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アオトハル ~神社にて~

作者: 日向ラエ

いまいち受験勉強に身が入らない楽天家の栗原蒼汰と、猛然と勉強する毒舌な幼馴染、岡島波瑠が「青春の谷間」で織りなすくだらない雑談には、少しの『謎』と『青春』があった―――――。

喋るだけの日常の謎ミステリ。

 

   1話 神社にて


 今年で創建一〇〇〇年だという綱締神社は、俺の家と高校の間にひっそりと建っている。

 あまり大きいとは言えないが、神社としての威厳は十分に保てるレベルの敷地の中には朱色の大きな鳥居が一つ。同じ色の本殿が一つ。そして何の神様が祀られているのかよく分からない小さな社が二つほど。駐車場と社務所と小さな蔵が一つ。―――――あと他にあるものと言ったら、敷地を覆う背の高い木々たちくらいだろうか。この木々たちのおかげでこの神社はいつも日陰で涼しく、裏を返せば陰気だ。だが、神社なんて大概が陰気なもの。要するに綱締神社はどこにでもある平凡な神社である。

 しかし綱締神社の宮司さんは、その平凡をよしとしなかったようだった。もしかしたら、最近他の神社が集客のために繰り出しているユニークで地域性豊かなアプローチ(おみくじに三種類の凶を入れる、黄金の鳥居を建てる、絵馬の形がハート型などなど)を目の当たりにして危機感を感じたのかもしれない。もしくは集客の先にある『ヒルナンデス出演』のブランドに目がくらんだのか――――――真相は定かではないが、つい先日、綱締神社もついに奇策を繰り出したのである。数週間のプチ工事を経て、綱締神社にも新たな建造物が―――――それもなんと、かの有名な菅原道真の銅像が建てられた。

 休憩用のベンチの前に設置された道真像はほぼ等身大で、身長が173センチある俺の腰くらいの高さの台にあぐらをかいて座っていた。その全身は真っ黒で、質感はテカテカ。『ザ・貴族』な服に身を包んで鎮座するその姿は、実に偉そうだ。

―――――というか、なぜに道真。

 いままで道真臭なんて全く匂わせていなかったこの神社に突然出現した初老のおじさんに、俺は戸惑った。そしてそれは、他の参拝者にとっても同じことだったようである。

数日後、クレームの後処理のようなタイミングで綱締神社と道真公の関係を説く看板が立てられて、ひとまず謎は解き明かされた。

神社側の釈明―――――失礼、説明によると、どうもこの地域は太宰府に左遷となった道真公が休憩に立ち寄った場所だったらしい。その時に地元の漁師が道真をもてなすために、綱を締めて作った円座を出してそこに道真を座らせた。そして道真の没後、その円座を祀るために建てられたというのが、綱締神社の起源だそうだ。

 果たしてこのエピソードが本当にここであったものなのか、それとも集客を求める神社側が徹夜でひねり出した虚構なのか。そしてもし本当にあった話だったなら、なぜ今までその情報を開示してこなかったのか―――――などと、結果的に一つの謎が解けたことで、さらに謎が増えてしまったが、正直そんな謎はどうでもいい。どうであったにしろ、突然テカテカのブロンズ公が現れたところで、こんな辺鄙な神社に人が押し寄せてくるわけもない。結局のところこの神社は、地元民に程良く愛された普通の神社だ。

 塾までの暇つぶしをしたいがために俺の誘いについてきた波瑠の反応も、おおよそそんなものだった。

「涼しいわね」

 そう言って波瑠は、道真公の前に置かれたベンチに投げ捨てるようにカバンを置く。

そして改めて周囲を見渡した。

「ま、虫が多そうだけど」

「自然が多いからな」

「ね。でもまぁ、蚊の季節は越えたし大丈夫か」

 季節は秋、紅葉色づくオクトーバーである。すでに合服では肌寒くなってきた今日この頃、たしかに蚊はほとんどいない。だが一方で、道なんかに毛虫がうねうねしていても文句が言えない季節だ。安全の保障は出来かねる。さらに残念ながら、綱締神社には紅葉するような木がない。よっていくら季節がオクトーバーでも、神社は緑がフォーエバー、というわけだ。

 それでも連れてきたからにはできるだけいいイメージを持ってもらいたいもの。俺は少し考えて言った。

「夜は道沿いの提灯に火がついて結構きれいだぜ」

「ふーん。トイレは?」

「そこら辺でしたらいいじゃん」

「おっけー。じゃああんたはそこら辺で死んでろ」

 あまりにも切れ味が良すぎである。思わず俺が言葉を失っていると、幼なじみはつまらなそうに鼻を鳴らした。

 岡島波瑠―――――こいつの口から一切ためらうことなく放たれる暴言を、俺は小学四年生くらいから受け続けている。つまり、こいつといる時間の半分以上の年月を俺は蔑まれて生きているということだ。初めて殺害予告を受けたときは、さすがの俺も心配した―――――こいつまさか、女子にも言ってねぇだろうな、と。

 もちろん波瑠はクラスの女子を敵に回すようなバカなことは一度もしなかった。スクールカーストには深く関わらないし、決して取っつきやすくもない。だがそれでも誰からも嫌われず、誰とでも程々に仲がいい―――――こいつの女子社会でのポジションニングは完璧だ。

やはりかっこいい女子っていうのは同性に好かれやすいのだろう。波瑠の鋭い強さが宿る猫系の大きな目とボーイッシュな髪型は、字も同じ名前の女優と少し似ている。

 ちなみに俺の高校生活はというと、自分で言うのもなんだが結構リア充している方だと思う。別に顔もそこそこで、ジャニーズの試験に合格できるようなルックスは持ち合わせていないが、少々の運動神経とノリの良さとチャラささえあれば、簡単に『上の方』と見なされる。実のところを言えば、もう男子にスクールカーストなんてものはないに等しいのだが、この場合は女子から見ての判定だ。だから確かな確証があるわけではない。でも、たぶん合ってる。じゃないと、女子の中でも『上の方』の美嘉が俺の彼女になんてならない。

