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その肩は私の指定席になりました

作者: 丹羽 庭子




 たたん、たたん……

 たたん、たたん……

 電車の規則正しい振動が心地よく、私を眠りの世界へ誘った。



 定時から、ぐるりと一周長針が回って、ようやく仕事を片付けた。今日はやたらとパソコンでの打ち込み作業が多く、頭の奥に鈍い痛みが走る。

 けだるい体でノロノロと帰り支度を整え、駅へと向かった。

 いつもの景色、いつもの道程、いつもの――

 代わり映えのしない毎日は、安心でもあるけど退屈だ。

 けしてドラマティックな人生を歩みたいわけではないけど、時折ふとこれからの人生このまま何事もなく終わるのかな、と妙な焦燥感に駆られるのだ。

 改札を抜け、いつものホームに立ち、いつもの車両、いつもの席に座る。考え事をしながらでも、体はいつもの流れを覚えていた。

 考えてもしようのない事をつらつらと思い描くうち、思考に紗が掛かり、ゆっくりと沈んでいく。


 それからどれくらい経っただろうか。車内アナウンスが、私の降りる駅の一つ前を読み上げる。聞きなれたその単語を私の耳が拾い上げ、アラーム機能を発揮した。

 ナイス、いい感じの所で目が覚めたわ。

 直前では体がすぐ反応できず、目の前で扉が閉まり隣の駅までさよーなら! といったことが何度かあるので、このひとつ前の駅の名前をいつも声に出して確認し、起きる駅だと刷り込ませた成果ともいえる。

 ――あれ?

 まってまって。

 寝ていたのはわかるけど、まってまって。

 私……どうして隣に寄りかかっているの??

 さあっと血の気が引き、代わりに心臓が激しく踊りだした。

 がばりと身を起こした私は姿勢を正し、迷惑をかけた相手に思い切り低く頭を下げる。

「あの、す、すみません!」

 平謝りする私の上から、「いえ、大丈夫ですよ」と、低く耳障りのいい声が降ってきた。怒っている感情はそこに含まれていない。

 ゆっくり顔を上げると、私の視線の先には丸太のようなガッシリとした足が見える。そのまま体を起こすと、目の前にクマのような巨体に、人当たりのいい優しい表情を浮かべた男性がいた。

「つい寝てしまって……ご迷惑お掛けしてすみません!」

「俺は大丈夫ですよ。お疲れなんですね」

 優しいフォローに泣けてくる。

 スポーツでもやっているのか、かなりの偉丈夫で、私の重みなど屁でもないかもしれない。赤の他人に対してこんなにも心が広いのは、もしかして神なのか仏なのか。

「うう……本当に失礼を……あっ!」

 非礼を重ねて詫びる私の目に飛び込んできたのは、彼の肩についた汚れだ。そのネイビーのスーツの肩付近には、うっすらとではあるけれどファンデーションがついてしまっている。明らかに私がやらかした証拠だ。

「うわわ、すみません! あの、クリーニング代を……!」

 慌てて自分のバッグを漁って財布を取り出すと、彼はそれを手で遮ってきた。

「気にしないでください」

「私が気にします!」

 電車が止まり、プシューッという空気の音とともに、扉が開いた。目的の駅の乗客たちが、次々と流れに乗って降りていく。

「おっと、俺はこの駅なんで。それでは」

 そう言い残し、彼は私が何か言うより早く扉の向こうへと消えてしまった。

 

