹底的に叩き込まれる。しかし、それ以外にも、国王たる者には、人々を導くためのカリスマ性や能力が必要なのだ。カヲルのような、一般庶民の家に生まれた者が、なろうと思ってなれるものではない。建国以来、国王の世継ぎが生まれなかったのは、セブクティス国王の代が初めてだった。元々病弱だった妃が、苦労の末ようやく授かった子がセフォネであり、世継ぎを生む前に、妃は流行り病に倒れ、若くして崩御してしまった。この場合、次の妃をめとり、世継ぎを生むのが決まりだが、セフォネの母である妃を深く愛していたセブクティス国王は、次の妃をめとることを、頑なに拒んだ。そのため、一人娘のセフォネが、婿養子をもらうことになるのだ。
「・・・セフォネ様は、それが嫌なんですね。」
セフォネは、うつむいたまま、わずかに眉間にシワを寄せた。
「・・・嫌に決まっているわ。一度きりの人生なのに、結婚相手も選べないなんて・・・人の一生を、なんだと思ってるのかしら。こんなことなら、王女になんか生まれて来なければよかった・・・」
「――あっ。」
ふと、カヲルは、セフォネがゼントたちに追いかけられていたときのことを思い出した。袋詰めの生活にはまっぴらだ、とセフォネは叫んでいた。
「セフォネ様は、それが嫌で城を出ていったんですか?」
セフォネは頷いた。
「・・・嫌なことはそれだけじゃないわ。いくら裕福な生活をしていても、私は、好きに外に出ることも出来ないの。唯一出られるとすれば、月に数回の公務のときだけで、それ以外のときは、城の中に閉じ込められて、毎日毎日、女性らしさを身に付けるためのお稽古や、次期国王を支えるための教育を、無理やり受けさせられているわ。私は、私自身のために人生を生きることが、許されていないの・・・」
セフォネの話を聞いているうちに、カヲルは、目の前の少女がとても哀れに思えてきた。
自分にとって、当たり前だと思っていた事が、セフォネにとっては当たり前ではないのだ。決して裕福とは言えない暮らしだが、そんな中でも、カヲルの家庭はとても暖かく、幸せだった。この少女は、カヲルとは何もかも真逆の生活を送っている。
やがて、セフォネはポロポロと涙をこぼし始めた。
「・・・私、なんのために生きてるのか・・・分からない・・・」
「・・・セフォネ様」
静かな部屋の中には、セフォネのすすり泣く声だけが響いていた。
ところが、その声の中に、次第に別のすすり泣く声が混じり始め、異変を感じたセフォネは、ゆっくりと顔をあげた。カヲルが、下を向いて肩を震わせていた。
セフォネは涙を拭い、うつむくカヲルの顔を覗き込んで、驚いようにいった。
「・・・か、カヲルさん?」
いつの間にか、カヲルは顔中がびしょびしょになるほどの涙を流していた。
「カヲルさん、どうしました?」
カヲルは、えずきを堪えながらいった。
「セフォネ・・・様・・・が・・・あんまりにも、可哀想で・・・」
セフォネは驚いた。まさか、出会ったばかりの他人、しかも、男性が自分のことを思って泣いてくれるとは思わなかったからだ。
「・・・私のために、泣いてくれてるの?」
鼻をすすりながら、カヲルは頷いた。
「・・・ありがとう、カヲルさん。私なんかのために、泣いてくれるなんて・・・」
すると、カヲルは目が腫れて鼻水まみれになっている顔をあげ、セフォネの手を両手で掴みあげた。
「――か、カヲルさん?」
「セフォネ様。僕には、あなたを自由にすることは出来ません。だけど、どうか、どうかあなたが少しでも幸せになるための、お手伝いをさせてください!セフォネ様が笑顔でいられるなら、僕、どんな事でもします!」
カヲルの気迫に、セフォネはやや圧倒されたが、落ち着いた口調でいった。
「ありがと、カヲルさん。お気持ちは、すごく嬉しいわ。でも、あなたはただ護衛の代わりを無理やり受けさせられただけなのですから、要求以上のことをする必要はありません。私の話を聞いてくれただけでも充分ですから」
カヲルは、必死に首を振った。
「いえ!それでは僕の気が収まりません!きっと、僕はセフォネ様を少しでも幸せにするためにここに来たんですよ!きっとこれは、僕の使命なんです!こんなに綺麗で可愛い人が、不幸になっていいはずがありません!」
あまりに必死に言われて、セフォネは顔を赤くして言葉を詰まらせた。
「・・・で、ですが」
「僕、セフォネ様が幸せになれるなら、なんでもします!笑わせてほしいと言うなら、どんなバカげたことでもやります!セフォネ様の、心からの笑顔が見たいんです!」
セフォネは、真っ赤な顔をカヲルから背けた。
「・・・ほ、本当に、なんでもしてくれるの?」
「もちろんです!なんでも言ってください!」
「・・・じゃ、じゃあ」
セフォネは、真っ赤な顔をそむけ、恥ずかしそうにつぶやいた。
「・・・お、お友達になって下さい。」
「――え?」
カヲルは、セフォネの手を握ったまま、拍子抜けしたように目を丸くした。
「お、お友達になって欲しいの。」
「・・・と、友達?」
「私、勉強も専属の先生に教えられてたから、学校というところに行ったことがないの。だから、今までお友達も出来たことがなくて。お世話をする人や、今までに護衛着いた人も、私が王女とあってか、必要以上に関わってくることは来なかったし・・・」
カヲルは、唖然としたままセフォネを見続けていた。
セフォネも、不安そうにチラリとカヲルに目をやった。
「い、嫌かしら?」
「・・・い、いえ、あの、嫌というより・・・」
「・・・」
「・・・僕たち、友達じゃなかったんですか?」
「・・・へ?」
今度は、セフォネが目を丸くした。
「・・・あ、あの、てっきり、もう僕たちは友達だと・・・思ってました。」
どうやら、カヲルとセフォネでは、友達の基準がズレていたようだ。
カヲルは、急に焦りを見せて、そーっとセフォネの手を離しながら、少しずつ後ろに下がっていった。
「す、すみません。友達でもなかったのに、こんな馴れ馴れしく手を握ってしまって・・・」
「――ま、待って!」
と、今度はセフォネの方からカヲルの手を握ってきた。焦った様子で、セフォネは叫んだ。
「いいの!そう思ってくれてて、とっても嬉しいわ!そのままでいいの!もう、私たち、お友達なのでしょう?」
「・・・は、はい。僕としては」
「そう、そうなのね。もうお友達よね。」
「・・・い、いいんですか?」
「ええっ!もちろん。」
「・・・よ、良かった・・・ハハハッ」
セフォネは、カヲルの手を離し、微かに笑みを浮かべていった。
「それにしても、私が王女だと分かって、無礼だと思って呼び捨てにはしないのに、お友達だとは思ってるなんて、可笑しいわね。」
「友達だと思ったら、王女様でも友達なので。・・・あの、変ですか?」
セフォネは、微笑みながら首を横に振った。
「いいえ、とってもいいことだと思いますよ。」
二人は、明るい笑顔を向けあった。
「・・・だけど、実は、年下の女性の友達が出来るのは初めてなので、お話するのが、少し緊張しますね。」
セフォネは、驚いた顔をした。
「えっ!カヲルさんって、そんなに歳が上なの?てっきり、同じくらいかと・・・」
「そ、そうですか?まあ、老けて見られることはあまりないですけど」
「今おいくつ?」
「十八歳です。」
セフォネは、安心したようにいった。
「なんだ。年下じゃない。私、今年で十九歳ですよ。」
「えぇっ!?」
カヲルは、今までで一番というくらい、驚いた顔をした。
「せ、セフォネ様、僕より歳上なんですか?」
セフォネは、眉をひそめた。
「・・・何歳だと思ってたの?」
「・・・・・・・・・じゅ、十四くらいかと」
すると、セフォネは真っ赤な顔で、破裂しそうなほど頬を膨らませて激昴した。
「どうせ私は幼児体型よ!」
「(そこまで行ってないけど・・・)す、すみませんでした。」
ぷいっとそっぽを向いたセフォネが、急に静かになったカヲルを横目で見ると、カヲルの様子がおかしいことに気づいた。
「・・・カヲルさん?」
ついさっきまで明るく笑っていたカヲルの表情が、まるで塗り込めたように、血の気が引いて青白くなっているのだ。
次第に肩が小刻みに震えだし、額にはびっしりと汗を溜めている。
不安になったセフォネは、四つん這いでカヲルに近づき、顔を覗きこんだ。
「どうかしたの?顔がまっ白ですよ?」
