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第88話 松永久秀謀反


     ◇


 信長の行った高山右近の調略は失敗し、しかしその勢いのまま織田勢は摂津へと本格的な侵攻を開始。

 まず織田方によって高槻城下が焼き払われ、右近は徹底抗戦の構えを見せる他無くなった。


 一方で荒木方であった茨木城の中川清秀は信長の調略を受けて、いち早く織田家に帰順。

 これに一部同調する動きも出たものの、高山右近の高槻城が荒木方として残った影響は大きく、荒木村重の拠る有岡城は完全孤立には至らなかった。


 十一月十四日。

 ついに両軍が開戦に至る。


 これはお互いに様子見の小競り合いに終始したが、信長は荒木方の各城に対してそれぞれ兵を配置して牽制しつつ、翌十二月には有岡城へと至り、四日にはそのすぐ近くに布陣。

 八日に至りついに本格的な攻城が開始されることになった。


 有岡城は防御力の高い山城ではなく、平城である。

 しかし村重によって大改修されたその作りは実に強固で、城の東側には伊丹川、駄六川、猪名川などがあり、これが天然の要害となって東側からの敵の侵入を拒み、また西と南側には堀を設け、城は勿論のこと城下をも囲った総構えとなっていたことから、大軍を擁すこともできる非常な堅固なものであった。


 これは実際に攻め込んだ織田勢が、身をもって知ることとなる。

 結局攻め切れずに引き上げた織田勢は、実に二千ほども討ち取られ、中には信長の小姓であった万見仙千代の名まであった。


 有岡城の支城が健在なことや、村重自身が戦上手であったことから、信長はいったん陣を下げ、今後について協議することとなったのである。


「村重め、さすがに手強い」


 信長の不満に、居並ぶ家臣たちは困ったように顔を見合わせた。


「父上、ここはやはり長期戦を想定すべきかと存じます」


 上座にほど近い場所に座していた信長の嫡男・織田信忠の言に、信長はじろりと見返す。


「時をかけよと申すか」

「は。有岡城は堅城。それは先の戦でも証明されております。ここはやはり支城を一つ一つ落とし、有岡城を孤立した上で包囲し、敵の疲れを待つのが確実かと」

「堅実ではあるがな」


 信長は信忠の言を認めつつも、不満を隠せないでいた。


「やはり本願寺の動きでしょうか」


 そう尋ねるのは斎藤利治。

 信長の義弟であり、かの斎藤道三の末子である。

 織田一門ではないものの、一門衆に近い地位にあり、信忠とは親しい関係にもある人物だった。


「それもある。しかし……こうも畿内が落ち着かんのはいかにも腹立たしい」


 信長の不機嫌な様子に、家臣達はやや及び腰になっていた。

 石山本願寺は未だ打倒できず、播磨では三木城攻めが未だ道半ば。

 丹波征討は佳境に入っているものの、未だ波多野兄弟に降る様子は無く、明智光秀などは今回の事態に各地を転戦する羽目に陥っている。


 また大和では筒井順慶が何者かに暗殺され、その情勢は不安定ときている。

 そして越前の朝倉。

 村重の謀反のせいでその征伐は一時中止となっているが、どうにも不気味でならない存在である。

 これでは次に何が起こるか知れないというものだ。


「はっはっは。慌て召されるな殿。ここは若殿の仰せの通り。地道に参るが一番ですぞ」


 萎縮した家臣の中にあって、朗らかにそう口を開いた者がいた。


 列席する明智光秀や滝川一益、羽柴秀吉、稲葉一鉄、細川藤孝、丹羽長秀といった錚々たる面子の視線が、一人の老将に集中する。


 松永久秀である。


「我らは五万の大軍。向こうは寡兵……とも言えませぬが、一万程度。包囲するには十分な兵力差でありましょう」

「私も若殿や松永殿に賛成ですぞ」

「それがしも」


 八上城に対して兵糧攻めを行っている光秀や、三木城に対して同じく兵糧攻めを行っている秀吉なども、ここぞとばかりに久秀に賛同する。


「殿は安土に戻られ、鷹狩りなどを楽しまれればよろしい」


 何でもないことのようにそう言う久秀に、信長もやや毒気を抜かれたような顔になった。


「村重ごとき、俺が出るまでもないと?」

「然様。生い先短きわしがのんびりとしているのですから、まだまだお若い殿が焦る必要などありますまいて」


 からからと笑う久秀に、それも然りかと信長は頷く。


「されど殿。このまま囲むだけというのも芸が無い。一つ提案があるのですが、如何ですかな?」

「ほう。言ってみよ」

「されば。……長期戦となれば、有岡城を助ける支城を潰して孤立させるが定石。されどそれだけでは今の情勢、完全とは言えぬでしょう。石山本願寺や、丹波の波多野、播磨の別所、中国の毛利……。村重を助けようとする輩は周辺に多い。波多野や別所は動けぬとはいえ、そこにあるだけで我らにとっては邪魔な存在。であれば、まずはこれらを先に叩き、完全な包囲を実現させてしまえば、時をかけずして村重も降伏に至るやもしれぬと思いませぬか?」

