霖雨
チャイムが鳴った。僕はベッドから身を起こし、時計の蛍光色の針を見る。午後11時39分。ベッドに潜り込んだのは15分前だ。夜遅くと言ってもいい時間だ。外からは雨の音が微かに聞こえる。雨の音に混じり僕の頭の中からは音が聴こえる。ぶぅぅぅぅんぶぅぅぅぅん、と絶え間無く。頭の中を羽虫が飛び回っているようだ。この音は僕の気だるさが生んだ音なのか、それとも頭の何かしらの異常を示しているのか。何一つ分かることはなかった。またあの間の抜けたチャイムの音が鳴った。僕は無視するか考えあぐねた。夜も遅いし羽虫も飛んでいる。しかし僕はベッドから這い出した。馬鹿馬鹿しい気もしたが、これで僕の静かな夜は消えてしまった訳だ。跳ねた寝癖を直し、羽虫を宥めながら不安定な足取りで僕は玄関へと向かう。独り暮らしの部屋ではベッドから玄関までの移動に大した時間はかからない。それなのに今日はなぜか長い時間を要したように感じた。寝ぼけているのだろうか。そんなことを考えてドアを開いた。雨で湿って陰鬱とした冷たい空気が僕の頬を撫でた。視界に飛び込んできたのは、安っぽい蛍光灯の明かりと、その明かりに照らされたびしょ濡れの幼なじみの姿だった。
「夜遅くにごめん。寝てた?」
僕は混乱する。なんせ彼女がここに来るのは初めてだし(住所は教えていたが)、こんな夜遅くに来客というのも不自然だからだ。
「、、寝てた。どうした。」
「入っていい?」
僕は無言で彼女を部屋に入れた。彼女はスウェット・シャツとスカートという服装をしていた。その服は雨で滴り、哀しげな匂いがした。待ってて、と彼女に言い、部屋からなるべく清潔なタオルを持ってきた。彼女がタオルで体を拭いてる時も僕は無言だった。違和感があったからだ。彼女の髪はぼさぼさで、左手には小さな痣があったように見えた。第一傘も持っていない。彼女はそういった類いの身だしなみはきちんとする人間だったはずだ。不明瞭な頭で理由を探したが、答えは何も出てこない。しばらく見ないうちに彼女自身が変化したのだろうか。朧気に声が聞こえた。
「ねえ、聞いてる?」
「、、何を?」
耳も不明瞭だ。言葉を聞き逃した。
「だから、お風呂貸して。」
僕は更に戸惑った。こんな夜遅くに人の家でシャワー?どう考えてもおかしい。しかし僕の羽虫が飛び回る無能な頭は答えを出さない。
「どうした?何かあったか。」
「いいから、お風呂貸してくれない?あと着替えも。」
僕は仕方なく頷き、彼女に風呂の場所を教えた。彼女が着替えとタオルを片手に風呂場に消えたのを見たあたりで、少しだけ脳味噌が活動し始めた。とりあえず何か飲もうと珈琲を淹れる。淹れたての珈琲を片手に僕はキャスター式の白い椅子に座り、彼女の風呂上がりを待つことにした。何故彼女が夜の10時に家に来たのかはわからないし、それの答えを僕が探しても便宜的な不正解しか出せないことは明らかだった。風呂場から洩れる淡い光を眺めながら胃に珈琲を流し込む。熱い液体が喉を伝う感触が何故か不快に感じた。羽虫はまだ飛んでいる。ぶぅぅん。
椅子に座りまどろんでいると、風呂から彼女が出てきた。僕は服を着た風呂上がりの彼女は少し艶っぽくどきりとした。それでもあの雨の哀しげな匂いは取れていなかった。彼女は何も言わずにベッドに座り、僕の差し出した珈琲を静かに飲んだ。横目で彼女を見る。やはり手には痣があった。それと右の脛にもうひとつ、内出血のような痣が見えた。その痣達はどこか不自然で、自らが意思を持っているようなよそよそしさもあった。
「どうしたの、その痣。」
「痣?」
「その、腕と脛にある痣。」
彼女は黙った。何かに迷っているように見えた。僕は彼女の言葉を待った。何か諦めたような顔をして、彼女は口を開いた。
「私ね、襲われたんだ。男の人に。」
僕はゆっくりと止まった。頭からコンクリートを流されるように感じた。彼女の言葉が雨音と共に頭に反響する。羽虫の音が強くなる。
「それは、、」
やっとの思いで出した声を続けることができなかった。彼女がこっちを見る。その時僕は彼女に感じてた違和感の正体を知った。目が虚ろなのだ。何もない闇い深い、虚構の洞窟のような正気のない目が対になって彼女の顔に張り付いていた。
「気づかなかったの?相変わらず鈍感だなぁ。」
静かに笑う顔は非現実的だった。そして彼女の口から言葉が溢れた。
「散歩を、してたんだ。ただ川のほとりを歩いてたの。そしたらいきなり車から手が伸びてきて、そのまま引きずれ込まれたの。うん。大きな車だった。そのまま車が走って、大人しくしろって言われて、怖くて動けなかった。川の近くかな。そこで止まって、三人くらいに無理矢理された。初めてだった。痛かった。、、、気持ち悪かったし、怖かった。吐きそうだった。ううん、吐いたかも知れない。終わったら私は捨てられたんだ。君の家の近くだった。」
彼女は虚ろな目で、溜め込んだ毒を吐き出すように話していた。噴水のように止めなく溢れた言葉が、壁に吸い込まれていく。僕は動揺していた。そしてその動揺を彼女に隠した。それが情けなかった。襲われた?彼女が?空気が生暖かい泥のようになって行く。それに比例するように僕の心臓が煩くなる。彼女を見る。彼女は僕を見ながら泣いていた。その涙は慟哭ではなく、静かに感情を抜いていくような涙だった。僕はいつか家電量販店のテレビで見た、ダムの放流を思い出した。放流前のダムの底は静謐で物静かな存在感があった。それを膨大な水が覆い隠してしまう映像を、誰の為でもなくテレビは流していた。彼女の場合、水は顔も知らない三人の男だったのだ。彼女は致命的な程に失われてしまった。水が彼女の「彼女」を連れ去ったのだ。ひとしきり泣いたあと、彼女は僕に言った。
「私を抱いて欲しいの。そうしないと私は君も見失うかもしれないから。」
そのの言葉に僕はそれに頷いた。それを断るほどの判断力は僕には残っていなかったし、断る資格も無いように思えた。結局僕らが寝たって何も変わることはない。雨は降るしダムはその雨を受け止め続ける。彼女を抱きながら僕はその事実を何度も噛み締めた。腕の中の彼女は冷たく、脱け殻のような彼女の服の方が人間らしく見えた。頭の羽虫の音は消えていた。深い夜の中で、僕は夜明けを待ち続けた。外では細い涙のような雨がいつまでも、どこまでも降っていた。