セフォネにそう言われても、カヲルは凍えているかのように顎をガクガクと震わせて返事をしなかった。
やがて、ハッと我に返ったカヲルは、セフォネに見向きもせずに窓に駆け寄り、身を乗り出して窓の外を見た。
「・・・なんだあれ」
カヲルは、冷たいものが腹の底に落ちたような気がした。
「カヲルさん、外になにかあるの?」
しかし、カヲルは返事をしない。
眉をひそめたセフォネは、カヲルの後ろから、背伸びをして外を覗いた。とたんに、セフォネも、不可解そうに顔をゆがめた。
「・・・なに、あれ。」
街の外の空から、複数の黒い物体がアイゼンベルグに向かって飛んできていた。
カヲルはそれを見つめたまま、首を横に振ってつぶやいた。
「わからない。でも…とても嫌な予感がする。」
やがて、その空飛ぶ物体は、街の上空に侵入し、肉眼でも姿を視認できる程までに近づいた。
その姿を見て、二人は目を疑った。
それは、体長は約一メートル弱と小柄だが、体は墨を塗ったように黒く、細長い手足、そして背中には、体よりも大きな二枚の羽を生やした、これまでに見たことがない、不気味で恐ろしい化け物だった。
その化け物の数は、ざっと見ただけで三十体は超えている。
セフォネは、カヲルの後ろで声を震わせていった。
「やだ・・・なにあの不気味な化け物は」
「・・・こんなに奇妙な生き物、今まで見た事もないです。」
――それに・・・なんなんだ、この背筋が凍り付くような強い殺意は――
突然の得体の知れない化け物たちの出現に、街の住人たちも気づき始め、ぞろぞろと家の外に出て騒ぎ始めた。
「・・・まずい!」
「カヲルさん、どこに行くの?」
セフォネの問いかけにも答えず、カヲルは何かに急かされるように、立てかけてあった剣を腰の金具に収めて、一目散に部屋を飛び出していった。
同じ頃、部下の知らせを受けて騎士団本部から出てきたヴェイン隊長が、街の上空を浮遊している化け物を、険しい表情で見つめていた。ヴェイン隊長はすぐさま部下の招集をかけ、程なくして、三十名の国家騎士がヴェイン隊長の元へ続々と集まってきた。
そのうちの一人の騎士が、声を震わせながらいった。
「隊長、なんなのですか、あの化け物は。あんな生き物、今まで見たこともありませんよ。」
ヴェインは、コクリと頷いた。
「ああ、俺もだ。こんなに禍々しい殺意を放つヤツが、存在するとはなぁ・・・」
ヴェインは、集まってきた騎士たちに指示をだした。
「念の為、各地に部隊を配置する。中心街には、一、二班が向かえ。ゼント、お前が指揮を取れ。」
ゼントは、胸の前に拳を上げ、敬礼を意味する仕草をした。
「はっ!」
「俺の班はここに残って、城の警護だ。残りの者は、速やかに住人たちを避難所に誘導しろ!ほかの部隊とも連携を取れ!」
騎士たちの威勢のいい声が辺りに響き、蜘蛛の子を散らすように、騎士たちはそれぞれの配置場所に向かった。
カヲルが城の廊下を駆けていると、突然足元が、グラグラと揺れ始めた。
驚いた声を上げたカヲルは、体勢を崩して床に手を付いた。
その直後、再びの揺れとともに、巨大な爆発音が響いた。
とっさにカヲルは頭を両手で覆い、身を守る体勢をとったが、城内に異変はない。どうやら、爆発は城の外で起きたようだ。
ゆっくり顔を上げると、同じように身を低くしている女中たちが目に止まった。
みな、青白い顔で怯えきっている。
それを目にしたカヲルの不安は、風船が膨らむように大きくなっていった。
――はやく、外の様子を見に行かないと――
カヲルは、再び城の出口を目指して走りだした。
この巨大な城は、外に出るだけでもかなりの距離がある。数分後、ようやく城門の外に出ると、変わり果てた街の状況に、カヲルは目を疑った。それは、まさに地獄絵図さながらの光景だった。
外ではすでに、化け物と騎士による戦闘が始まっていた。その向こうでは、逃げまどう人々の悲鳴が飛び交い、あちこちの民家では、火の手が上がっている。さらに、化け物に命を奪われた騎士や街の住人たちの、ズタズタに引き裂かれた、目も当てられないほど無惨な遺体が、道路のいたるところに転がっている。
どこを見ても、そんな景色が広がっていた。
あまりの惨状に、カヲルは茫然と立ちつくした。城から出るまでのたった数分の間に、街は凄まじく甚大な被害を受けていたのだ。
――どうすれば・・・一体、どうすればいいんだ――
為す術もなく立ち尽くしていると、ふと、一人の若い騎士が目に止まった。
その若い騎士は、頭部に被っていたはずのヘルムが外れ、頭がむき出しになっている。長い交戦を続けているのか、顕になっている顔には、疲労とともに無数の傷が見える。騎士は、痛みと疲労で震える膝を拳で打ちたたき、気合いの声とともに踏み込むと、剣を化け物の頭に突き刺した。
それを見たカヲルは、喜びをあらわにした。だが、化け物は、頭を貫かれたことなどものともせず、動揺する騎士の頭と左肩を掴み、むき出した鋭い牙で騎士の首に噛みついた。騎士の身を切るような悲鳴とともに、首から鮮血が噴水のように吹き出し、ぐちゃぐちゃと肉が裂ける気持ち悪い音が響いた。
「あっ!・・・くそっ!」
カヲルは、とっさに剣を鞘ごと抜いて、一直線に化け物の元へ駆けた。
「その人から離れろっっ!」
踏みこみと同時に、剣を頭上まで振り上げ、弧を描いた剣の鞘を、化け物の脳天に叩きこんだ。
バキバキと、骨が砕けるような鈍い音がすると、化け物は力が抜けたように後ろに倒れ、数回痙攣して動かなくなった。
息付く間もなく、カヲルは血の海に沈んでいる騎士の頭を抱えて呼びかけた。
「大丈夫ですか!しっかりしてくださ――」
その時、騎士の仄暗い目が、カヲルを見た。
「・・・」
カヲルの手に、騎士の鼓動は一切伝わってこず、力なくのしかかる頭の重さを感じるだけだった。
「――そ、そんなっ・・・」
とたん、カヲルの背筋は凍りついたように固まり、無意識に手が震えだした。
「・・・あ、ああ・・・」
カヲルは思わず、騎士から手を離して後ずさってしまった。
「し、死んでる・・・!」
ふたたび、血の海にしずんだ騎士の目が、カヲルの方を向いた。光の灯っていない黒ずんだ瞳が、何故かカヲルには、自分を睨んでいるように見えた。なぜ助けてくれなかった。と無言の訴えをされているような気がして、カヲルの息はどんどん乱れていった。
「――はっ!はっ、はっ、はっ・・・」
全身から冷たい汗が吹き出し、息が詰まって上手く呼吸ができない。苦しくて胸を押さえるも、まるで、気管を握りしめられているかのように、空気が肺まで到達しないのだ。これほどまでの恐怖を、カヲルは今まで味わったことはなかった。人の死に直面するのは、なにも今回が初めてというわけではない。だが、ついさっきまで生きていた人間が、たった今、自分の手の中で死んだ。この、目を背けたくなるような現実が、カヲルをパニックに陥れたのだった。
カヲルは何も言えず、目をカッと見開き、顎と肩を震わせて騎士を見つめ続けていた。
――これが、死・・・!――
そして、あまりのことに、カヲルは背後から人が近付いてきていることに気がつかなかった。
「・・・ロッソ」
カヲルの頭上で、悲しみを含んだ男の低い声が聞こえ、我に返ったカヲルは、そちらを見た。
「・・・ヴェイン隊長」
険しい顔つきのヴェインは、カヲルを横切り、ロッソと呼ばれた騎士の横に腰を下ろして顔をのぞき込んだ。とたん、ヴェインの表情が歪み、歯をむきだしにしてうなだれた。
「・・・くそっ」
ロッソの顔を見て、彼が既に死んでいることは分かった。ヴェインは、握りこぶしを地面に叩きつけた。ヴェイン隊長率いる一番隊は、ロッソを含め、既に六人が化け物によって命を奪われてしまった。隊の中では、ヴェインは下から二番目の若さで、任命された当初は、あからさまに不満をあらわにする者もいた。だが、三年という年月をかけて、ヴェインは部下たちに自分の実力を認めさせ、名実ともに一番隊隊長の地位を確立させた。そして、どんな敵にも負けない絆と強さを築いたのだ。
ヴェインは、ロッソの開いた目をそっと閉じ、立ち上がって拳を胸にあて、黙祷を捧げた。
その様子を黙って見ていたカヲルに、ヴェインは顔を向けた。その顔を見て、カヲルは驚愕した。
さっきは気付かなかったが、よく見ると、ヴェインもかなりの傷を負っている。装備している鎧も傷と汚れだらけで、普通に動けているのが嘘のようだ。