「ふむ……」


 しばし、信長は考え込んだ。

 村重は籠城を始めたばかりであり、また先の攻城で迎撃を成功させたこともあって、士気も高い。


「そこで若殿には中国に、羽柴殿には播磨に、明智殿には丹波に戻られて、これらの攻略に専念していただくがよろしいかと。五万の兵で取り囲むもよろしいが、こちらの兵糧も馬鹿になりませぬからな」

「なるほど。しかし兵を下げて、村重めが頭に乗って攻勢に出ることは無いか?」

「出てきたならば儲けもの。野戦にて一気に打ち破れば良いのです。……そうですな、滝川殿が指揮を執れば、村重などに負ける道理もございますまい」

「……して、久秀はどうする気だ?」


 信長の指摘に、久秀はにやりと笑う。


「実はここからが肝要にて。できますれば、わしを丹波攻略の援軍としてお遣わし下され」

「なに?」


 それは思わぬ提案だったのだろう。

 信長もやや驚いたような顔になった。


「久秀がか?」

「はっはっは。そう驚かれますな。丹波が落ちるのは時間の問題。それを少し早めてやるまでのこと。有岡城を攻めるとみせかけて、これを迂回し、赤井忠家の拠る黒井城を急襲するのです。これが落ちれば八上城も意気を失い、早々に降伏に至るでしょうな」

「確かに丹波が平定できれば、有岡城に対して北からの圧迫を強めることができよう。しかし久秀、その歳でまだ戦場に出ると申すのか?」

「ご案じ召されるな。わしは口を出すだけで実際に戦場を駆けるは我が息子ですのでな。それに、丹波にはいささか縁もありまして、この世の最期にひと片付けしておきたい理由もありますのじゃ」


 内藤如安という人物がいる。

 これは久秀の弟であった、松永長頼の子である。


 長頼は三好家が勢力を誇った時代、丹波の八木城を任され、丹波守護代であった内藤国貞の娘を正室に迎え、自らも内藤宗勝と名を改め、内藤家を掌握して丹波支配を確立させた。


 しかしその後、永禄四年に若狭侵攻を行うも、越前の朝倉義景の援軍を得た若田武田氏に敗れ、丹波の国人であった波多野氏や赤井氏の蜂起を招くことになってしまう。

 そんな中、長頼は黒井城の赤井直正を攻めている最中、無念の討死を遂げたのだった。


 残された子の如安は、母の兄弟である内藤貞勝との間で家督継承の争いを起こすことになるものの、結果は貞勝が後を継ぐことでまとまり、如安は執政としての地位に留まるに至る。


 こうして落ち着いたかにみえた内藤家も、波多野氏や赤井氏の台頭により丹波での勢力が侵食されつつあり、さらに天正元年には足利義昭と信長が対立した際に、義昭方として槇島城の戦いに参加し、これに敗れた。


 結果、内藤家での立場を悪くした如安は、義昭に従って中国へと落ちていったのである。


「もしわしが寸功でも上げることが叶いますれば、あやつを許し、丹波に僅かながらも知行を与えて下されば、感激というもの」

「久秀にしては、何とも慎ましい願いであるな。俺はてっきり、大和一国を寄越せと言うのではないかと思ったぞ」

「そうしていただければ何よりですがな」

「――まあ、ともあれ利はある。光秀、久秀との連携は可能か?」


 話を振られ、光秀は畏まって頷く。


「それはありがたきお話なれば、うまくやれば今年中に落とすことも可能やもしれませぬ」

「今年中と来たか。すでに師走というに、なかなかの大言だ」

「恐れ入り――」

「よい。久秀の申すように、時がかかるならば放っておくのもまた一計か。連携さえさせねば村重ごとき、脅威にもならぬ。摂津の封鎖は不可欠であろうが、それは信忠、お前がやれ」

「ははっ」


 おおまかな方針が決まったところで、信長は改めて久秀は見やった。


「ところで平蜘蛛は持ってきておるのか?」

「勿論です」

「いい加減、俺に譲る気は無いのか? 譲れば大和一国ごとき、いつでもくれてやろうというのにな」

「はは、お戯れを」

「頑固者め。が、それは良いとしても、それで茶を所望したい。今宵、俺の元に来い」

「殿のお望みとあれば」


 久秀は頷く。


 此度の謀略は久秀が考えたものではないが、しかしそれに乗っても良いと思えるほどのものだった。

 これがうまくいくかどうかは未知数であるものの、仮にうまくいくのであれば、あの朝倉の姫の器量が知れるというものだ。


 もっともそれをすでに見越していたからこそ、久秀はまだ見ぬ色葉についたのであるが。


     ◇


 天正六年十二月十四日。


 松永久秀・久通率いる大和衆五千余は、有岡城を迂回して摂津から丹波へ入り、赤井氏の本拠である黒井城を急襲した。


 赤井氏は丹波国氷上郡を中心に勢力を誇った国人で、その赤井氏の頭領として赤井時家がいたか、その子の赤井家清は甲良の戦いにて同じ氷上郡の国人である芦田氏、足達氏らと戦い、これに勝利するものの、その時の負傷が元で二年後に死去。