 去年の一月―――――つまり修学旅行前後のふわふわムードに背中を押されて付き合い始めた俺の彼女である矢沢美嘉は、まだ部活に残っている。受験勉強を理由に選手権を前にバレーボール部を引退した波瑠や、そもそも総体以降三年生が部に残る風習がなかったテニス部の俺とは違って、来週の駅伝の県大会が終わるまで彼女は陸上部のマネージャーだ。きっと今も、あのマネージャー特有の部員との危ない距離感で雑談に花を咲かせながら、水でも汲んでいるに違いない。普通なら家着にするような、ぺらぺらによれたTシャツで・・・・。

「し、嫉妬なんてしてねーし!」

「は?急にどうしたのよ」

 俺が苦悶する姿をしらけきった目で見ながら、波瑠は短く「バカか」と吐き捨てた。このように俺にとって彼女は、腐れ縁の幼なじみであるのと同時に、言葉というものはたった二~三文字であっても、組み合わせによっては様々な暴言にできるということを教えてくれた恩師でもあるのだ。

 心の中でわが師の恩を仰いでいると「てかさー」という少しハスキーな声で俺は現実に引き戻された。

「休憩したくらいで祀られるって、私らはともかく本人はどう思ってるのかねー」

 波瑠は、ちょうど自分の目の前の高さにある道真公の顔をにらみつけていた。

「私なら、絶対イヤ」

「そうか?ありがたい話だと思うけどな。それで後世に名を残せるんだったら」

「あんた二百年後とかに『栗原蒼太が塾の帰りに休憩したサイゼリア跡』みたいな石碑が駅前に建ってたら何かイヤでしょ。『金がなかった彼は毎回ミラノ風ドリアを召し上がった』みたいな立て看板付きで」

 波瑠は真顔でさらっと言う。こんな風に、冗談でさえ冷めた目でぴくりとも笑わずに言う氷柱のような幼なじみと、ピカチュウばりに愛くるしい自分の彼女が、やたらと仲がいいなんてやっぱり女子は不思議だ。まぁ波瑠が美嘉との仲を取り持ってくれたおかげで俺は彼女を『彼女』にできたのだから、何も言うことはないのだが。それにしても、一体どんな接点があって仲良くなれたのだろうか。突如現れた道真公ばりに謎である。

「・・・・それは極端過ぎるだろ」

「でもやってることは一緒じゃないの」

「それはものによるだろ。波瑠だって『夜のドライブデートの帰り路に、岡島波瑠が一時間二千五百円でご休憩したホテル跡』とかで銅像が二号線沿いにたったらイヤだろ。『金があっても彼女は毎回ホテル代を彼氏に貢がせた』みたいな立て看板付きで」

「くっだらない」

 波瑠は本当にくだらなそうに鼻を鳴らした。

「行くなら国道沿いだし」

「・・・・」

 こんな爆弾を平気な顔で暴露する幼なじみが、三歳年上の彼氏と二年も付き合ってるのもかなりの謎だ。それはもう、道真公なんてかすむほどに。それこそ接点もそうだが、そもそも恋愛をしている波瑠なんていうもの自体まったくイメージできない。

 いや、よく考えたらイメージできないのは当然のことだった。なぜならこいつは、自分の彼氏の話を全く俺に漏らしてくれないのである。俺なんて、美嘉と初めって行ったデートでどこに行ってどこの店でお昼を食べて何を頼んだのかさえ知られてるというのに、こいつは馴れ初めはおろか彼氏の写真すら見せてくれない。全くもって不公平である。

 もしかしたら彼氏の存在自体が波瑠の巧妙な嘘なのでは―――――という仮説を俺は一年前くらいから温めているが、口が裂けても言えない。言ったが最後―――――いや最期だ。

 波瑠は道真に喧嘩を売るのをやめて、かったるそうにベンチに腰を下ろした。

「あー、疲れた。ほんとーに疲れた。マジでめんどくさい」

「彼氏?」

 別に文脈的におかしくない質問のつもりだったが、波瑠はギロリと目をむいた。

「違う、学校よ。何であんな授業のためにわざわざ半日もつぶさないといけないのよ。ほんっと時間の無駄」

 自習室に籠もった方がどれだけいいかと嘆く波瑠は、全国でも名が知れた難関私立大を目指している―――――らしい。この前、美嘉から聞いた。波瑠は、そういう話も俺にはしない。

 一方、こいつと違ってこの辺でもそこそこというレベルの私大を狙う俺には、正直波瑠のような勉強に対するアグレッシブルさも、浪人への危機感もいまいち欠けていると思う。十月になった今でも普通に授業中に寝るし、昼休みも食堂で騒いでるし、月に二回はカラオケに行っている。もしもこの調子で本番に行けば、先生たちがよく言っているように『あのときもっとやっていれば・・・・』と数ヶ月後に今の自分を呪うことになるのかもしれない。

だが俺は思うのだ。どれだけ勉強していた奴でもそう思うのなら、やっていたはずなのにと嘆くよりは、実際やってなかったしなと開き直れる方が、楽しい生き方なんじゃないかと。これも言ったら最期、波瑠だけでなく全国の受験生に殺されそうな話である。だが―――――。