「ヴェイン隊長・・・ひどい怪我を――」
ヴェインは、カヲルの言葉を遮っていった。
「あの化け物を殺ったのは、お前か?」
カヲルは、えっ、と聞き返した。険しい顔のヴェインは、少し口調を強めてもう一度いった。
「あの化け物を殺したのは、お前か!」
ようやく質問を理解したカヲルは、焦るように二度うなずいた。
「は、はい!」
ヴェインは続けて質問をした。
「どうやって殺した。」
「・・・どうやって?」
また聞き返してきたカヲルに、ヴェインは一気に言い放った。
「お前は一体どうやって、あの化け物にトドメを刺したんだと聞いているんだ!」
いまいち質問を理解できないカヲルは、眉をひそめて首をかしげた。
その様子を見て呆れたヴェインは、少し周りを見回すと、目に止まったところを指さした。
「あれを見ろ」
カヲルは、ヴェインが指し示した方を向いた。そこには、体がバラバラになっても、不気味にジタバタと動いている化け物がいた。
「あれは、さっき俺がやったやつだ。見てわかるだろうが、やつらはあんなにバラバラにされても、しぶとく生きてやがる。こんなやつは初めて見た。おかげで、俺の部下からも死傷者も大勢でている・・・ロッソもその一人になってしまった。」
「・・・」
ヴェインは、キッとカヲルを睨んだ。
「だが、お前はあの化け物を殺すことが出来た。いくら首をはねても、体を串刺しにしても死ななかったあの化け物に、お前はトドメを刺せた。その理由を聞いているんだ!」
そういえばそうだ、とカヲルは思った。ロッソが化け物の頭を剣で貫いた瞬間を、確かにカヲルも見た。しかし、化け物はそれでも死なずに、ロッソの命を奪った。
しかし、カヲルが無我夢中で化け物の頭に剣の鞘を叩きつけると、化け物は呆気なく絶命した。ヴェインの言うとおり、不可解なことだった。だが、なぜと問われても、その答えをカヲルは持ち合わせてはいなかった。
「・・・すみません。僕にもわからないです。あのときは、騎士の方を助けるために必死で・・・特別なにかをした覚えはないんです。」
ヴェインは、カヲルの目をジッと睨んだ。
「本当だな?」
カヲルは、黙って頷いた。
「・・・」
ヴェインは、血のついた顎を軽くさすった。
「・・・となると」
ヴェインは、カヲルの剣を見た。
「その剣に、なにかあるのか――」
直後、ふたたび遠くで、凄まじい爆発音が響いた。
とっさにヴェインは、音がした方に振り向いた。街の南地区の方から、住人の悲鳴と火の手が上がっている。
ヴェインは眉間にシワを寄せて、奥歯を噛みしめた。
「――くっ!こんなことをしてる場合じゃない!」
ヴェインは鋭い目でカヲルを見た。
「どんな理由があるにせよ、お前がやつらに致命傷を与えられるのは事実だ。街にはまだ、あの化け物がぞろぞろ残ってる。これ以上、被害を増やすわけにはいかない。」
ヴェインは、城を指さした。
「今この城には、たくさんの住人が避難している。この城が、俺たちの最後の砦だ。ここを落とされたら、アイゼンベルグは・・・いや、フィリスティアは終わりだ。何としてでも、この城だけは守り抜かなきゃならない。・・・認めたくはないが、お前は剣の腕も立つ。だから、お前に頼みがある。・・・この城を、守ってくれ。」
「・・・ヴェイン隊長」
あのプライドが高く、カヲルを疎ましく思っていたヴェインが、そのカヲルに、城を守ってくれと頼んできた。それほどまでに、事態が深刻だということを、ヴェインの真剣な眼差しが物語っていた。
押し黙ったカヲルは、ちらりとロッソの亡骸を見た。ここで自分が迷っていたら、ロッソのような被害者が、次々と出るだろう。それを食い止める力が、自分にはある。
「・・・」
カヲルは、ギュッと顔を締めると、自分の両頬をパシンっと叩いた。
「わかりました!」
さっきまでの恐怖が消えたような、力強い目だった。
一度うなずいたヴェインは、何も言わずに踵を返し、火の手が上がっている南地区へと駆け出した。
一人になったカヲルは、城を見上げた。ヴェインの言葉が何度も脳裏にこだまし、セフォネや国王の顔が浮かんだ。
――必ず、守ってみせる!――
すると、カヲルの視界に、一体の化け物がうつった。どうやら、城に入り込もうとしているようだ。
すかさずカヲルは、剣を構えて駆け出した。
「入れさせるかぁー!」
化け物がカヲルに気づいたと同時に、カヲルが斜めに振り下ろした剣の鞘が、化け物の首元にめり込んだ。
化け物の首は、バキバキと、気味の悪い音をたてて、完全にへし折れた。地面に横たわる化け物は、数回痙攣を起こし、やがて、動かなくなった。
――やっぱり、この剣なら、この化け物を倒せるんだ!――
ふと、背後に殺気を感じた。振りかえると、建物の陰から、二体の化け物が唸りを上げながら近づいてきていた。
カヲルは再び剣を構えた。
「絶対に、城には入らせないぞ!」
それから、どれほどの時間が経ったのか。
どれだけの化け物を殺してきたのか。
全身傷だらけになりながらも、一心不乱に化け物と戦いつづけたカヲルは、ようやく付近に化け物の姿が見当たらなくなったころ、城壁に背中を預けて休息をとっていた。
――まずいな・・・――
傷が痛み、体中が怠くて、手や足をうまく動かせない。
――今のうちに、手当しないと・・・――
しかし、手近なところには、手当に使えそうなものはない。
――参ったなぁ、どうしよう――
せめて、城に戻れば何とかなるかもしれない。そう思ったが、疲れきった足は鉛のように重く、一歩も動けそうになかった。ふぅ、と息を吐きながら、カヲルは地面に大の字になって倒れた。
ぼんやりと見上げた空では、眩い太陽がうっとうしいほどに世界を煌々と照らしている。
だんだんと、強烈な眠気がやってきた。それに逆らう気力も起きず、目は徐々に閉じていこうとしていた。
――このまま、少し眠ろうかな――
そう思った時、足音がひとつ、カヲルに近づいてきていた。カヲルは、顔をゆがませた。
――新手か――
ゆっくりと、顔を足音のする方へ向けると、見た事のある鎧と顔が向かってきていた。中心街の警護にあたっていた、ゼント副隊長だった。ゼントは、カヲルの横に腰を下ろし、血と汗にまみれた顔で覗き込んできた。
「おい、生きてるか。」
カヲルは、微かに口元を上げ、かすれた声でいった。
「・・・なんとか」
そうか、と言って、ゼントは腰にぶら下げている袋の中を探りだした。
「隊長に、アンタが一人で城を守っていると聞いた。だから、応援に来た。」
それを聞いて、カヲルは安心したように、目を閉じて深く息を吐いた。
「・・・た、助かりました。たぶん、この辺一帯の化け物は、全部倒しました。ヴェイン隊長は大丈夫ですか?」
ゼントは呆れたように肩をすくめた。
「・・・まずは自分の心配をしたらどうだ。こんなに傷だらけになって」
言われて、カヲルはニヤニヤ笑いながらいった。
「・・・へへへ、すいません。」
「のんきな奴め。まずは手当てだ。それが終わったら、私も戻る。アンタは城に戻って休んでいろ。」
カヲルは不服そうに眉尻を下げた。
「で、でも、まだ街にはあの化け物が――」
ゼントが言葉をさえぎった。
「そもそもアンタはただの民間人だ。今回は、非常事態だったからアンタの力を借りたまでのこと。これ以上、アンタが関わる必要はない。大人しく城に戻れ。」
確かに、こんな状態では、むしろ騎士たちの邪魔になってしまうだろう。不本意ながらも、カヲルは横のまま頷いた。
「・・・わかりました。」
ゼントは頷いた。
「よし、じゃあ、簡単に応急処置をする。あとは自力で城に――」
ゼントは、言いかけて言葉を止めた。突然、雲が陽射しを遮ったみたいに、辺りが暗くなったからだ。
すると、ゼントは、カヲルが空を見て愕然としている事に気づいた。
おそるおそる、ゼントも空を仰ぐと、驚愕して目を見張った。
「・・・な、なんだあれは」
まるで、巨大な岩が空に浮いているのかと思ってしまうほどに巨大な化け物が、城の真上で羽ばたいていたのだ。
「・・・なんて大きさなんだ。これまでのやつとは比べ物にならないぞ」
すると、体長がおよそ十メートルはある巨大な化け物は、徐々に降下を始めた。そして、城の最上部のあたりまで降りてきたとき、カヲルとゼントは、驚愕して短く声を発した。巨大な化け物は、大きく開けた口から、凄まじい火球を城の最上部へ向けて放ったのだ。
ドドーン!
