7. 暗転
「ふう。やっと終わった」
ラオウルと別れた後、シノは洗濯物を村の共用の干場に干した。ラオウルが丁寧に絞ってくれたため、今日の洗濯物はいつもより早く乾くだろう。
(さっきは、失礼なことしちゃったな……)
甘酒をついでくれた時の、天狗の優しい顔が脳裏に浮かんだ。洗濯をして、甘酒までくれた相手に不愛想にしてしまった。
(今度会ったら、ちゃんと礼を言おう)
トボトボと家路につきながら、シノは心に決めた。
シノは今でも白鬼のところに通っている。
美しい白鬼には美しい姫が相応しい、私はただの飯炊き女だ、と、心に蓋をしてやり過ごしている。白鬼に気付かれないように、精一杯の笑顔を作って、シノは飯を作った。「美味い」と笑顔を向けられる度、シノの胸は嬉しさと切なさで張り裂けそうになった。
(あれ? 誰か来ている)
家に入ろうとした時、物音に気付き、シノは首を傾げた。
シノの家は、とうてい家と呼べるものではない。昔、馬を飼っていた家の納屋を、薄い板で覆っただけのあばら家だ。布団もなく、古いムシロを何枚か重ねただけの粗末な寝床があるだけだ。
泥棒ではないだろう。
「遅かったな。シノ」
「孫次郎さん!」
家の中で、若い男が一人、炭を温めていた。孫次郎と呼ばれた男は、この納屋の持ち主の家の次男坊だ。
シノの両親が生きていた頃、時々遊んだことがあった。両親が亡くなった後は他の男衆と同じようにシノに辛く当たってきたが、最近になって、急に何かと親切にしてくれるようになった。タロにもご飯をくれることもあり、タロも孫次郎には気を許しているようだった。
だが、今日の孫次郎はとても機嫌が悪そうに見えた。
孫次郎は、険しい表情で顎をしゃくった。
「何をしている。入れよ」
「は、はい」
シノは少し怯えながら、炭の近くに腰を下ろした。
「あの男、誰だよ?」
「え?」
「今朝、一緒に川辺で話をしていた男だよ。……楽しそうにしやがって」
一瞬誰の事だか分からなかったが、ラオウルのことを思い出し、シノは慌てて手を振った。
「あ、あの人は、天狗さまだよ! 鬼を知らないかと聞かれたから、知らないと答えていただけだよ!」
「じゃあ、何で天狗が洗濯していたんだ!? おまけに、何か恵んでもらっていただろう? 代わりに何をやったんだ? 身体でも売ったのか? 卑しい女め!」
「なっ……」
あまりに酷い孫次郎の言葉に、シノは絶句した。
やましいことは何一つしていないのに、ただ見知らぬ男と話をしていただけで、何故そこまで言われなければならないのだろう、と、シノの心に小さな怒りが湧いた。
「私は、何もしていません! 洗濯をしてくださったのは、私が天狗さまに驚いて川に落ちたからだし、身体が冷えていたから甘酒を恵んで下さったんです!」
「お前のうことなど信用できるか! 最近、急に色づきやがって、一体、何人と通じたんだよ!」
突然、孫次郎は激昂すると、シノに覆いかぶさってきた。
「きゃあ! 何ですか!? 放してください!」
シノが嫌がると、孫次郎は「握り飯や服をくれてやっただろう!」と怒鳴った。
確かに、色々と便宜を図って貰ったが、そのことと急に怒り出した原因が、シノにはさっぱり結び付かなかった。
「嫌だ! 何するんですか!」
「うるさい!」
「ひっ!」
ばんっ、と頬を殴られた。孫次郎の手は、そのまま下に降り、シノの帯を掴んだ。
「わん!!」
「タロ!」
「うわっ!」
無理やり着物を剥ごうとした孫次郎に、何処からともなく現れたタロが襲い掛かった。孫次郎の目元に、タロは思い切り牙を突き刺した。
「ぎゃあああああ!」
孫次郎の悲鳴が響き渡る。シノは孫次郎の身体を押しのけると、タロに抱き着いた。
孫次郎は痛みで転げ回っている。炭の入った火鉢を蹴飛ばし、火の粉が飛んだ。
(どうしよう! タロが殺される……!)
孫次郎の傷は深い。人を襲った犬を、男衆が生かしておくとは思えなかった。
「おのれぇ! 犬畜生が! 殺してやる!」
「ひいっ!」
鬼の様な形相で、孫次郎が叫んだ。シノは恐怖で頭が真っ白になり、気が付けば家を飛び出していた。
タロと一緒に山中を走りながら、シノは泣いた。
ようやく生きるのが楽しくなったと思っていた矢先に、あっさり地獄に突き落とされた。
村に戻れば、タロは殺され、シノは死ぬより辛い目にあわされるだろう。
(なんで……)
孫次郎に殴られた頬が痛む。
(なんで……)
村人達に殴られた痛みが蘇る。
(なんで……!)
優しかった父と母の姿が瞼に浮かび、それは白鬼と美姫の仲睦まじい姿に変わった。
(なんで、私だけこんな目に合うの……!?)
シノは言葉にならない声で叫んだ。
狂ったように泣き叫びながら、走って、走って、シノは白鬼の洞窟の近くまで辿り着いた。
(あと……少し……)
そう思った瞬間、シノは気を失った。タロの鳴き声だけが、耳に響いていた。
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