39.重黒木春陽・小羽 前編
「おかあちゃん!」
重黒木春陽は普段は元気いっぱいで物怖じしない娘である重黒木小羽の恐怖の混じった声に「大丈夫よ! しっかり掴まってなさい!!」と笑顔で力強く答える。
小羽はそんな母の様子を見て安心する。だっていつもの大好きな優しくて強いお母さんの表情だから。器用にへの字口で笑顔になり、「うん!」と大きく頷き、「ふんす」と鼻息荒く、乗っている買い物カートの手摺を握りしめる。
だが、親子である春陽の表情や声色はただただ、小羽を心配させまいと混乱する頭で必死に繕い絞り出したものであった。
それも当然であろう。
久しぶりに娘と共にホームセンターに楽しく買い物をしていたはずが、何の前触れもなく、突然見た事も無い化け物に追い回される事になったのだ。
暗い店内の彼方此方から聞こえる悲鳴や唸り声。
前を走っていた見知らぬ男性の首と胴が離れた瞬間を目にした時は正直、恐怖で足が竦み、吐き気にうずくまり、目と耳を塞ぎたくなるった。だがそれでも春陽は娘の小羽の存在を思い出して、買い物カートを必死に押しながら、安全な場所が無いか頭をと足を働かせる。
「!?」
息を呑む。
少し先をモンスターが横切ったのだ。重黒木親子に気付いた様子は無かったが、春陽はカートの向きを変えて駆ける。
(早く安全な場所に避難しないと…………どこか)
恐怖に押しつぶされそうになる。焦る気持ちに頭が支配されていく。けれど、紐で結んだお気に入りの巨大なヌイグルミを背負って、店の入り口で貸し出される、買い物カートに乗る子供用ヘルメットを被った小羽の小さな頭が視界に入り、焦る気持ちをどうにか抑える。まだ5歳になったばかりの大切な宝物だ。
「おかあちゃん。あっちは?」
「い、行ってみましょう」
何処に逃げれば良いのか、まして暗い店内で今自分達がどの辺りにいるのかも良く分からないまま、先に先に進み、運良く2人は何とか安全に思える場所に逃げ込んだ。
寝具、カーペット、布地コーナーにある、少し広い作業場兼休憩室である。
(これで、一息つける)
走りっぱなしで肩で息をしていた春陽は深呼吸すると、買い物カートに座る小羽を抱えて降ろす。その時、買い物カートから降ろされた小羽の悲鳴のような叫び声が響く。
「うえのほう!!」
同時に、黒い固まりが静かに上空からゆっくりと落ちてくる。たまたま春陽に抱えられた際に上方向を見渡していた小羽だけがその存在に気づいた。しかし、その叫びも虚しく、直ぐに巨大な蚊の様なモンスターが、上を見上げかけた春陽にのしかかる。
「おかあちゃん!!」
「は、はねちゃん!逃げて!!」
訳が分からないながらも、自分に覆い被さるモンスターに抵抗しつつ娘に向かって叫ぶ。
(はねちゃんだけでも………)
せめて娘が逃げる時間を稼がないといけない。そんな思いが通じたのか、小羽はその場から幼い足で、背中にからったヌイグルミを揺らしながら、駆けていく。
だが、小羽の足直ぐに止まってしまった。
くるりと春陽とモンスターを振り返える。だがその顔に怯えは無く、への字口に大きなクリッとした目ときりりとした眉が怒りの表情を創り出していた。
そう。小羽は逃げたのでは無かった。怒っているのだ。
「んん~!!」
助走をつけて、ヘルメットを被った頭を下げ、勢いよく突進する。
5歳児にしては体格の良い小羽。しかも、寸前で勢いよく転んだことで、加減なくモンスターに突っ込んでいく。流石にモンスターと言えども、突然の死角からの衝撃を、細身の身体が受け止めきれることは出来ず、結果小羽と絡まる様に床を転がっていった。
驚いたのはモンスターだけではなかった。床に倒れながら抵抗していた春陽も目の前からモンスターがいなくなったかと思えば、娘がモンスターと一緒に床を転がっているのが、目に入ったのだ。
「はねちゃん!!」
作業台のテーブルに手をついて、震える膝に力を込めて、何とか身体を起こした春陽は小羽の元に向かおうとする。だが、それよりも早くモンスターが、小羽にのしかかった。
春陽の目の前で小羽に向かって鋭い足を振り上げ――――
「やめてーーー!!!!」
今にも振り下ろさんとしたその時何と小羽がモンスターに噛み付いたのだ。
顔面を噛みつかれ視界を塞がれたモンスターの振り下ろした脚は床を叩く。だが、身体を捻り、噛みつく小羽を振りほどこうとするが、モンスターにしがみついて噛みついたまま離さない。
それならばと、もう一度刃物のような脚を振り上げて、切り付けようとするモンスターであったが、一瞬身体を震わせて動きを止める。
駆けつけた春陽が、作業台の上にあった裁断バサミをモンスターの柔らかな腹に突き立ていたのだ。
「はねちゃん、から、離れなさい!!」
4回ハサミを突き刺した後は、思いっきりモンスターを蹴りつける。
蹴り飛ばされたモンスターは体液と内臓を撒き散らしながら、壁にぶつかった後、鋭利な脚を閉じて動かなくなった。
「はねちゃん! 大丈夫!?」
春陽は床に倒れていた小羽の身体を確かめ、大きな怪我が無い事に安堵し、抱きしめる。だが、小羽は浮かない表情。
「おかあちゃん………」
「どうしたの? どこか痛いの?」
「おくちのなかが、にがにがする」
「ぺってして。ぺって!!」
への字眉で、涙を浮かべて変な毛をぺっとだす小羽であった。
作業場の入り口に鍵を掛けて重黒木親子は備え付けのソファーに腰を下ろす。
「もう、にがにがはなくなった?」
「うん!!」
「よかった。もし何かあったらお母さんに言うのよ」
「わかった~」
作業場には洗面台があり、停電しているが水道は使用可能であった。小羽をうがいさせて、口のを確認した春陽は、特におかしな様子の無い娘に安心する。
「はねちゃん。さっきはお母さん助けてくれてありがとう」
サラサラの小羽の頭をなでる。「えへー」と小羽の顔が綻ぶ。
「でも、危ないことはしちゃダメよ…………小羽隊員。お母さん隊長の言う事を聞くように」
「!? はい!! たいちょー」
春陽のマネをしつ、びしっと敬礼をする小羽。
以前に2人で新〇原基地航空祭に行ってからの小羽のマイブームである。
「じゃあ、お母さん隊長は部屋の偵察をするから、小羽隊員は、ここのソファーを守っていてね」
「はい。りょかいですたいちょー」
元気よく返事をする小羽であった。
ソファーに背を向ける春陽。その表情に笑顔はない。ただ彼女の視界には透明なウインドウが浮かんでいた。