火球を受けた城の最上部の一部が、音を立てて崩れた。
「な、なんてことを!」
その光景を目の当たりにして、カヲルはあることに気づいた。
「・・・あっ、あそこは!」
外観から見るに、そこはちょうど、セフォネの部屋の付近だった。
カヲルの背筋に、寒気が走った。
――セフォネ様!――
とたん、カヲルは体の傷が痛むことも忘れてすくっと立ち上がり、一目散に城の入口へと駆け出した。
「お、おい!その体じゃ無理だ!おいっ!」
その時、城の最上部から、女性の悲鳴が響いた。
少し前、セフォネは自分の部屋にいた。
緊急避難命令が発令されたため、セフォネも城の召使いたちとともに、城の地下にあるシェルターへ逃げるはずだったが、その前に、セフォネは取りに行きたいものがあると、召使いたちの制止を振り切って、部屋へ戻って来たのだ。
セフォネの部屋は、城の最上部にある。一般的な大きさの民家なら、丸ごと収まってしまうほどの広さがある部屋だった。
部屋に入ったセフォネは、一直線に、部屋の端に置いてある、ピンクの天蓋がかけられた巨大なベッドに向かった。
飛びこむようにベッドに上がり、四つん這いで枕元まで来ると、枕の横の小さな棚に立てかけてある、額に収められた一枚の写真を手にとった。
それは、十四年前に病死したセフォネの母と、その母に抱きかかえられた、当時まだ四歳だったセフォネが写った写真だった。セフォネは、その写真を大事そうに胸に抱いた。
「これだけは・・・」
写真を額から取り出し、きていた上着のポケットにしまい込むと、急いでベッドから下りて、部屋の出口へと走った。
そこへ――
凄まじい揺れとともに、外に面している部屋の壁が、凄まじい音をたてて崩れた。
「きゃあ!」
揺れに足をとられて倒れたセフォネが、崩れた壁の方に目をやると、壁の向こうから、見たこともない恐ろしく巨大な化け物が顔をのぞかせた。
セフォネの、耳をつんざくような悲鳴が部屋の中に響いた。
セフォネの顔の大きさほどはある赤く澱んだ瞳が、セフォネを睨んだ。まるで、獲物を視界に捕らえた獣のように、化け物はうなりをあげながら、汚らしくダラダラとヨダレを垂らしていた。
「いや・・・いや・・・」
セフォネは、恐怖で足がすくんでしまい、逃げることが出来ない。化け物は、壊れた壁をかいくぐり、這うように部屋へと侵入した。
「誰か助けてー!」
セフォネは出口へ向かって叫んだ。が、不運はさらにセフォネを追いこんだ。
この日、城内の警備は手薄だった。国王が海外での公務に出ているため、ほとんどの騎士が、国王に同行しているのだ。さらに、残った騎士も、今は外での戦闘に参加しているため、城内には、セフォネを守れるものがいなかった。
そこへ、騒ぎを聞き付けた一人の若い執事が、ドアを開けて入ってきた。
「陛下!大丈夫――」
入ってきた執事に、セフォネは涙にまみれた顔で叫んだ。
「た、助けて!」
しかし、執事の耳にセフォネの声は届いていなかった。足が震えている執事は、恐怖に引きつった顔で、化け物を見ている。すると、醜く巨大な化け物は、執事に対し、お前は邪魔だと言わんばかりに、猛獣のごとくけたたましく吼えた。まるで、なにかが爆発したかのような音が、部屋全体を揺らしている。完全に腰を抜かした執事は、情けなく悲鳴をあげて、床を這うように部屋を飛びだしてしまった。
「待って!行かないで!」
セフォネは、すがるように手を伸ばしたが、既に執事の悲鳴と足音は、廊下の奥へと消えていた。
「そんな…」
振りかえると、相変わらず化け物は唸りを上げながらセフォネを睨んでいた。
――逃げないと・・・――
セフォネは、すくんで動かない足の代わりに、手で床を這うように出口へと進んだが、突然自分の周囲に影がかかった。
見上げると、化け物がセフォネに覆い被さるように立っていたのだ。化け物は、セフォネに向かって再び激しく吼えて威嚇した。
「キャッ!」
ひるんだセフォネは、思わず身をちぢめた。
すると、化け物は、両手を床につけて、顔をセフォネへと近づけた。
化け物のおぞましい顔は、セフォネの目の前まで迫って来ている。
セフォネは、震える手で必死に抵抗し
「いや・・・来ないで・・・」
と、か細い声で訴えた。
しかし、セフォネの訴えも虚しく、化け物は口を大きく開けて、セフォネを食べようとしている。
差し迫る死に、セフォネは顔を引きつらせた。
――もう・・・ダメ・・・――
その時、セフォネの名を叫ぶ声が、廊下を駆ける音とともに響いた。
ハッとしたセフォネは、部屋の出口をみた。直後、全身傷だらけのカヲルが、剣を手にしてやってきた。
カヲルは、険しい顔で叫んだ。
「セフォネ様、無事ですか!」
「か、カヲルさん!」
カヲルは剣を構えて、化け物目掛けて力強く踏み込んだ。
「セフォネ様から離れろ!」
弧を描くように振り下ろした剣先は、鈍い音をたてて化け物の眉間にめり込んだ。ひるんだ化け物は、短い悲鳴をあげて、額を押えながら後ずさりをした。
――いまだ!――
そのすきに、カヲルはセフォネへと駆け寄り、顔を覗きこんだ。
「セフォネ様、怪我はないですか?」
「わ、私は大丈夫だけど、カヲルさんが――」
「なら良かった。さあ、立って!逃げますよ。」
なりふり構わず、カヲルはセフォネに肩を貸して立ち上がらせた。
剣を化け物に向けたまま、二人はじりじりと、出口へ向かって下がっていく。
「このまま、二人で部屋を出ます。そうしたら、セフォネ様は一人で逃げてください。」
セフォネは、眉尻を下げた。
「でも、カヲルさんは?」
「いま二人で逃げたら、やつが追いかけてくる。僕がやつの気を引きますから、そのすきに」
「ダメよ!こんなに怪我をしているのに、置いていけないわ!」
「僕、ヴェイン隊長と約束したんです。必ず、この城を守ると。こいつをこのままにしておくと、城が壊されてしまう。だから、早くこいつを、城から追い出さないと」
「でも、一歩間違えたら、死んでしまうかもしれないのよ?」
カヲルは、セフォネに振り向き、まっすぐに目を見すえた。
「大丈夫、僕を信じてください。」
「・・・カヲルさん。」
やがて、二人は廊下に出た。その時、巨大な化け物は、今まで以上に恐ろしい形相で、唸りを上げながらカヲルたちを睨んできた。
「さあ、走って!」
セフォネは、一瞬迷った様子を見せたが、覚悟を決めて走りだした。
「応援に来てもらうから、絶対に死なないで!」
カヲルは、セフォネの姿が廊下の奥に消えるまで見送ると、途端に顔を苦痛で歪ませた。
セフォネを逃がすために、まだ戦えるような素振りを見せたが、実際は、もはや立っているだけで精一杯だった。カヲルの体から言わせれば、先程の一撃で限界に達している。正直、今の状態で、この目の前にいる巨大な化け物を倒すことは不可能に近い。
――どうしよう・・・勝てる気がしないや――
カヲルが部屋の中に戻ると、巨大な化け物は容赦なく攻撃を仕掛けてきた。
カヲルの背丈ほどもある手を頭の位置まで上げ、まるで虫でも潰すかのように、カヲルへ向かって振り下ろしてきた。
「――くっ!」
カヲルは左に飛び跳ね、紙一重で化け物の手を避けた。しかし、それだけでも、負傷した体は悲鳴を上げた。どう考えても不利すぎる。ふと、化け物と目が合った。化け物の表情は変わらないはずだが、どこかこちらを嘲笑っているように見える。苦しめ苦しめ。と言われているようだった。