 嫡男であった赤井忠家は九歳であったため、叔父であった赤井直正の補佐を受け、赤井氏の実質的な当主となった直正は、永禄八年に松永長頼を和久郷の合戦において討ち取るなど、武功をあげた。


 その後、赤井家は織田家との間で戦となるものの、天正三年の黒井城の戦いにおいて、明智光秀を撃退するなど活躍し、光秀は自害を覚悟するほどまで追い詰められたこともあったという。


 しかし赤井家の中心人物であった赤井直正も、天正六年三月に病死。

 その嫡男であった赤井直義は九歳と幼く、叔父であった赤井幸家が直義やまだ若い忠家を補佐しつつ、赤井家の総指揮を執ったものの、直正の死はその求心力の低下を避けられずにいたのである。


 松永勢による黒井城攻めは、ほぼ無血開城に近い形で終結した。

 これは色葉による事前工作が功を奏したもので、松永方への赤井氏の帰順が事前に取り交わされていたためでもある。


 明智方による八上城包囲が開始されてより、八上・黒井両城の支城は羽柴秀長勢と明智秀満勢によって次々に攻略。更には金山城を築いて分断を図り、黒井城は孤立無援の状態に陥っていたのだった。


 このような状況下もあって、色葉が事前に本多正信を使ってもちかけていた計略に乗った赤井忠家は、かねてからの計画通り、松永方への降伏を申し出たのである。


「なに、松永殿が黒井城を落としだだと?」


 黒井城陥落の報せは、すぐにも八上城包囲に戻っていた明智光秀の元にももたらされた。


「早いですな。あのご老人、さすがは自ら申し出ただけのことはある」


 さすがに驚く光秀へと、素直に感心してみせたのは細川藤孝である。



「ううむ。未だ衰えずとはまことに恐ろしき方ではあるが」


 黒井城はかつて光秀自身が攻め、大敗北を喫した苦い思い出のある城だ。

 敵方も疲弊しているとはいえ、僅か一両日でこれを落とすなど、瞠目する他無いというものである。


「しかし感心してばかりもいられぬ。これでは八上城も早々に落とさねば、我らの面目が立たぬではないか」


 光秀の見立てでは、陥落までにまだ数ヵ月、場合によっては半年以上の時がかかると踏んでいた。

 とはいえそれでは主である信長に、光秀の能力を疑われかねないという不安が生まれてきてしまう。


「それも分かりますが、焦ってはいけませぬぞ。堅実であることが一番かと」

「分かってはいるが……」


 結局光秀は焦り、八上城に対して降伏勧告の使者を派遣した。

 周囲の者の多くが、未だ波多野が降伏するはずもなし、と見ていたものの、波多野秀治からの返答は意外なものであったといえる。


『もし開城を迫られるならば、波多野一族の保障及び、その証拠として明智殿の母御を差し出されよ』


 無理難題である、と誰もが思った。

 しかし光秀の母である於牧は、和平のためならばと進んで人質を買って出、八上城へと入ったのである。


 光秀にとって断腸の思いではあったものの、丹波平定は急務であり、泣く泣く自身の母親を送り出し、それは奏功して波多野兄弟は降伏。開城に至った。

 十二月二十日のことである。


 城を出た波多野秀治、秀尚、秀香ら三兄弟は恭順の礼を尽くすために信長のいる安土へと向かったが、捕らえられた挙句に市中を引き回されて、浄巌院慈恩寺において磔となったのだった。


 よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ


 秀治が残した辞世である。

 これは光秀が約した波多野一族の保障というものを無視した行為であり、秀治らへの裏切りでもあった。

 しかし秀治らはまるで最初から覚悟していたかのように、神妙にして最期を受け入れたという。


 このことに愕然としたのが光秀であり、激怒したのが八上城に残っていた波多野家臣たちであった。

 当然の流れとして、光秀に悲報がもたらされる。

 降伏の条件として差し出していた光秀の母親が、波多野の家臣らによって惨殺されたというものだった。


 波多野兄弟を騙し討ちのような形で殺せば、人質であった光秀の母の命が危うくなることは、信長には分かっていたはずである。

 にも関わらずどうしてこのような仕打ちをしたのか。

 光秀は苦悩した。


 しかし悪いことは重なるものである。

 母の死により不調となった光秀に代わり、久秀が瞬く間に丹波一帯を平定すると、突如八上城を襲い、これを明智方から奪取。

 そのまま混乱する明智勢や細川勢を丹波から駆逐する。


 それはとりもなおさず、松永久秀の謀反を示していた。

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