 * * *


 昨日は散々だった。

 醜態を晒しただけでなく、クリーニング代を受け取ってもらえなかったのだ。迷惑掛けた相手の名前すら聞き出せなかった自分を殴りつけたい。

 お陰で今日の仕事はずっと上の空で、いつの間にか定時を迎えていた。体が勝手にいつもの動きをする事に、このときばかりは感謝をする。

 むしろ手際が良かったのか、残りの作業もなくすんなりと退社できてしまった。なんかすっきりしない気持ちを持ちながら、会社を後にする。

 ……またあの彼に会えるかな。

 巨漢で、スーツで、というのは覚えているけれど、頭の中が真っ白になっていたから、クマのような優しそうな、と顔の印象について、あやふやな記憶しかないのだ。

 会って、きちんとお詫びして、今度こそクリーニング代を受け取ってもらいたい。

 ……けれど。

 やらかした自分を、どこかへ隠してしまいたくもあった。大勢が行き交う電車で、たまたま隣り合わせた偶然というのは、そうそうあるものではない。

 ――彼も、気にしなくていいと言ったではないか。

 逃げたい気持ちと責任感が、シーソーのように揺れ動く。

 そんなずるい心を持ったせいか、ホームへ滑り込んできた電車で、無意識にいつもと違う車両の、いつもと違うシートに腰掛けた。

「あっ」

 突然、驚いたような声が上がり、そちらに顔を向けると……

「えっ」

 隣はまさかの彼だった。

 心の準備一つなくエンカウントしてしまい、かといって逃げ出すわけにも行かず、浮きかけた腰を静かに落とした。

「き……昨日はすみませんでした!」

 絞り出した謝罪の言葉は、かろうじて残っていた理性から出てきた。

「あの時お渡しできなかったのですが、これを」

 バッグから取り出したのは、ポチ袋だ。いつ会ってもいいようにクリーニング代を入れておいた。

 まさかこんなすぐに会えるなんて思っていなかったけれど、準備しておいて良かったと、胸をなでおろす。

「いや、本当に気にしないでください」

 そう断る彼だが、昨日着ていたネイビーのスーツではなく、チャコールグレーのスーツだ。体格のいい彼だから既製品ではなさそうで、シャークスキンの生地が趣味の良さを伺わせる。

「それに……あー、気を悪くされてしまうかもですが、白状します」

「は、はい」

「俺、わざと起こさなかったんです」

 彼は気まずそうに天井を見上げた。

「頼られてるみたいで、しかもこんな綺麗な人に肩を貸せるなんて役得だなーって……あああすいませんホント! 下心過ぎますよね!」

 耳を赤くして弁明する彼が可笑しくて、思わず吹き出してしまった。

「そんな! 私なんて、また会うの気まずくて避けちゃおうかななんて思ってたんですよ? ……って、いま本人の目の前で言っちゃいましたけど」

「でも、また会いましたね」

「まさか、ですね」

 お互い気まずいはずが、まさかまた隣り合わせるという偶然に、自然と笑いあう。

 そのとき、私の心臓がどきんと大きく高鳴った。

 ――ちょ、反則でしょ!?

 今更ながら、彼の顔と相対した私は、動揺を隠せない。破顔した彼は、スポーツマンらしく荒削りだけど整った容貌をしていた。それこそ雑誌の表紙を飾ってもおかしくないほどの精悍な顔立ちに、妙に落ち着かなくなる。

 気持ちが乱れながらも、とにかく受け取って欲しいと手に持ったままのポチ袋を押し付けると、彼は「それなら」と、ほんの少しこちらに体を向き直す。

「俺の姿を見ても、逃げないって約束してくれたら、受け取ります」

 私が逃げようと思っていたのを逆手に取られ、この出会いが今回だけにならない、未来の約束をすることになった。

 茶目っ気たっぷりに笑顔を向けられ、さすがの私も平静を装えなくなってしまう。

「も、も、もちろんです! また肩を貸してください!」

「おまかせください」

 そして、一言二言とりとめのない話を交わし、彼は昨日と同じ駅へ降りていった。


 * * *


 それから、私の日常は一変する。

 いつもの車両、いつもの席で彼に会えた日は景色が鮮やかに彩られ、会えない日は胸が焦がれ、一日に何度も会えたときの会話を思い返す。

 会話は様々だ。

 彼は大学時代とあるスポーツをやっていた。

 怪我が原因で選手にはなれなかった。

 いまはスポーツ関連の会社で働いている。

 駅から徒歩十五分のアパートに暮らしている。

 年齢は私の三つ上。

 それから、それから――

 平凡な日常からの一変。

 朝起きて、会えるかもしれないからと身支度をきちんと整え、仕事もキッチリこなし、帰宅の時間に備える。

 会えなければ次の日を待ち遠しく思い、知り得た彼の情報を反芻しながら寝た。

 ――世界はこんなにも刺激的だ。

 でも、足りない。

 もっと、欲しい。

 欲張りになっていく自分に引きつつも、でも止められないこの気持ちに名前をつけるなら……?