そして、化け物はまたも同じように、手を振り下ろしてきた。しかも、先程と同じように、ギリギリで避けられるような速さだった。獲物を狩る猛獣のように、ひたすらカヲルを動かして、じわじわと弱らせるつもりなのだ。普段なら、この程度の動きは楽々とこなせるが、今のカヲルとっては一歩足を動かすだけでも重労働だ。それでも、化け物のしつこい追撃に、カヲルはひたすら動き回るしかなかった。
「・・・はぁ、はぁ、はぁ、もう、ダメだ・・・」
と、カヲルは、とうとう片膝を床につき、剣を床に立てて、なんとか倒れないように体を支えた。顔をしかめて、荒く呼吸をしていると、また、巨大な手が降ってきた。
「・・・くっ!」
立ち上がる余裕もなく、カヲルは、床を転がるように、化け物の手を避けた。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・」
全身がだるくて、起き上がれない。
剣を支えにして、上半身を起こし、片膝をついて顔を上げた時、巨大な黒い塊が、猛スピードでカヲルに迫ってきていた。それは、化け物の拳だった。
「――しまっ・・・!」
反応が遅れ、避ける体勢を取ることができず、カヲルは化け物の拳を全身で受けてしまった。
一瞬、視界が白くよどみ、全身に鈍い痛みが広がった。
直撃の寸前に両手で顔をガードしたが、その威力は凄まじく、吹き飛んだカヲルは、部屋の壁に叩きつけられた。
「・・・うっ・・・ううっ・・・」
まだ、意識を保っていられるのが、不思議なくらいだった。だが、カヲルが負ったダメージは相当なもので、指先ひとつ動かせず、呼吸をするだけでも体が痛んだ。さらに、壁に衝突した際に頭を強く打ったようで、視界がぼやけ、意識がもうろうとしてきた。ここで目を閉じたら、一生目覚めることはできないと、カヲルは思ったが、もう、カヲルは限界だった。死が目前に迫っていることを感じたカヲルは、まるで眠りにつくように目を閉じた。
――セフォネ様・・・どうか、生き延びて・・・――
その時、遠くから微かに廊下を駆ける音が聞こえてきた。
もうろうとする意識のなか、その足音を聞いたカヲルは、セフォネが応援を呼んでくれたのだと思った。だが、部屋に入ってきたのは、あろうことか、セフォネ本人だった。しかも、応援も連れてはおらず、一人だった。
――セフォネ様・・・どうして――
セフォネは、血相を変えてカヲルに駆け寄った。
「カヲルさん!しっかりしてください!」
と、倒れているカヲルの肩を揺らした。カヲルは、かすれた声で、絞り出すようにいった。
「・・・セフォネ・・・様・・・どうし――」
「お城の中を化け物がうろついてて、地下シェルターに逃げられないの!」
カヲルは目を見張った。もっとも恐れていたことが現実になってしまった。
化け物たちは、城門を抜けて城の中へと侵入してしまったのだ。外で戦っている騎士たちでは、化け物を抑えきれなかったのだろう。地下シェルターへ降りるには、化け物が徘徊しているロビーを横切る必要があるため、セフォネはシェルターに避難することが出来なかったのだ。もう、どこにも逃げ場は無かった。
「そ・・・そんな・・・」
カヲルは、絶望に打ちひしがれた。
セフォネは、カヲルの手をそっと手に取った。
「カヲルさん・・・私たち、もうダメなのかな。」
カヲルは、今にも泣き出しそうなセフォネの顔を見上げた。すると、
「――セフォネ様!」
「え?・・・」
再び、セフォネに化け物の手が伸びてきた。
「きゃあああ!」
「セフォネ様!」
逃げ遅れたセフォネは、巨大な化け物に手で掴まれてしまった。
とっさに、カヲルは持ち上げられているセフォネに手を伸ばしたが、すでに遅く、セフォネはカヲルの手の届かないところまで運ばれてしまった。
セフォネを掴む化け物の手は、セフォネの胸の辺りから膝の下まで至っており、身動きが一切取れない。セフォネは、手をカヲルに向かって伸ばし、恐怖に引きつった顔で泣き叫んだ。
「助けてー!」
カヲルも、必死に手を伸ばしたが、疲れきった体は、起こすことすら出来ない。泣き叫ぶセフォネは、今にも化け物に食べられてしまいそうだ。
「セフォネ様・・・」
「いやー!助けてー!」
「セフォネ・・・様・・・セフォネ様・・・」
セフォネの悲痛の叫びが、カヲルの耳を貫いた。
――死んでしまう。守ると約束した人が、目の前で死んでしまう…だめだ、守らなきゃ。僕が、守らなきゃ…!――
その時
――えっ?――
突然、まわりの景色が変化しはじめた。まるで消しゴムで色を落としたかのように、見える景色の色が、白と黒だけに変わっていった。さらに、徐々にセフォネの叫び声も聞こえなくなり、完全に動きが止まってしまった。まるで、自分以外の時間が止まったみたいに、あたりは静けさに包まれた。
「・・・な、なにが」
そのとき、ふと、なにかが聞こえた。
周りの音は、耳を塞がれたように何も聞こえないが、頭の中で、何かが聞こえる。
それは、鼓動だった。
ドクンッドクンッと、力強い心臓の鼓動のような音が、カヲルの頭の中に響いている。
カヲルが、おずおずと首を横に向けると、カヲルが握っている剣が、あの鞘から抜くことが出来ない古剣が、まるで命を得たように、地を伝う鼓動を奏でていた。
夢か幻でも見ているのか、目の前で起こっている、現実からかけ離れた状況に、カヲルは唖然としてしまった。
「な、なんだ・・・」
すると、突然剣がカヲルの手を離れ、ひとりでに浮き始めた。
「・・・なっ!」
剣は、およそ二メートルの高さに浮くと、鞘の全体がまばゆく輝いた。そのあまりのまぶしさに、おもわずカヲルは顔を伏せた。
まぶたの向こうで輝きが収まるのを感じ、おそるおそる目を開くと
「・・・ま、まさか!」
宙に浮いている剣が、いつの間にか刃を顕にしていた。
カヲルは驚きのあまり、声も出せずにあんぐりと口を開けていた。
すると、ようやく、世界は音を取り戻し、セフォネの身を裂くような叫びが、カヲルの耳に響いた。
「――はっ!セフォネ様!」
セフォネは、泣き叫びながら化け物の手から抜け出そうとしているが、敵うはずもなく、セフォネは化け物の口に押し込まれた。
「やめろー!!」
その時だった。
セフォネの叫び声は、肉が潰れるような不気味な音と、化け物の悲鳴によってかき消され、セフォネを掴んでいた化け物の手は、セフォネを掴んだまま床に落ちた。よく見ると、化け物の手が、手首の辺りでバッサリと切断され、断面から不気味な緑色の体液を吹き出している。
手ごと床に落ちたセフォネは、慌てて力の抜けた化け物の手から這い出て、壁際にあるタンスのかげに隠れた。その様子を、ただ呆然と見ていたカヲルは、呟くようにいった。
「な、何が起こったんだ・・・。」
すると、カヲルの目の前に、剣がゆっくりと降りてきた。
「僕の剣・・・」
剣の鼓動は、今もカヲルの頭に響いている。まるで自分を手に取れと、語りかけているようで、無意識にカヲルは、剣の柄を握った。その時だった。
さっきまで、鉛のように重くて動かなかった体が、嘘のように軽くなっていく。まるで、力が水のように、全身に染み渡っていくようだった。
