第59話 上杉謙信出陣
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石動山。
加賀や能登、越中の山岳信仰の拠点として栄えた霊場である。
この石動山にある天平寺は坊院三百六十、衆徒三千の規模を誇り、一向衆の勢力が拡大する北陸にあっても、その勢力は目立たないながらも衰えることは無かった。
かつて南北朝時代に起きた中先代の乱の際に焼き討ちを受け、一時衰退していたものの、それから二百年余りを経て再び復興していたのである。
その石動山に、七尾城攻略を急ぐ上杉勢の本陣が敷かれていた。
「兄上! これはいかにも大失態ではござらぬか!」
陣中にあって、まずそう糾弾したのは上杉景虎であった。
上杉家当主・上杉謙信の養子であり、元の名を北条三郎。
かつて謙信と関東をかけて争った相模の獅子・北条氏康の七男である。
景虎が謙信の養子となった経緯はやや複雑だ。
もともと上杉と北条は長らく争ってきた関係がある。
その上杉と争ってきた北条家以外の勢力が甲斐の武田氏であり、この武田氏と北条氏、そして駿河の今川氏はそれぞれ婚姻関係をもって、いわゆる甲相駿三国同盟が締結されたのが、天文二十三年のこと。
伝説ともなった、善徳寺の会盟である。
ところが永禄三年に桶狭間の戦いによって今川義元が討死すると、松平氏の独立を許すなど、今川氏は衰退し始めてしまう。
さらに永禄十年には、武田家中において義信事件が発生。
これは武田の外交方針の対立から端を発した謀反計画であり、これによって武田家当主・武田信玄の嫡男であった武田義信は廃嫡され、のちに非業の死を遂げた。
この義信に嫁いでいたのが今川義元の娘であった嶺松院である。
結果、武田と今川の婚姻関係は崩れ、同盟は破綻。
翌永禄十一年には信玄による駿河侵攻が開始され、相模の北条家は今川方につき、ここに三国同盟は完全に瓦解したのである。
このため北条氏は武田氏を包囲するため、長年の敵であった上杉氏に同盟を持ちかけた。
敵の敵は味方、という論理である。
一方の上杉謙信も、永禄九年に起きた臼井城の戦いで北条勢に対して敗北。
この敗戦は常陸・上野・下野といった関東の諸将が上杉から離れる原因となり、さらには武田信玄が西上野に侵攻してこれを領国化して勢力を拡大するなど、関東での情勢が上杉にとっても悪いものになりつつなっていた。
このため謙信も、北条家当主であった北条氏政の提案を受け入れるに至ったのである。
その条件として様々なものが提示されたが、中でも北条氏政の実子・国増丸と謙信の重臣・柿崎景家の子・晴家との人質交換が約束されていた。
しかし氏政は謙信からの国増丸養子縁組要求を拒否し、代わりに北条幻庵の養子で氏康の七男・北条三郎が選ばれ、越後へと送られることになったのだった。
しかしこの同盟は不完全であり、主導していた北条氏康が元亀二年に死去すると、氏政は同盟を解消。
再び武田氏と結び、北条氏と上杉氏の関係は険悪なものになっていくのである。
これは後に将軍・足利義昭が、信長包囲網のために上杉、武田、北条の和与を図るのであるが、不調に終わったことからも相当なものであったと推察できる。
このように越相同盟は解消され、父・氏康に死去に伴って、景虎は帰参したものの、再び越後へと帰国。
上杉家一門の一人として、上杉家に仕えることを選んだのだった。
つまりは上杉景虎とは、そういう人物なのである。
「面目次第も無い」
言葉少なげに一切の申し開きをせず、ただ首を垂れるのは上杉景勝。
景虎と同じく謙信の養子で、その後継者でもある。
しかし富山城失陥の失態により、弟の景虎によって糾弾されていたという次第である。
「まあお待ちを景虎様。攻め寄せた朝倉勢は万余の大軍。こちらは寡兵。それを二度まで撃退した上で、堂々と退却に至ったのですから、これを失態ばかりとは言えぬでしょう」
景勝へと助け船を出したのは、安田顕元。
川中島の戦いなど武田家との戦いにおいて信濃国で戦った、歴戦の将である。
「されど富山城は北陸道の要。ここを抑えられては我らは越後へと帰れぬ。これは由々しき事態ではないのか!」
「だからこそ七尾城攻略を急いでいるのです。ここを落とせば憂いが一つ無くなり、朝倉勢ともじっくりと対陣できるというものではありませんか」
「しかし――」
なおも言い募ろうとした景虎を手で制したのは、それまで黙していた謙信だった。
「確かに富山城の失陥は士気に関わる。ここは早々に取り戻す必要があるだろう」
「なればその大任、私にお任せ下されば――」
「富山城には、私が行く」
謙信の言葉に、一瞬場が静まり返ったものの、それも束の間であった。
「お待ちを! ここで殿が出陣されては、包囲が崩れますぞ。七尾城陥落は間近であるのは疑いなく、やはりこれを落としてからの方が確実かと具申致します」
慌てたように口を開いたのは、同じく陣中に座していた吉江宗信である。
「いや、一度朝倉を叩かぬ限り、決して七尾城は落ちぬぞ」
確信があるとばかりに、謙信は言う。
「畠山が朝倉に通じているのは明らか。しかも朝倉は越中に侵攻して以来、破竹の勢いである。城内の者が希望を持つには十分だろう」
「なれば誰か別の者を遣わすべきです。ここで殿が出られれば、それこそ七尾城の者どもが攻勢に出て来る可能性は否めませんぞ」