むしろ俺は、目の前に迫った『終わり』を皆があっけないくらいにスルーして、遠くの『始まり』ばかりを見ていることの方が寂しいし、なんだか怖い。

「波瑠さん、やっぱり友達少ないんすねー」

「うるさいわね。今はターゲットが友達なのよ」

 波瑠は舌打ちをしながら、青色の表紙の英単語帳を手でかざす。そういえばこの単語帳と連動したスマホアプリの名前が『ターゲットの友』だった。

たいしておもしろくもなかったので適当に無視したところ、思いっきり太股にローキックを入れられた。

「痛っ!・・・・おまえ、そういうところだぞ?」

「黙れ。こっちは度重なる模試でストレスたまってんのよ。だから余計なこと喋るな」

 ―――――黙って無視した結果蹴りを入れられて黙れと言われた。

 どうやら波瑠は、心を鬼にして現代社会の理不尽さを伝えてくれているらしい。そしてそれに対して下手に反抗しない俺はある意味社会人の鏡だ。

 俺は降参の意味も込めて話をかえることにした。

「波瑠は学校の何がそんなにイヤなんだよ」

「学校で勉強するよりも、自分で勉強した方が絶対に効率がいいから」

 即答して、なおも俺がしっくりきていないのを見て取ったのか、波瑠はすぐに聞き返してきた。

「逆にさ、あんたはイヤじゃないの?明日なんてわざわざ七限も使って全校集会すんのよ?」

「――――あぁ、それはイヤだわ」

 七限の全校集会と聞いて、俺も波瑠の言わんとしていることに思い当たった。

「あれだな、坂上だろ」

「そう、坂上。あいつに一番腹が立つのよ」

 波瑠が、友達であるターゲットを思いっきりねじってしまうほど嫌う坂上とは、うちの学校の生活指導部長の坂上清二教諭のことである。年は見たところ五〇前半くらいかそれ以上か。メタルフレームの細い眼鏡に、ガマガエルを少しだけしゅっとさせたような顔で、集会の締めに登壇する彼の人気はゼロに等しい。坂上にかかればラスト五分だったはずの残り時間は、ラスト十分にでも二十分にでもなるのである。彼が自前のバインダーに書かれた近所からのクレームやら部室棟の使い方やらをだらだらと朗読するのを、俺たち生徒は腰の痛みに耐えながら必死に聞き流す。それこそ銅像にでもなったように動きも感情も消し去って、ただただ聞き流す。そして長く不毛な拷問から解放された瞬間、一斉に愚痴を吐き出すのだ。

 ちょうど今の波瑠のように。

「話は長いのはもうどうしようもないんだろうけどさ、もうちょっとちゃんと喋れよって言いたいわよね。あいつ『最後に――――』って六回くらい言うのよ?『最も後ろ』がなんで六回も回ってくるのよ!」

「もう真面目に聞いたら負けだろ」

「聞きたくなくても耳に入ってくるのよ。ていうか、なんであれだけキャリアがあるってのに喋りがあんなに下手くそなのよ。私でももうちょっと上手く喋れるわよ?」

「もう波瑠が言ってやってよ。集会中に急に立って」

「早退したらいいのよ。それか学校自体休んじゃうか」

「名案だな」

 頷いて、でもどうせしないんだろうなーと、俺は波瑠のニヒルな笑顔を見る。別にそれは、波瑠にそんなことをする度胸がないとか、そういう話じゃない。

波瑠は、何やかんや言って優しい。とても優しい。これだけ怒り狂いながらも、話を聞き流さずに坂上の『最後に』を数えているのがその証拠だ。たぶん明日もいつも通り予鈴ぎりぎりに登校してきて、しっかりと集会の列に並んでいる。そして苛立ちを燃やす瞳で坂上を睨みながらも、話はちゃんと聞いているだろう。それが誰に対する優しさなのかは分からないが、波瑠は強くて優しい。

「――――カバみたいだな」

「はぁ?何の話よバカ」

「お、上手いっ!」

 せっかく反応してやったのに、波瑠はちらりともこっちを見なかった。

 しばらく無言の時間が続いたが、急に思い出したかのように波瑠がターゲットから顔を上げた。

「――――あ、そういえば美嘉が」

「ほう!」

「速っ・・・・美嘉大好きか」

 なぜか鼻で笑われる。別にいいだろ、俺の彼女なんだから。大好きで何が悪い。俺はうざがられるのも覚悟の上で、波瑠にすがりよった。

「で、なになになに。美嘉がなんだって?」

「あぁもぉ、暑苦しいわね。別に大したことじゃないわよ?」

「だーもう、大したことかはこっちが判断するからさっさと言えよー」

「――――――」

「すいません。調子乗りました。教えてください」

 無言の殺意に俺は秒速で屈した。

 波瑠は不服そうではあったが、ちゃんと教えてくれた。

「あの子が引退したら、二人とも塾がない日は一緒に帰ろうってあんたに誘われたっていうのを、美嘉から聞いたってだけよ」

「おう、言った。で、向こうは?」

「向こう?」

 波瑠はオウムのように聞き返す。

「美嘉だよ。喜んでた?」

「・・・・あぁ、そういうこと。うん、嬉しそうだったわよ」

 おっしゃー!と腕を突き上げながら、また波瑠の優しさが出たなと俺は気づいていた。返事が来る前の微妙な間からして、嫌がってはないにしろ美嘉にはそこまでの反応はなかったようだ。美嘉の志望校は国公立大。その上部活を今まで続けてきているわけだから、ここから勉強にもギアを入れたいこの時期のこの誘いは、正直迷惑だったかもしれない。

「大丈夫よ」

 そんなことを思っていたら、唐突に励まされた。

「本当に喜んでた。だってあんたがそれ言ったの今日の朝でしょ?私がそれ聞いたの二限目の休み時間だからね」

 俺が黙っていると、波瑠は思いっきり顔をしかめてみせた。

「クソ羨ましい」

「波瑠さん・・・・」

 ―――――やっぱり彼氏とうまくいってないんすか、と続けたら「死ねっ」とターゲットが額に飛んできた。躊躇なく顔面を狙う度胸と、じんじんする額の痛みが、やっぱり波瑠は強くもあるということを再確認させてくれる。