剣を見つめたまま、カヲルはすくっと立ち上がった。
次の瞬間、カヲルの表情が鋭くなると、壁にへばりついてカヲルを見ていたセフォネに呼びかけた。
「セフォネ様」
「――は、はい!」
「そこで、じっとしていてください。」
セフォネは何も言えなかった。巨大な化け物へと歩み寄るカヲルが、まるで別人のように思えたからだ。
するとそこへ、崩れた壁の外から、続々と化け物が部屋になだれ込んできた。巨大な化け物の悲鳴を聞き付けてやってきたのだ。
とっさに、セフォネは叫んだ。
「カヲルさん!危ない!」
しかし、カヲルは体をひねりながら、流れるように剣を振り、飛びかかる化け物の首を次々と切り落としていった。
その光景を、セフォネは呆然と見ていた。
「・・・す、すごい」
もはや、化け物はカヲルの敵ではなかった。波のように襲いかかる化け物たちを、カヲルはまるで羽虫をあしらうかのように、次々と斬り伏せていった。
部屋に散らばる化け物の残骸の中心に立つカヲルは、再度巨大な化け物に体を向けた。
切られた腕から血を滴らせ、唸り声をあげてカヲルを睨む巨大な化け物は、猛獣のごとく吠えた。
その瞬間、その開かれた大きな口に、カヲルは飛び込んだ。
喉の奥に剣を突き刺し、貫通した剣が化け物の後頭部から飛び出して、後ろに倒れ込んだ化け物は、カヲルを口に入れたまま崩壊した壁の外に出た。
同じころ、城の外では、ヴェイン率いる騎士たちが苦戦を強いられていた。
アイゼンベルグに残っていた国家騎士の、およそ七割が負傷し、なんとか動ける騎士はおよそ五十人足らず。この人数では、化け物を食い止めながら、負傷した騎士や住人の救護を行うことは不可能だった。さらに、国家騎士のなかでも、特に腕に覚えのあるヴェインでさえ、もはや満身創痍だった。苦しそうに肩で息をし、もう微塵も動けない体がなんとか倒れないように片膝をついている。目線の先には、未だに多くの化け物がはびこっていた。
もはや状況は絶望的だったが、ここまで追い込まれても、ヴェインの目から光は失せていなかった。
「・・・くそっ、やられてたまるか」
すると、ヴェインから少し離れたところにいる騎士が、空を指さして叫んだ。
「なにか落ちてきます!隊長離れて!」
とっさに、ヴェインは空を見上げた。ヴェインの真上から、巨大な化け物がまるで隕石のように落下してきていた。
「うわっ!」
驚いたヴェインは、慌てて身を転がし、巨大な化け物は爆発したような音をたてて地面に落下した。
土煙が巻きあがり、あたりはしんと静まり返っている。
「な、何が起きたんだ」
ピクリとも動かない巨大な化け物を、ヴェインが呆然と見ていると、突然化け物の顔の真ん中の辺りから剣の刃が飛び出した。その剣は、引っ込んだかと思えば、また別の場所から出たりを繰り返し、ぐちゃぐちゃと肉を裂いていく不気味な音を立てて、化け物の顔にぽっかりと大きな穴を開けた。その穴の奥から、人がもぞもぞと抜け出てきて、その人を見て、ヴェインは目を見張った。
「・・・あっ!お、お前!」
全身化け物の体液にまみれたカヲルは、ふぅ、と息をついて、手で顔に付いた体液を拭った。すると、呆然と見ていたヴェインと目が合った。
カヲルは、パッと明るい顔で叫んだ。
「ヴェイン隊長!」
驚いたヴェインは、座り込んだまま、駆け寄ってきたカヲルを見上げた。
カヲルもヴェインに目線を合わせるよう腰を落として、いった。
「よかった、無事だったんですね。」
カヲルの心配をよそに、ヴェインは視線を巨大な化け物の亡骸にうつした。
ヴェインは声を低めてつぶやいた。
「一体、なにがあった。」
カヲルは少し黙ってから、剣をヴェインに見せた。
「この剣が、力をくれました。」
押し黙ったヴェインは、眉をひそめ、意味がわからない、という顔をした。
「詳しいことは、あとで。今は、あなたの手当をしないと」
と、剣を鞘に収めて腰の金具にはめ込んだ。
「さあ、立って」
カヲルはヴェインの肩を担いで立たせた。傷が痛んだのか、ヴェインは呻きながらヨロヨロと立ち上がった。
「とりあえず、城の中に」
と、城へ向かおうとしたとき、市街地からまたも悲鳴が響き渡った。
ヴェインは険しい顔でいった。
「ダメだ・・・まだあの化け物が残ってる。ここで退くわけには、いかない・・・」
ヴェインはカヲルから離れて、悲鳴が聞こえた方へ行こうとしたが、肩が離れた瞬間に、ヴェインは崩れるように倒れた。とっさにカヲルが支えたが、もうヴェインには戦う余力は無かった。
「む、無茶ですよ!これ以上戦うのは危険です!」
息を切らすヴェインは、市街地を見つめながらつぶやいた。
「・・・俺は、逃げるわけにはいかないんだ。」
カヲルは、黙ったままヴェインを見つめた。こんなに傷を負っても、ヴェインは隊長として、騎士としての義務を果たそうとしている。
――ここで身を引いても、誰も責めたりはしないだろうに・・・――
ヴェインの固い信念を、カヲルは感じた。
「・・・なら、僕が代わりに戦います。」
ヴェインは横目でカヲルを睨んだ。
「・・・ダメだ。さっきは必要だったから協力してもらっただけで、本来ならお前はただの民間人だ。これ以上の関与はさせられない。」
すこし考えたカヲルは、なら――と、ヴェインをゆっくり地面に下ろした。
「・・・な、なにを」
カヲルは剣を抜きながらヴェインの前に出た。
「僕が代わりに片付けてきます。」
「だ、ダメだ!勝手なことを――」
カヲルはヴェインの言葉をさえぎると、にんまりと笑いながらいった。
「はい、勝手にやります。」
そして、カヲルはヴェインの制止を振り切って市街地へと駆けた。
数時間後、幸い比較的被害が少なかった地区の病院から駆けつけた二十人の医師と看護師による救護が、城の一階ロビーにて行われていた。部下に城へ運ばれたヴェインも、看護師の女性から手当を受けていた。患部に手際良く包帯を巻かれているあいだ、ヴェインはロビーを見回した。城の一階の広いロビーに運ばれてきた負傷者は、ざっと見ただけで二百人は超えている。そのほとんどが、街の住人だった。包帯だらけの子を抱える女性、片方の足を膝から下にかけて失ってしまった男性、意識を失っている人などと、重症の負傷者ばかりが目についた。ここにいる負傷者の数は、街全体のほんのわずかだろう。おそらく、他の病院や避難所に、この数十倍を超える数の負傷者がいるに違いない。
やり場のない怒りと悲しみに、ヴェインは眉間に深くシワを刻み、ガクッと俯いた。
そこへ、弱々しいが、聞き覚えのある男の声が聞こえ、ヴェインは顔を上げた。城の入り口付近を、男性の看護師に支えられて、全身傷だらけのカヲルが、ふらふらな状態で歩いていた。
――さっきよりも怪我が増えてる・・・――
あれから、一体どれほどの化け物と戦ってきたのか。剣の力で一時的に回復はしたものの、さらに全身にひどい傷を負ったカヲルは、もはや一人では立っていられない状態だった。
その直後、無事だったヴェインの部下の一人が入城し、ヴェインに駆け寄ってきた。
「隊長。」
ヴェインの前で腰を下ろした部下は、眉をひそめた神妙な面持ちでいった。
「街を徘徊していた化け物は、すべて倒されました。」
ヴェインは目を見張った。
