5. シノと天狗
「おい。そこの娘。少し聞きたいことがある」
洞窟で姫と出会ってから、一カ月近く経ったある日の午後、シノが一人で川で洗濯をしていると、後ろから見知らぬ男の声がした。
「はい? 私にご用ですか?」
何気なく振り返ったシノの前に立っていたのは、全身を黒い衣装で包んだ赤い顔の天狗だった。
「ひゃああ! 天狗さま!? ……きゃああ!」
「あ、おい!」
驚きのあまり、シノは後ろ向きで川に落ちた。
弥生(3月)とは言え、川の水は冷たい。シノは一瞬で手足が凍え、水を思い切り吸い込んだ。肺に水が入り、あまりの苦しさにパニックになる。そのシノの身体が、ブワッと一気に引き上げられた。
「しっかりしろ、娘! 水を吐け!」
天狗は腰まで川に浸かり、シノを抱きかかえたあと、陸地まで跳躍した。
シノを陸地に丁寧に降ろすと、背中を叩き水を吐かせた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っは、あ、ああ。死ぬかと思いました!」
肩で息をしながら、シノは何とか言葉を発した。生きていることを実感すると、途端に寒さに襲われた。
「少し待っていろ」
天狗は、ガタガタと歯の根の噛み合わないシノに自分のマントを羽織らせると、近くで薪の代わりになりそうな枯れ枝を集め、一瞬で火をつけた。
「飲むといい。温まる」
「ありがとうございます」
焚火の近くに座り、シノは天狗が差し出した椀に口を付けた。少し飲んで、「ぶほっ」とむせた。
「お酒……!?」
「甘酒だ。それほど強くない。それでも飲んで少しゆっくりしていろ。……洗濯は代わりにやっておく」
「ええええ!? だ、駄目ですよ! 天狗さまに、そんなことをさせられません!」
「構わない。俺は天狗ではなくて、ただの旅人だし、お前に聞きたいことがあるから手伝うだけだ。すぐに終わらすから、じっとしていて欲しい」
天狗は優しい顔になって、懇願するようにシノに言った。
「う……」
どことなく、天狗の顔は白鬼を思い起こさせた。そんな顔で頼み事をされたら、断れないではないか、とシノは大人しくマントに包まったまま甘酒を口に含んだ。
独特の甘みが口に広がる。じわっと、シノの身体が内側から温まってきた。
天狗は「すぐに終わらす」と宣言したとおり、凄まじい手際の良さで、洗濯物の山をあっという間に片づけてしまった。シノがやるより、五倍は速そうだ。
天狗はビショビショの洗濯物を一枚ずつ丁寧に絞って水を切ると、シワを伸ばしながら綺麗に畳んでいく。
「………天狗さま、おっ母みたい」
「天狗じゃないし、おっ母でもない。俺の名は、ラオウルだ」
「らおうる?」
ラオウルは苦笑しながら、洗濯物の束を籠に乗せて木陰に置くと、焚火の近くに座った。川に入ったラオウルもビショビショに濡れていた。
「すみません、私が落ちたから……」
「いや、驚かせたのは俺の方だ。あんな冷たい川に落としてしまって申し訳ないことをした」
「だ、大丈夫ですよ! よく、水をかけられるし……くちゅん!」
「はは。しばらくマントを羽織っていたらいい。それは、暖かいだろう?」
「はい! すごく!」
「フェニックスの羽を織り込んである。軽くて丈夫で、暖かい」
「ふぇ……ふぇに? ふぇにとは何ですか? ら、らお……らおうさま!」
「ラオウルだ……天狗でもいい。フェニックスは火の鳥だ」
「火の鳥? 焼いた鳥はうまいですけど、その鳥は死なないんですか? 不思議な鳥がいるもんですね!」
「……そうだな」
無邪気にコロコロと表情を変えるシノに、ラオウルの頬が緩む。その優しそうな顔に、シノの頬も緩んだ。
最近、白鬼に合うのが気まずくて、洞窟に行っても目を合わさないことが多かった。
(白鬼さまには、姫さまが居る。私は、飯を作るだけ)
そう心に蓋をして、作り笑顔で何とかやり過ごしていた。
そのためか、今日は久しぶりに胸の中が暖かい。
「そう言えば、私に聞きたいこととは何ですか? 天狗さま」
シノが空になった甘酒の椀を足元に置いて、身を乗り出した。ラオウルが甘酒の入った瓢箪を振ると、シノはパッと笑顔になって椀を拾って差し出した。ラオウルは椀に甘酒を注ぎながら、「人を探している」と言った。
「人ですか?」
シノの頭に浮かんだのは、姫だった。未だに時々、シノの村にも姫を探しに人が来ることがあったからだ。
「由々姫さまですか?」
「いや、ミハイという、鬼だ」
「……」
シノの呼吸が止まった。急に、胸が冷えた。ドクドクと心臓が早鐘をうつ。
皆が『血吸い鬼』を探している。『血吸い鬼』が人々を襲い、姫を攫ったと思っているからだ。だが、誰も『血吸い鬼』の正体を知らないはずだった。
なのに、目の前の天狗は白鬼の正体を知っている。
「……探して、どうなさるんですか?」
動揺を、甘酒を飲むふりで誤魔化そうとするが、冷えた指先が震えてガチガチと椀が歯に当たる。そんなシノに気付かぬ様子で、天狗は濡れたブーツを脱ぐのに必死になっている。
「あいつは仲間の仇だ。見つけ出し、殺す。この国の者も、かなり殺されたと聞く。俺が鬼退治をしてやる。居場所を知っているなら、教えてくれないか?」
ようやく両足とも靴を脱いで、ラオウルはシノの顔を見た。
シノは雪の様に白い顔をしている。シノは椀を置いて立ち上がると、マントを脱いでラオウルに差し出した。
「……そんな人は、知りません!」
シノは声を絞り出すと、洗濯籠を抱えてバタバタと逃げる様にその場を立ち去った。
が、シノは村に向かって走りながら、ふと足を止め、ラオウルに振り返って「甘酒ごちそうさまでした!」と言って頭を下げた。くるりと背を向け、しばらく進んでまた振り返り「洗濯物、ありがとうございました!」と再び頭を下げた。
(いい娘だ)
ラオウルは何も言わず、ただ笑って手を振った。
この十日ほど、ラオウルは、この辺りの村々で「血を吸われた仏が出る」と聞き、あちこち捜索しながら旅をしていた。
そして、今日、シノを見つけたのだ。
シノからは、ほんのわずかではあるが、死体が出たという場所で嗅いだものと同じ匂いがした。
震えながら嘘をつく姿に、
(あの娘は、ミハイを知っている。知っていて、庇おうとしている)
と、ラオウルは確信した。
ラオウルからみて、シノは13~14歳くらいに見えた。細身ではあるが、細すぎず、大きな目が美しい可愛らしい少女だった。男が一人、少し離れた木陰から様子を覗いていたことからも、村でもそれなりに目立つ娘なのであろう。
幸せそうに甘酒を飲む姿に、ラオウルは死んだ妹の姿を重ね合わせた。
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