「あんたさ、なんでも彼氏に持っていこうとするわよね」

「へへ、思春期なもんで」

 正直、さっきの話の真偽は分からない。もしかしたら美嘉はたまたま二限目の休み時間に波瑠と遭遇して、特に感情もなく口にしただけなのかもしれない。でも、この際それはどっちでもいい。とりあえず今分かるのは、渋い顔を作って『クソ羨ましい』と悪態をついてくれる幼なじみの、カバみたいな強さと優しさだけだ。

「ていうか波瑠さん、友達に友達を投げちゃだめでしょ」

「別にあんたは友達じゃないでしょ」

俺が絶句しているのもどこ吹く風で、波瑠はベンチの背もたれに体重を預けて空を仰いだ。

「それに投げたくもなるわ。いいなー、青春だなぁ。私が塾の自習室でやたら折れるシャー芯にいらいらしてる時に、あんたたちは夕日をバックにいちゃいちゃしてるんでしょ?手とかつないだりして」

 そして波瑠は背筋が凍るような作り笑顔で一言。「落ちろ、お前だけ」

「―――――お、お前、この時期に一番言っちゃいけないことを・・・・ていうか、シャー芯にまでいらいらしてんのかよ。大丈夫か?」

 本気で心配してやったのに、波瑠はこれをもスルーした。ブンデスリーガでもそんなにスルーしねぇぞ―――――と、そのしらけきった横顔に言いたかったが、やめておく。サッカーに興味のない波瑠にそんなことを言っても、二本目のスルーを決められるだけである。

 そのかわりに、俺は話を少しかえることにした。

「なぁ波瑠よ」

「んー?」

「実はちょっとお前に相談したいことがあるんだけど」

 波瑠はこのパスもスルーして、こっちを向きもしてくれない。だが、さっきとは違ってその横顔が先を促していた。

「その・・・・一緒に帰るときなんだけどさ、息抜きがてらに、今日みたいにどっかでだべりたいなぁと、思ってんだよ」

「へぇー。全国の受験生に謝ってからにしなさいよ」

 波瑠は興味を持つ気すら起きないという様子で吐き捨てた。

「・・・・そ、それはまたあとでするから。ただそんなことより、その時にさ」

「うん」

「さっきお前が言ったみたいに・・・・そのー、ちょっとだけ、いちゃつきたいなーと、思ってるわけですよ。癒しとして」

「勝手にどうぞ。宣戦布告は受け取ったわ。後ろから刺されないようにね、私に」

 いやだから、お前も彼氏持ちじゃねえか―――――と言いたいところだが、今日の波瑠に彼氏ネタはタブーっぽい。たぶん使えてもあと一回。その一回はうっかり口を滑らしたときにとって置かなくては。

 それに今の俺にはそんな余裕はない。

 俺は慎重に言葉を選びながら、相談の核に近づいていった。

「そんでさ、波瑠」

「うん」

「その時にさ」

「うん」

「―――――キスしたいんだよね」

「へぇ」

「・・・・」

 かなり勇気を出した告白だった。その証拠に、体の内側がめちゃくちゃ熱い。たぶん、顔も赤い。だが波瑠の反応は俺の予想とは全く違って、とてつもなく薄かった。「そ、そんなもんすか?」

「そんなもんっす。―――――え、何?私とキスしたいの?」

「まさか」

 本気で背筋が凍った。

「美嘉とだよ」

「だったら何の問題もないじゃない。キスくらい。―――――あ、まさか」

 不意に動きを止めて、波瑠がターゲットから顔を上げる。そして背中に冷や汗流れる俺の心を全て見透かしたかのように、にんまりと笑った。

「あんた、まだしたことないの?」

「なっ―――――」

 体と心が大きくぐらついた。

「うわー、そうだったんだぁ。そういえばそんな話美嘉から聞いてなかったわねぇ」

「お、お前さぁ。何というか、その・・・・男のプライドというか、心の機微というか―――――なんかそういうのを察してさぁ」

「ごめん、あんたが意外と度胸も余裕もないことすっかり忘れてたわ―――――でもさすがにキスくらいはできると思ってたんだけどなー」

 男のプライド、心の機微、ぜーんぶ崩壊。

 核心を突かれるどころか、えぐり取られてしまった。前言撤回だ。波瑠はぜんぜん優しくない。

 波瑠は打ちひしがれる俺を横目に、鼻歌でも歌い出しそうなテンションで鞄を漁り始める。どうやったらそんな風に、人の不幸を楽しめるのだろうか。ランチパックなんて取り出して、幸せいっぱいか。

 勝者の笑みを浮かべながら波瑠はランチパックの封を切った。

「まぁキスくらいしちゃっていいんじゃない?あんたら付き合いだして結構経つし。―――――ま、する度胸があればの話だけど!」

「九ヶ月くらい―――――そんで、度胸はある」

「じゃあ申し分ないじゃないの」

 波瑠はつまらなそうにあしらった。

「てかキスなんて、遅くても付き合い始めてから半年以内には終わらせるものじゃないの?私の勝手な偏見だけど」

「・・・・そんなもんなの?」

「え、違う?」

「じゃあ波瑠の場合は―――――」

「二時間」

「――――――」

 もうこいつの恋愛に関しては触れない方が身のためかも知れない。

 気まずい空気を取り繕うように、波瑠がランチパックをちぎってよこしてくる。

「うわ、ツナマヨかよ」

「返せ恩知らず。―――――ていうかさ、あんた了承とる相手間違えてない?私にキスする許可取ったところで知らないわよ?」

「あ、うん。波瑠に相談したいのはまた別のことなんだよ」

 値段ゆえにあまり買うことのないランチパックを頬張りながら俺は本題に入ることにする。もうすでにプライドは折られているのだ。今更何か言われたところで何とも思わないので、もうなんだって聞ける。「波瑠先輩に聞きたいのは場所っすよ」