そして、ちょうどヴェインの前を横切ろうとするカヲルを見た。すると、ふと、呼んでもいないのに、カヲルがヴェインの方を向いた。
顔を合わせたとき、カヲルの顔は、意識があるのかすらハッキリとしない状態だったが、ヴェインの顔を見た瞬間、カヲルのほの暗い目に光がはしり、切れて血が出ている口元をかすかに上げた。
きっと、残った化け物をすべて倒した。と言いたかったのだろうと、ヴェインは思った。ロビーの奥の方へ運ばれていくカヲルの背中を見つめながら、ヴェインは、込み上げる悔しさに、拳を強く握った。
ヴェインの様子がおかしいと感じ、部下が顔を覗き込んだ。
「隊長・・・?」
ヴェインはうつむいたまま、声を低めてつぶやいた。
「そうか、わかった。ありがとう。」
「・・・」
部下は一礼し、城をあとにした。
一人になったヴェインは、あらためてカヲルの方を見て、奥歯を噛みしめた。
世間や部下たちは、自分を団長に次ぐ槍の使い手と賞賛していた。そしてそれは、自らも自負していることだった。槍を持たせれば、自分の右に出るものはいない。そう誇っていた。しかし、自分の槍は、街を襲った化け物には微塵も通用しなかった。その結果、騎士と街の住人に、多くの犠牲者が出た。今までの自分が、ただ思い上がっていただけだと、恥ずかしくなり、さらに、このふらりと現れた若者の、驚くべき強さを、ヴェインは認めざるを得なかった。自分ではどうすることも出来なかった化け物を、自分よりも弱いと見下していたあの男は、見事に全滅させた。改めて、己の未熟さを痛感させられた。
そして、看護師に運ばれているカヲルも、同様に悔しい思いを抱いていた。
自分が踏みしめている豪華なピンクの絨毯は、ところどころが負傷者の血で汚れていた。少し辺りを見回しても、地獄さながらの光景が広がっていた。それを目にし、やり切れない辛さに、カヲルは溢れる涙を床に落とした。
そこへ
「カヲルさーん!」
――セフォネ様の声だ。――
カヲルはゆっくり顔を上げた。
頬にガーゼを貼り付けたセフォネが駆け寄ってきた。
カヲルの前に立ったセフォネは、彼の姿を見て絶句した。
「カヲルさん・・・ひどい・・・」
カヲルも、看護師に肩を担がれたまま、気まづそうにポリポリと頬をかいた。
カヲルは、ボソボソと掠れた声でいった。
「僕・・・なら・・・大丈夫です。それより、セフォネ様が・・・無事で・・・よかった。」
「・・・カヲルさん」
カヲルを運んでいる看護師が、声を低めていった。
「殿下、彼の傷に触りますので」
焦ったセフォネは、一言謝罪をしてから、無言でカヲルの後に着いていった。
それから、手当を終えたカヲルは、ひとまず自室で安静にしていた。医師の見立てによれば、体の内部に異常はなく、出血は多いものの、外傷は思ったほど深いものではなかったため、二、三日安静にしていれば動けるようになるとの診断だった。
本当は、様々なことが気になったが、全身包帯だらけにされて身動きが取れないため、今は大人しくしていることにした。なにより、自室まで着いてきたセフォネが、さっきからじっとカヲルを監視しているのだ。
カヲルが横たわるベッドの横で、セフォネはへばりついたように居座っている。
枕に頭を乗せたまま横に顔を向けると、相変わらずセフォネがこちらを見ている。
「・・・あの、僕ならもう大丈夫ですから」
言いかけて、セフォネはキッと鋭い顔を近づけた。
「喋ってはダメ!安静にしていなさい!」
「・・・ご、ごめんなさい。」
観念したカヲルは、それ以上何も言わずに目を閉じ、ときどき薄目でセフォネの様子をうかがうと、相変わらず形相でセフォネは見ていた。
――むしろ緊張して寝られない・・・――
それから、ほどなくして、国王が騎士の連隊を連れて城に戻ってきた。
国王は城に入るなり、負傷した意識のある住人の一人一人に声をかけて回った。大丈夫です。と言うものもいれば、嬉しさのあまり、とめどなく涙を流すものもいた。最後に、国王は、命を落とした城の召使いたちを一時的に安置してある部屋へとやってきた。すべての遺体には、頭から足までをすっぽりと覆う白い布がかけられている。その数、十八人。国王は並べられた遺体の前に立ち、哀悼の意を込め、胸に手を当てて黙祷を捧げた。
「私が城を空けたばかりに…すまない」
そこへ、国王が帰ってきたと知らせを受けたセフォネが、女中二人と入ってきた。
「――お父様」
セフォネの顔を見た国王は、どこか控えめに笑った。
「セフォネ・・・無事でよかった。」
と、国王はセフォネを強く抱き締めた。
セフォネが国王の顔を見上げると、涙をこらえるように歯を食いしばっていた。
「お父様・・・」
国王の想いが、セフォネには伝わり、とたん、セフォネの目から涙がこぼれた。
この国王は、とても情に厚い男だった。以前、城に仕えていた執事が、城の金を盗むという事件が起きたことがある。犯行が暴かれた執事は、抵抗することなく身柄を拘束された。よくよく話を聞くと、彼の実家はとても貧しく、出稼ぎのために遠い故郷からアイゼンベルグに出てきたのだという。毎月の稼ぎは、そのほとんどを実家への仕送りに出している。しかし、ある年に、母が重い病を患ったことを、彼は手紙で知った。その病の治療費はかなりの高額で、彼の五年分の稼ぎでも足りないほどの額だった。悩んだ末、彼はいけない事だと分かっていたが、とうとう城の金に手を出してしまったのだ。
彼の実家の事情や、両親想いの性格もよく知っていた国王は、彼に罰を与えた。それは、実家での無期限の謹慎処分だった。盗んだ金は、返させずに。
その内容を、言付けで言い渡された彼は、膝から崩れて声を出して泣いた。
この事件の全貌を、セフォネも知っていた。とんでもない執事を雇ったもんだ。と、ケラケラと軽く笑い飛ばした国王の顔を、セフォネは今でも、ありありと覚えている。
この国王だから、この国は成り立っているのだろうと、身に染みて思った。
二週間後、街、そして騎士と住人の犠牲者の最終的な被害報告が発表された。
民家百六十八棟が全焼全壊。半壊だけでも、三百棟を越した。死亡した住人、計十八人。街を警護していた国家騎士の死亡者――六十八人。
「――以上が、最終的な被害の報告になります。」
国家騎士団副団長、オリバ・Cケフカの悲しみを含んだ声が、騎士団本部の会議室に響き渡った。いま騎士団本部では、国家騎士、地方騎士の代表、そして国王を交えての緊急会議を行っている。
報告を聞いた人々は、揃って通夜のように重苦しい雰囲気で視線を落とし、誰も一言も話をしていなかった。
沈黙を破ったのは、国家騎士団団長のヒザキ・Fオリスンだった。白髪を短く刈りこみ、無精髭でよく日に焼けた顔の、激しい歴戦の数々を思わせる傷だらけの鎧をまとう、身長およそ百九十センチメートルを超える巨体の老騎士だった。
彼の、低いがよく通る声が、会議室に響き渡った。
「諸君もよく存じている通り、先日、正体不明の化け物たちによる襲撃で、我が国、及び国家騎士団は、過去に類を見ない甚大な被害を受けた。ただ、幸いなことに、被害を受けたのは、このアイゼンベルグだけということ。ほかの地域には、一切の被害は出ていない。腑に落ちない点は多々あるが、とにかく今は、フィリスティア全土に被害が及ばなかったことを幸いと思おう。次に、街を襲った化け物についての詳細を述べてもらう。ヴェイン。」