顕元の言葉に、しかし謙信は頷かなかった。
「朝倉は朝信を破っている。誰かは知らぬが、相当な食わせ者が朝倉にはいるぞ。ここはやはり、私が出るのが最善だろう」
緒戦で敗れ、捕らえられた斎藤朝信は、上杉きっての名将である。
それが訳も無く敗北した以上、当初思っていたよりも、朝倉勢は強力ということになる。
「ですが……危険ですぞ。朝倉は神保や椎名の残党を従え、さらには一向一揆まで手なずけている様子。単に戦術だけでなく、戦略的にも優れた者がいるのは明らか。どのような罠が仕掛けられているか分かりませぬ」
「だからこそ、だ。それに七尾城については手も打ってある。景虎、七尾城の現状について説明せよ」
「はっ」
謙信もただいたずらに七尾城を囲んでいただけというわけはない。
堅城である七尾城を力攻めするのは愚策。
当然、搦手を用いていた。
その調略を任されていたのが、景虎である。
「七尾城には現在一万五千ほどが立て籠もってはいるが、これはもはや脅威にはなっていない。城内で疫病が蔓延しているからだ」
縄張りの広い七尾城であれば、一万五千の兵を置くことも可能であり、その堅城さと相まって、本来ならば謙信をしても難攻不落を認めざるを得なかったであろう。
しかし上杉勢の侵攻に対し、畠山勢は大慌てで城へと籠り、人員確保のために領民まで城内に入れてしまった経緯がある。
十分な時間があればそれは戦力になったのであろうが、急であったことや人員の多さから、城内の糞尿処理が追いつかなくなってしまったのだ。
これが元で疫病が発生し、七尾城の城兵は次々に命を落としていった。
「すでに畠山家当主・畠山春王丸も病に倒れて死去したとの報告もある。また現在、七尾城に籠る畠山家臣の中で、徹底抗戦を唱えているのは長続連であるが、我々はすでに遊佐続光や温井景隆、三宅長盛らと内通しており、手応えは十分である。恐らくきっかけがあれば彼らは結託し、七尾城に変事が起きることは間違いない。しかし父上がおっしゃるように、援軍である朝倉勢が越中を席巻しつつあって、動くに動けない状態であるとも推察できる。ここはやはり、富山城の奪還こそが急務となるだろう」
景虎の説明に、一同は納得の色をみせた。
「つまり……例えここで殿が離れられても、内応している遊佐らの工作もあって、攻勢は無いと……踏んでいるわけですな」
頷いたのは、直江信綱である。
「そういうことだ。手の者によると、富山城には朝倉晴景が拠って周辺の平定を着実に成しているとのこと。このまま松倉城の長親が敗れるようなことになれば、いよいよ危うくなる。明日にも私自ら出陣する」
決定事項であると謙信は告げ、もはや家臣に否やは無かった。
ただ宗信のみが、拭いきれない懸念を口にする。
「朝倉には狐がいるという噂がございます」
「狐?」
「は。越前国の一向一揆を駆逐した頃からあった噂ではありますが、朝倉の姫は狐憑きであり、この者が裏で朝倉を操っているとのこと。油断めされますな」
「ほう……」
面白げに、謙信は頷く。
「宗信、そなたはそれを見たのか?」
「いえ。ただ逃げ戻った斎藤殿の手勢の中に、実際に見た者がいるようです。戦場で先頭に立ち、鬼神の如き強さで味方を撫で斬りにしたと……申しておりました」
「宗信殿、狐如きが人の真似事をするなど笑止千万。貴殿も増山城を失ったを罪を、妖のせいにするというのか」
やや非難じみた景虎の言に、宗信は頭を振った。
「増山城失陥の罪は、この老骨自身が認めるところ。今更申し開きなど致さぬ。されど侮るなかれと申し上げているのです。越前平定と加賀の平定。砺波山での戦いに、越中への侵攻……。朝倉は武田と結んでおりますが、かの狐が同盟締結のために出張ったとの話もあります。それがまことであれば、相当に警戒すべき人物ですぞ」
「妖など恐れるに足らん。父上、是非とも此度の出陣は、私もお供させて下され」
景虎の申し出に、しかし謙信は首を縦には振らなかった。
「そなたには七尾城攻略を任せる。落城は近い。こちらで功を立てよ」
「……畏まりました」
謙信にそう言われてしまえば、是非も無い。
景虎にしてみれば、兄・景勝が失陥した富山城を奪還してみせることで、家中でも評価を高める狙いもあったのではあるが、とはいえ謙信の言う通り、七尾城を落とすことも十分な功となる。
それに――
「景勝、供を申し付ける。汚名を雪ぐが良い」
「はっ」
やはり、とも思う。
ここで景勝に手柄を立てさせて名誉を回復させる一方で、景虎には七尾城で功を立てさせる。
謙信としては、無難な采配のしどころであろう。
となれば、ここでごねても良いことは何もなく、命じられた通りに七尾城攻略に専念することこそが最善であろう。
謙信の養子とはいえ、敵であった北条家の人間である景虎にしてみれば、この上杉家中においては慎重に、しかし大胆に行動することこそが必要だったのである。
普段から寡黙で感情をほとんど面に出すことのない景勝が、いったい何を考えているかは分からない。
分からないが、同じ養子であることには違わず、であるからこそ負けるつもりも無かったのだった。
こうして上杉謙信率いる上杉勢一万余騎が、南進を開始。
天正五年九月。
再び富山城は戦乱に巻き込まれることになったのであった。
世にいう、神通川の戦いである。