「場所って―――――口以外にどこがあるのよ」

「いや、部位じゃなくて・・・・さすがに俺もキスの定義くらい知っているわ」

俺が聞きたいのは場所―――――atじゃなくてin、プレイスだ。

 しかしそのように説明しても波瑠の表情はかわらなかった。

「それにしたって、私に聞かれても知らないわよ。別にどこでもいいでしょ」

「いや、場所はもう決まってるんだよ」

 俺は人差し指で自分の足下を指さした。「ここっす」

「へぇー。いいんじゃない?静かだし、人もあんまりいないし。あ、夜になったら灯りもきれいなんだっけ?」

「うん、まぁそうなんだけど。俺が言いたいのはさ・・・・」

 俺は眉をひそめる波瑠から目をそらして、目の前に鎮座する道真公に言った。

「―――――神社でそんなことして罰とか当たらないですかね?」

「・・・・あんた、純朴過ぎじゃない?」

 波瑠は呆れたような苦笑いを浮かべる。

しかしすぐにはっとして曰く、

「―――――いや、そうか。そうだったわね。たしかにあんたは信心深かったわ」

 そのままバカにされるかと思いきや、意外にも波瑠は感心したかのように相づちを打っている。よく分からないが、とりあえず俺は頷き返した。

「うん。結構欲も深い」

「自己申告しなくていいわよそんなこと」

「あと毛も結構―――――って、え?逆に波瑠は信じてねぇの?神様とかそういう系」

 親の教育の賜物なのか、それとも前世で何かやらかしたのか。どっちなのかは知らないが、物心が付いたときから俺にとって、どこかで神様が見ているというのは人生のオプションみたいなものである。だから俺は神社の敷居を絶対に踏まないし、参拝手順は守るし、もし天から蜘蛛の糸が垂れていたらみんなで登るし、恵方巻きだって黙って食べる。方位は目測だが。

 しかし波瑠は平然とかぶりを振った。

「別に否定はしないけど、正直あんまり。さっきもあんたは場所代とか言ってお参りしてたけど、そんな気全く起きなかったし」

「はは。気持ちだよ、気持ち」

「賽銭は入れてなかったけど」

「・・・・気持ちだよ、気持ち」

 正直、神社のベンチでだべるのに一円たりとも使いたくない―――――何てことを言ってはダメだ。俺たちには来年、受験という神頼み八割の重大イベントが待っていることを忘れてはいけない。こんなところで神様に見放されてしまったら、物心ついたときからの信仰心が全て水の泡。バレンタイン前に彼女と別れるくらいに、水の泡である。

 俺は邪念を振り払うように言葉を埋めた。

「で、波瑠はどう思う?」

「え?いや、私は神社でだべるのに一円たりとも使いたくない派だから気持ちだけでもすごいと思うけど」

 波瑠の浪人が今ここで決定した。

「何よ、そんな哀れむような目して」

「いや、別に・・・・。ていうか俺が言いたいのはそっちじゃなくてだな」

「あぁ、罰当たりじゃないかってこと?別にいいんじゃない、キスくらい」

 波瑠は事も無げにさらりと言った。

「神様だって、初詣に来てるカップルが手とかつないでんのを何万回と見てるんだから免疫ついてるでしょ」

 数秒して、自分の言葉にはっとする。「そう考えてみたら神様もかわいそうね。新年早々目の前でいちゃつかれるなんて」

「爆ろリア充とか思ってるかもな―――――ってそうじゃねぇよ。手とキスじゃちょっと違うだろ」

「別に一緒でしょ」

「何というか・・・・淫らじゃない?」

 言ってから、もっと適した言葉がありそうだと思ったが続く言葉は出てこなかった。でも、ニュアンスは的を射たはずだ。

しかし波瑠は俺の真剣な悩みを一笑に付した。

「何が淫らなのよ。外人なんて挨拶代わりにぶちゅぶちゅしてんのよ?」

「バカ、日本は八百万の神の国だぞ」

「バカはあんたよ。あ、それとも何?そこから本当に淫らな展開に持ち込んでいく気でもあるのかしら?」

「ねっ、ねぇわ!」

 俺は頭の中に浮かんでいた『あわよくば』の五文字を慌ててかき消した。

「そ、そういうのはカラオケとかで―――――」

「はーいストップ。止めときなさい。無駄に生々しい話は聞きたくないわよ」

 ちょっとは女子と喋ってる自覚を持てよと、波瑠は顔をしかめる。たしかに、完全に忘れていた。

「じゃあ、とりあえず場所はクリア・・・・かな?」

「神様は大抵のことなら許してくれるわよ、寛容なんだから。それよりも神様の前に美嘉に了承取るのを忘れるんじゃないわよ」

「了承・・・・」

「とは言っても『キスしていい?』とか言わないのよ。しらけるから。まぁ嫌がられることはないと思うけど、流れとムードを読みなさいね」

「出たよ」

 ―――――流れとムード。世の漠然としない言葉ランキングを作成したら、必ずトップ5には入ってくるであろうこの言葉の基準は、一体誰が作ったのだろうか。もしそいつを見つけ出したら、流れとムードに打ち負け続けている者を代表して引っ叩いてやりたい。