名前を呼ばれたヴェインは、席を立ち上がり、深く一礼をした。おでこには、包帯が巻かれてある。まだ、傷が完治していないようだ。ヴェインは、すぐに報告を始めず、ためらうように眉をひそめてうつむいた。
その様子をみて、周りがざわざわと騒ぎ始めたため、ヒザキは再度報告をするよう、ヴェインにうながした。
そして、ようやく口を開いたヴェインは、ひとつひとつ置いていくように語った。
「――あれは、近くの森にいるような動物や、魔物の類とは全く違う生き物でした。なんと伝えたら良いのか、こう、身も凍りそうなほど、研ぎ澄まされた殺気と申しましょうか…あんなに禍々しい気配を放つ生き物は、初めてでした。」
身振り手振りで、生き物の容姿を伝えていくと、腕を組んで怪訝そうな顔をするものや、まるで、人をバカにしたような顔でヴェインを見ているものもいた。
その視線に、ヴェインは気づいていたが、気にしないよう心を収めて説明を続けた。
若干二十歳の史上最年少で、騎士の精鋭が顔を連ねる一番隊の隊長に任命されたヴェインを、快く思わないものは少なからず存在する。しかし、それは今に始まったことではなかった。
一通り説明を終えたヴェインが椅子に座ると、次に発言をしたのは国王だった。
まず、国王は、犠牲になった者たちへの、哀悼の黙祷を全員で捧げよう。と言いだした。当然反対するものなどいなく、その場にいた全員が立ち上がり、一分間の黙祷を捧げた。
「みな、ありがとう。席についてくれ。」
全員が席に座るのを見守ると、国王は落ち着いた口調でいった。
「今回の一件については、まだ解明できていないことが多い。あの化け物の正体や、目的、組織的に動いているのかどうかなど。今後、また攻めてこないとも限らない。そこでみなには、ある青年の話を聞いて欲しい。入ってきたまえ」
王の指示で、出口の横に控えていた騎士が扉を開けると、緊張した面持ちのカヲルが、若干足を引きずるように歩いて入ってきた。
なぞの青年の登場に、中がザワつき始め、ヴェインも目を見張った。
「カヲルくん。ここへ来たまえ」
と、国王に手招きをされたカヲルは、国王の隣に立ち、集まった騎士の面々を眺めた。
「紹介しよう。カヲル・Tライトニングくんだ。知っている者もいるだろうが、彼には今、娘のセフォネの護衛に勤めてもらっている。そして、今回の一件であの化け物たちを見事撃退してくれたのも彼だ。カヲルくん、みなに挨拶をしてもらえるかな?」
カヲルは小さく返事をして、一歩前に進んだ。団長のヒザキを始め、全員が鋭い目付きでカヲルを睨んでいる。ここにいる騎士たちは、全員が数多くの修羅場をくぐり抜けてきた猛者ばかりだった。その瞳には、猛獣にも匹敵する圧力があった。
――こ、こんな人達の中で、ヴェイン隊長は戦ってるのか・・・――
ゴクリと息を飲んだカヲルは、おずおずと一礼した。
「か、カヲル・Tライトニングです。よろしくお願いします。」
この場にいるヴェイン以外の騎士たち全員が、揃って疑問の顔を浮かべた。あどけなささえ残るこの若造が、化け物を一掃した?とでも言いたげな疑いの表情は、当のカヲルにも伝わった。
「みなも知っての通り、襲ってきた化け物たちに、剣や槍といった類の攻撃は通用しなかった。だが、唯一彼の剣だけが、化け物に致命傷を与えることができたことは周知の通り。ヴェインを始め、たくさんの騎士たちが証言をしていることから、間違いないだろう。カヲルくん、君の剣を皆に見せてやってくれ」
はい、と頷いたカヲルは、腰から剣を鞘ごと抜いて、緊張した面持ちで柄を握った。あの化け物を倒して以来、剣は一度も抜いていない。カヲルは、また剣が抜けるかどうかが心配だった。カヲルは決心したように、そっと柄を引いた。
カヲルの不安をよそに、剣は刀身と鞘が擦れる甲高い音を響かせて、すっと抜けてくれた。ほっとしたカヲルは、剣を高々と掲げて、騎士たちに見せた。目を細めて凝視をしてくる騎士の目が、カヲルには少し不気味だった。
国王は、改めてことのあらましを説明した。
事件の全容をすでに知っているヴェインは、国王の話を聞かずに、ほかの騎士たちの表情を伺った。うん、うんと頷いているものがほとんどだが、中には、疑惑の目でカヲルを睨むものも見受けられた。ヴェインは思った。
――カヲルがこの一件の首謀者なのではないかと疑っているな…――
しかし、そう思われるのも仕方のないことだと思った。ふらっと街にやってきた謎の男が、突然街を襲った正体不明の化け物を撃退したなんて、出来すぎた話しにもほどがあるだろう。もし、あの化け物たちがカヲルが寄越したものだとしたら、話の辻褄は合う。名声や信頼を得るために、すべて自作自演で行ったことではないかと、思われているのだ。
――もう少し、様子を探るか・・・――
結果として、カヲルの剣は一時的に騎士団が預かり、詳しく分析を行うことになった。
本部から出てきたカヲルは、大きくため息をついた。
「はぁ・・・疲れちゃったな・・・」
腰が軽い、という、妙な寂しさを感じながら、カヲルは城への帰路についた。
日もそろそろ傾き始め、修復中のアイゼンベルグ城が夕焼け空の光を受けて茜色に輝いている。
カヲルは、それをぼんやりと見上げながら、腹の奥底でくすぶる不安を煽るように、考えを巡らせていた。
――こんなはずではなかった。
この街に来てからというもの、様々なことが目まぐるしく起こった。
セフォネと出会い、気づけば彼女の護衛を任され、その翌日には、謎の化け物が街を襲った。本来ならば、自由気ままに世界を旅していたはずが、今はもう後戻りが出来ないところまで追い込まれてしまった。責任感の強い彼は、一度関わってしまったことから、勝手に逃げ出すようなことはしないし、できない性分だった。先の見えない未来が、底のない深い深い闇となって、自分を飲み込もうとしているような、消えない不安となって、彼に襲いかかるようだった。
だが、中でも一番不可解なことは、カヲルの剣のことだ。見た目はそこらの剣と何ら遜色ない古びた剣だが、騎士の使う剣や槍が一切通用しなかったあの化け物に、あの剣だけは通用した。
――本当に、あの剣は、一体なんなのだろう…――
いつか、カヲルは故郷の母に尋ねたことがある。
あの剣は、なんの為にあるのか。
――あの剣は、あなたのお守りよ。――
母はそう言って、それ以上のことは教えてくれなかった。
カヲルは物心つく前から、あの剣と共に生きてきた。幼いカヲルには、とても持つことの出来ない物だったが、なぜかあの剣には、不思議と愛着があった。次第に柄を握って持てるようになるまで成長すると、外に出ては自然と剣を振るって、その腕を磨くようになっていた。その頃から、剣を鞘から抜くことはできなかったが、腕っぷしを磨くには充分だった。いつもあの剣を手に取るたび、なにか不思議なものを感じてはいたが、昨日の一件で、それはより一層深まった。あの剣には、間違いなく、なにか秘密がある。まるで想像がつかないような、なにかが・・・
気がつくと、いつの間にかカヲルは城にたどり着いていた。
拭いきれない不安を抱えながら、カヲルは城の門をくぐり抜けていった。
――完