 * * *


「お疲れ様」

「あっ、こんばんは!」

 大きな体を小さく縮めながら、私の隣に座った彼は、走ってきたのか少しだけ息が上がっていた。

「はー、良かった! 間に合ったよ」

 屈託なく笑うその笑顔、ズルい。

「お疲れ様です!」

 私も負けないように笑い返す。

「お仕事、最近落ち着いているんですか?」

 以前の会話の中で、繁忙期は日付を跨ぐこともあると言っていたのに、私の退社と同じような時間に会えるので、不思議だなと感じていた。

 すると彼は一瞬目を宙に泳がせ、「仕事がいま一段落しているから」と答えた。

 仕事に明け暮れるのもいいけど、それは若いうちだけだし、休めるときに休んだほうがいいに決まっている。彼の体調を気遣いながらも、最近ずっと考えていたことに決着をつけようと、気持ちを固めた。

「もう着いたか。それじゃまた」

 彼の最寄り駅に電車はゆっくりと止まる。いつものように扉が開いて、いつものように彼は電車を降りて――

「あれ、どうしたの?」

「私も降りちゃいました」

 彼に続いて、私も扉の外へひょいと飛んだ。

 ホームへ降りてすぐに、電車は次の駅へと走り出し、乗客たちの大きな川の流れは、改札へと消えていく。ホームに残った私達を見下ろすのは、黒い夜空とぽっかりと浮かぶ月だけだ。

「どうしてもお聞きしたいことがありまして」

 私の中の小さな勇気をかき集め、思い切って彼の前に一歩足を踏み出した。すうっと吸い込んだ空気は肺いっぱいになって、私の気持ちに勢いをつける。

「あの……私は、独身です!」

 きょとん、と彼の目は戸惑いを見せた。

「あと、彼氏もいません!」

「えっ、ええと……」

「自分のこと、きちんとお話しようと思いまして。あと、つまり、その……」

 どうしよう、切り出し方間違ったかな?

 初手から失敗したと内心焦っていたら、彼は私の言わんとしたことに勘付いたようで、クスリと頬を緩めた。

「俺も」

 私と彼の距離は、三歩分。さっき私が一歩縮めたから、二歩分。そこを彼が一歩詰めた。

「俺も、独身で、彼女もいない」

「えっ、モテそうなのに」

 つい出てしまった心の声に、彼は溜息をこぼす。

「……ちゃんと好かれたいし、好きでいたいんだ」

 こんなに格好いい人だからこそ、もしかしてあまりいい思い出がなかったのかも? ……と、勝手に想像する。

「私の勝手なお願いがあるんですけど、聞いてくれますか」

 こくん、と喉を鳴らし、意を決して彼へ顔を向ける。緊張で手にちょっと汗をかいてきた。

 私の気合いを感じ取ったのか、彼は頷き、しかし「ちょっとまって」と私を制した。

「先に俺の勝手なお願い聞いてくれたら、聞く」

「ええ、そんなぁ」

 緊張もピークに達したというのに、先延ばしされてしまった。返事の内容はともかく、早く緊張を解いて楽になりたいのに……。とはいえ、聞かないと聞いてもらえないから、渋々先を譲る。

「ええと……閑散期ってのは嘘。ごめん」

 まさかの嘘発言に、ハッと顔を上げると、真っ直ぐに私を見つめる彼と目が合った。

「嘘……? どうして」

「――君に逢いたくて」


 息が、心臓が、世界が、止まった。


「仕事、職場に無理いって早く上がらせてもらってた。少しでも逢いたくて、この時間へ間に合うように。だって……」

 彼が、半歩私に近づいた。

「一目惚れです。俺はあなたの事が好きです。お付き合いして――くれませんか?」

 偉丈夫が体を小さく丸めて私に頭を下げた。

 ああ、心臓が止まってしまいそうだよ!

「じゃあ、私のお願いの番です」

 彼への返事を先延ばしにして、私の口は、言葉を紡ぐ。

「あなたのお名前教えてください」

 パッと顔を上げた彼の、なんとも不思議な表情を見て、プッと吹き出してしまった。

「私、彼氏は名前で呼びたいの」

 残った半歩は、どちらが踏み出したかなんて、もはやどうでもいいことだ。


 

 夜空の星は、きらきらと光っていた。






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