「・・・・それが分かったら苦労しねぇよ」

「『君に届け』でも読めば?」

「バカ野郎、俺に風早君は荷が重いわ」

 それに少女マンガで起こる出来事は、現実で起こらないからこそみんながきゅんとするものだ。もしそれをリアルでやって見ろ、確実に一生いじられる。―――――波瑠に。

 そんなことを思っていたら、隣でふっと空気が漏れる音がした。屁かと思って横を向けば、波瑠がこっちを見てにやけていた。

「・・・・何だよ」

「いや、あんなに学校ではチャラついてるくせして、ファーストキスがまだだったなんて、案外可愛い奴だなぁと思ってぇ」

「うるせぇ」

 すでに男のプライドは一度つぶされてしまっているので、もうショックは受けない。俺は完全にバカにしてきているその笑みを鼻であしらった。「ぼくはピュアなんですー」

「そうねー。案外美嘉も、あんたのそういうギャップに惚れてたりしてね」

「だったらありがたいけど―――――あ、そんなことより波瑠よ」

 そういえば、まだ話があった。

 口のはしにツナマヨを付けていることを指摘してやりたい気持ちを抑えて、俺は波瑠に改めて向き直った。

「何か、キスのコツとかタブーってあるか?もうやりまくってんだから分かるだろ」

「お前ピュアなくせに私にはゲスだな。セクハラ寸前じゃねぇか」

 キレ口調ですごまれるが、のれんに腕押しだ。先輩と付き合って二年近く経つ幼なじみに、今更遠慮なんてものはない。

 それにどれだけすごんでも、波瑠は波瑠だ。強くて優しいこいつは、何やかんや言っても最後にはちゃんと答えてくれる。

 今回も波瑠はぶつくさ言いながらもしばし考え、おもむろに口を開いた。

「正直やっぱり上手い下手はあると思うけど・・・・それは経験だから気にしなくていいんじゃないかしらね。普通にしていいんじゃないの?」

「いやだからー、その普通を聞いてんだって!」

「何であんたが上からなのよ」

 顔をしかめた反動で、口元についていたツナマヨが地面に落ちていく。俺は蟻の餌になるであろうそれを見送った。

「じゃあさ、波瑠は普段どんなタイミングでしてんの?」

「どんなタイミングも何も―――――大概向こうからしてくるから、ただ身をまかせるだけ」

「うわ、せこいな女子」

 また怒ると思ったが、波瑠は意外にも素直に頷いた。

「たしかに楽してるかもね。何かそういうのは男からっていう暗黙の了解があるし。あんたみたいにタイミングで悩んだことはないわ」

 俺も頷く。「悪しき伝統だ」

「それに仮に女子からしたくなったとしても、普通にすぐしたらいいしね。正直男はいつキスされても嬉しいでしょ?単純でバカだし」

「・・・・お前はもっと彼氏への感謝を持て」

「お前はもっと私への敬意を示せ」

 打てば響くような反応、さすが波瑠だ。俺は敬意を示す代わりに、正直に答える。

「いつされても嬉しいです。単純でバカなので」

「死ね。―――――えっと、あとはタブーだっけ?そんなもん、口が臭くなかったら大丈夫でしょ」

「口臭かぁ・・・・」

 半ば投げやりなアドバイスだが、考えてみればなかなか大事な案件である。こう見えて一日三回の歯磨きを十八年間欠かしたことはないのだが―――――。

「俺、くさい?」

「童貞くさい」

 歯を磨いてどうにかなるものじゃなかった。

「お、お前さぁ。思春期の男の子にそんなこと言っちゃいかんだろ」

「はっ、セクハラ返しよ」

 波瑠はとんでもない造語をさらりと言ってのけた。お前は半沢直樹か。

「まぁ、直前にうがいでもしたらいいでしょ」

「直前にうがいなんてどこでするんだよ」

 波瑠は無言で振り返って、後方を鼻で指した。

「ほら、あれ」

「―――――まさかお前」

 波瑠の視線の先には、竹筒からちょろちょろと流れる水を受け止める大きな石皿と、その下に並べられた柄杓。階段を数段下りたところに置かれた、参拝者たちが手や口を清めるあれの名は―――――。

「―――――何だっけ?」

「手水舎よ、てみずや」

「いや、問題はそこじゃなくてだな。何というか、たしかにあれは口を清めるところだけど―――――何かイヤだろ。自分の彼氏が手水舎でガチのうがいしてたら」

「キスの技術云々の前に下手したらフられるかもね」

 しれっと言って、波瑠は砂利を鳴らしながら体の向きを元に戻す。俺はふざけながら波瑠にすがりついた。

「波瑠さーん、もっと真面目に考えてよー」

「あーもう、鬱陶しいわね。ちゃんと考えてやってるでしょ。他には何かないの?」

 やっぱり波瑠は優しい。俺は話を戻した。

「あとはあれ、深さかな。あれってどれくらいが適当な感じなの?」

「・・・・あんた、ファーストキスなのにバキバキのディープでいくつもりなの?」

「い、いかねぇわ!」

 俺は頭の中に浮かんでいた『あわよくば』の五文字を再びかき消した。

「ピュアはどこに行ったのよ、ピュアは」

「いや・・・・でも何か浅すぎてもさぁ。男らしくないというか―――――」

「彼女とのキスの仕方を彼女の友達に相談してる時点で男らしくないわよ」

 おっしゃるとおりで。俺はぐっと目力を込めて波瑠の目を見つめた。

「お願いです、絶対言うなよ」

「女々しさ全開か。―――――ていうか、言える訳ないでしょ、こんな阿呆らしい話。キスも別に浅くてもいいんじゃない?大事にされてる感は出るわよ」

「お、ありがたいお言葉」

「あんまり深くいきすぎて前歯ぶつけるよりはましよ」

「そ、そうかな」

「そうよ」

 波瑠は本当に極端な奴だ。―――――いや、もしかしたら実際に前歯をぶつけられたことがあるのかもしれない。

 波瑠はふーっと息を吐き、マニッシュショートの頭にわしゃわしゃと指を入れた。

「ねぇ、蒼太は今日塾あるの?」

 波瑠は、スマホで時間を確認していた。

「ねぇよ」

 画面をちょっと覗いて俺は少しおののいた。ちらりと見えた待ち受けには、なんと青くて丸い地球。同世代の女子が初期設定の壁紙を使っているのなんて初めて見た。

「そっか。私は一コマ入れてるから、そろそろ行くわね。キスはそうねぇ・・・・枕相手に練習でもしてみたら?」

「枕ねぇ・・・・」

 距離感がつかみにくいんだよなーと、俺は立ち上がった波瑠を見上げながら、昨夜の練習を思い出していた。たしかに枕は人間の頭部と密接な関係にあるかもしれない。だがあれは頭部と言っても後頭部専用だ。まぁうつ伏せで寝る奴もいるだろうが、そもそも平面な柔らかい板ではイメージをしづらい。

「まぁとりあえず頑張って。美嘉からいいノロケ聞くの、楽しみにしとくわ」

 せめて球体のサッカーボール―――――いや、欲を言えば目線もあう服屋のマネキンか、あり得ない話だが生身の人間で練習できたら最高なのだが―――――。

―――――あ。

 目の前の唇に、目が止まった。

「そんじゃ、また」

「―――――ちょっと待て、波瑠」

 波瑠は気怠そうに振り返る。

 そして俺の目を見て、軽く息をのむ気配がした。きっと、猫のような瞳もきれいに開いている。

 声のトーンが、変わった。

「あんた、まさか―――――」

「・・・・そのまさかかな」

 俺は唇から視線を外さずに笑ってみせた。

「―――――いいよな?波瑠」

「アホか」

 波瑠は呆れたように笑った。

「さっき言ったでしょ?キスは相手の了承がないとダメだって」

「でも、キスは流れとムードなんだろ?」

「どこにそんな流れとムードがあったのよ・・・・」

 俺はそれには答えず、ゆっくりベンチから立ち上がる。

―――――これで、高さもそろった。

 波瑠は「いやいや、落ち着きなさいよ」と笑う。そして、さり気なく身を引く。砂利の音がした。

 俺は、一歩詰め寄った。

「ちょっと・・・・本気なの?」

「まぁ、わりとな」

「わりとな、じゃないわよ。あんた、絶対後悔するわよ?」

 俺はそれも無視する。後悔するかなんて、その時になってみないと分からない。俺の受験勉強と同じだ。ただ後悔するにしても、これに関してはやって後悔する方がいいと思った。

 それくらい―――――俺の目は、その光沢のある唇に釘付けだった。

「・・・・ピュアはどこに行ったのよ」

「よく言うだろ。男子は時に野獣になるんだよ」

「忘れてるかもしれないけど、ここ神社だからね?」

「大丈夫。神様は寛容なんだろ?」

「私たち受験生だし」

「関係ねぇよ」

「あるでしょうが―――――罰が当たっても知らないわよ?」

「神様は寛容だ」

「伝家の宝刀か、バカ」

 波瑠が小さく呟く。もう、何とでも言えばいい。自分がバカだということは、幼なじみにさんざん言われてきたことで、とっくの昔に自覚済みだ。

 数秒間、神社はとても静かになった。

「・・・・ほんとバカだわ」

 波瑠は、観念したようにため息をついた。

「ほんとーに、いいの?」

「もちろんっす」

「ほんとーに、どうなっても知らないからね」

「大丈夫。あ、でも波瑠よ」

 俺は、固い肩に手を添えて言った。

「このこと、美嘉には絶対言わないでくれよ」

「言えるか、バカ」

 俺は目と口を閉じる。

 ―――――そして、ゆっくりと唇を重ねた。




           


    ※  ☆  ※  ☆  ※  ☆






 七限目、つまり例の全校集会はいつも通りの進行でつつがなく消化されていた。

 まず最初に、全校生徒で校歌を斉唱――――――の前に、六限が移動教室だったか体育の授業だったかで遅れてきた学年が一喝され、うちの高校の集会はスタートする。

そして今度こそ、三年生でさえ未だに一番しか覚えれていない校歌を斉唱し、校長が時事問題を交えながら訓話をかまし、とりあえず一度体育館内の八割の生徒を眠らせた。まどろみの中、かろうじて聞き取ることができた単語によれば、大坂なおみの全米制覇を引き合いに熱く語っていたらしい。

 そして普段ならこの後に部活動の表彰に移るわけだが、直近の大会の成績がどの部も振るわなかったのか、今回はありがたいことに表彰をスキップした。

だが―――――ここまでの流れは前座のようなものである。

『それでは最後に、生活指導部の坂上先生よろしくお願いします』

 全校集会も本来の予定通りなら残り五分。つまり、例の締めの時間。表彰がスキップされた分、自分の持ち時間が長くなったからか、それこそスキップでもしそうな軽い足取りで登壇した坂上は、憮然とした表情でマイクの前に立った。

『礼』

 司会の号令に無言で頭を下げる。そしてそれと同時に、体育館内の空気が一気に変わった。誰かと文句を言い合ったりするのではない、無言のため息。約四十分ほど体育座りをしてきた俺の腰も尻も、かなりぎりぎりのところまで追い込まれている。

 俺たち生徒の落胆は、壇上の坂上にも確実に伝わっている―――――はずなのだが、坂上はぴくりとも表情を変えずに喋り始めた。

『えぇー、はい。生活指導部の坂上です。今月も、地域の方々からの苦情等のご意見がいくつか届いております。まず一件目は、登下校に関するクレームです。えー、今月の八日に当校の制服を着た生徒が、二号線沿いの道幅いっぱいに広がって、喋りながら下校していて非常に通りにくく迷惑だという連絡がありました』

 いや、そりゃ学校出てすぐの道には人が固まって当然だろうよ。

 しかし、こんな正論が通じる相手ではないのは重々承知。まだ坂上を知りきれていない一年生の頭が苛立たしげに動いているが、それこそ体力の浪費だ。俺たち三年生は、感情のスイッチを切って、完璧に聞き流す。

『―――――君たちには自覚はないかもしれませんが、同じ服を着た集団が普通に歩いているだけでも、一般の方には圧迫感等の相当なストレスを与えかねません。それでさらにマナーが悪いとなると―――――』

 見たところ坂上は今日も絶好調のようである。

 俺は不毛な長丁場を見通して、腰をかばうように少し体を動かす。

 するとその拍子に、隣の列の八人ほど前に見慣れたマニッシュショートを発見した。

 やっぱり波瑠は、ちゃんと体育座りをして列に並んでいた。見えるのはその背中だけだが、おそらくあの鋭いまなざしで壇上に立つ坂上を睨みつけているのであろう。そしてその姿を見て―――――俺は自然と、昨日の一件を思い出していた。

『―――――また、交通ルールだけでなく、最近の学校生活を見ても、校内のルールを無視した頭髪の乱れや、衣服の着崩しなどが見受けられます―――――』

 あの後――――――つまり、神社でのキスの後。

俺たちは急いで、そして静かに神社を後にした。万が一、誰かに見られていたりしたら、俺たちは終わりだ。自然と足のすすみも速くなった。二人して無言だったことも、自然な流れだろう。

 神様はあれを見て、何を思っただろうか。

『――――交通ルールを守るのは当たり前ですが、自分が当校の生徒であるという自覚と、他人を虜ることのできる視野の広さを持ち、生活することを、心がけてください』

 初めてのキスは、サイダーの味がした。

『――――一件目は以上です』

 これは、数年前の三ツ矢サイダーのキャッチコピーだ。

『――――全体的に顔が下がってますよ』

だが、俺の場合は違う。

『――――それでは二件目です』

 初めてのキスは―――――。

『――――二件目は綱締神社の宮司さんからのクレームです』

 ――――――俺は反射的に我に返った。

『えー、はい。二件目ですが・・・・昨日、綱締神社の宮司さんから、神社の利用についての、苦情が来たんですが、非常に残念な連絡、です』

 読み上げていくうちに、どんどん歯切れが悪くなる坂上。何をそんなに渋る必要がある―――――なんて思う余裕はどこにもなかった。『綱締神社』『昨日』『非常に残念なお知らせ』とくれば―――――答えは一つしかない。

 俺は本当に背筋が凍るという感覚を、生まれて初めて実感した。 

『―――――おほんっ、んんっ』

『先生?』

 進行係の女子の心配そうな声。今までにない坂上の挙動に、少し体育館内がざわつき始める。だが、俺の心のざわつきと比べればそんなものは、まったくたいしたことではない。

 俺は、その喧噪に紛れて再び腰をずらして前方を覗き見る。すると、さっきの俺と同じように、背筋を伸ばしきった状態で固まった波瑠の後ろ姿が見えた。

『えー、んんっぐ』

 心の底から願う。

 坂上よ。どうかそのまま、えづき続けてくれないか。

『し、静かに!』

 願いもむなしく、坂上の一喝によって体育館内が静寂に包まれた。

 百戦錬磨の生活指導部長は、意を決したようにバインダーに向き直った。

『えー、昨日の放課後の話です』

 やっぱり、神様は見ているようだ。

『昨日の放課後、近所にある綱締神社の休憩用のベンチの前で――――――』

 そんでもって、思ったよりも寛容じゃないようだ

『本校の制服を聞いた男子生徒が―――――――』

 あぁ、終わった。

 俺は全く動かないマニッシュショートを見つめながら、全てを観念した。

『―――――ベンチの前に立つ菅原道真公の銅像に口づけをしていた、との連絡がありました』

真実が明かされたその瞬間、体育館内に完全な静寂が落ちた。

―――――そして数秒後、地鳴りのようなどよめきが轟いていた。

『―――――さ、さらにその光景を本校の制服を着た女子生徒が隣で見守っていたとのことなのですが・・・・えー、学校側としても、非常に、混乱して、おります。その、いたずらをしたくなる気持ちが―――――いや、君たちも思春期なので―――――いや、特に受験生はストレスがたまる頃ですので―――――そのー、節度が・・・・ってコラッ、静かにしなさい!ざ、ざわざわするんじゃない!静かに!静かーに!』

『こ、これをもちまして全校集会は終わりです。生徒の皆様は、速やかに教室に戻って―――――って、はあ?!み、道真にキス?なんですかそのバカは!』

 動物園と化した体育館の中、俺は静かに座っていた。―――――どうやらこの感じだと、身元まではバレていないようである。よかった、本当に。いやー、危なかったなぁ。

 それにしても、あの瞬間を宮司さんが見ていたとは全く思わなかった。どこで見ていたのか―――――そしてその光景を見てどう思ったのだろうか。銅像の肩に手をかけ、ゆっくりと口をつけた俺と、それを隣で傍観していた波瑠を見て。・・・・うん、さぞかし怖かっただろう。

 ふいに、前方のマニッシュショートが動いた。

「・・・・」

 振り向いた波瑠は、疲れ切った苦笑いを浮かべながら、なにやら口を動かす。その動きから読み取れる言葉は、口パクでも理解できた。

 なんせ、言われ馴れているもんで。

 平静を失ってマイクをつけたまま悲鳴を上げてしまった進行係の女子は、とても的を射たことを言ったものだ。どうせ俺は―――――。

 そう、サイダーの味じゃない。

 俺の初めてのキスは、錆びた金属の味がした。


                          



                      (たぶん、俺たちの不毛で有限なアオハルは「つづく」)

   

            



とある短編新人賞の一次審査にもかからなかった作品ですが、キャラへの思い入れが強いのでこれからも書いていこうと思います。ぜひ感想をお聞かせください。

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