第57話 富山城の戦い
/色葉
緒戦である砺波山の戦いは、朝倉の勝利に終わった。
実際のところ上杉勢に余力はあったのだが、最初に大将であった斎藤朝信を降伏させたことで、あっさりと片が付いたのである。
そしてもう少し言えば、朝倉の方もなかなか際どい勝利だったとも言えた。
玄任に率いさせた奇襲部隊は三千余騎と、先陣の大半の兵力であり、上杉本陣を正面から景実に攻めさせた際の兵力は、実のところ僅か千余騎程度だったのである。
そもそもにして三千もの兵で山中を進ませることは、これは無理だと玄任が言うので、結局わたしが一緒について行くことになったのだった。
『もはや何も言うことはありませぬ』
山中を先導して三千の兵を、たいして道に迷うこともなく敵陣の側面に展開してみせたわたしの手際に、玄任は呆れたようなそんなことを言ったものである。
とはいえ兵に無理をさせたことは事実であり、兵の体力を考えてもそう長く上杉勢と戦えないのもまた事実だった。
だからわたしが陣頭に立って刃を振るい、士気を上げることで誤魔化してはみたのだけど、やはり限界がある。
ただそこで斎藤と鉢合わせし、降伏を促せたのは僥倖だった。
山を下りる際に遭遇した本庄某とやらを生かして捕らえておいたことも、降伏させる際のいい材料になったこともあり、まあ運が良かったのだろう。
ともあれ緒戦は朝倉の完全勝利である。
砺波平野へと出た朝倉勢は、第二陣の到着を待って速やかに侵攻し、上杉方の老将・吉江宗信の守る増山城を包囲。
八月八日のことである。
この増山城は越中国における三大山城と称される拠点の一つで、時を置かずにこれを攻撃。
吉江宗信は奮戦したものの、その七日後には金沢城を出た朝倉本隊が合流したことで勝ち目無しと観念し、勧告に応じて開城するに至り、吉江宗信以下城兵は上杉本隊のある能登へと向けて落ちていった。
わたしはここを拠点に越中国の南西部に当たる礪波郡一帯を平定。
この地域は加賀や飛騨に国境を接しており、これら一帯を手に入れることができれば後顧の憂い無く、前面の敵と相対できるというものである。
八月二十日になり、晴景率いる朝倉本隊は進路を東に取り、婦負郡から新川郡へと進出。
目指すは富山城である。
この富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる要衝であり、神通川の南岸に築いてこれを防御に利用した富山城は、まるで水の上に浮いているように見えることから、浮城とも呼ばれているらしい。
わたしが保護している神保長城の父親である、神保長職が築かせたものだ。
とはいえ上杉の進出を許したことで、神保氏が治めていた時期は僅かであり、その後は上杉と一向一揆が争奪し合う戦乱の場所となっていた。
増山城を攻略したわたしが次に定めたのが、この越中国全体の拠点となり得る富山城である。
八月二十二日。
晴景率いる越前衆一万二千は、上杉景勝が守る富山城へと殺到し、神通川を挟んでの対陣となった。
上杉景勝は若くして死した上杉政景の子であり、政景が謙信の姉である上杉綾を妻に迎えていた経緯もあって、後に謙信の養子となり、現在ではその後継者とされている人物である。
対する晴景は武田信玄の子であり、奇しくもかつて信玄と謙信が繰り広げた激戦を、子の代においても再現することとなったのだった。
この時わたしは増山城にあって、全てを晴景に任せていた。
七尾城を包囲する上杉本隊が、越中国射水郡より南下するのを牽制するためである。
とはいえ何も手を打たなかったわけではない。
景勝は若いが、晴景に負けず劣らずの武将である。
景勝が籠る富山城の手勢はおよそ二千。
対する晴景の手勢は一万二千と圧倒的に有利ではあるが、敵には神通川と富山城があり、これを簡単に落とせないことは明白だった。
更には松倉城を預かる河田長親が救援に駆け付けつつあるという報せもあり、このままでは攻略に時間を要することになってしまう。
富山城は北陸道を抑えているので、ここを落とされると能登にいる上杉勢は孤立することになる。
それを防ぐために、上杉本隊が動くのは時間の問題であり、そうなると勝敗は分からなくなってしまう。
結局のところ、早期決着がわたしの望むところであったのだ。
◇
「いいぞ、正信。首尾を聞こうか」
軍師として連れてきた本多正信には、昨年より様々な調略を越中に対して行わせていた。
神保、椎名の旧勢力の糾合、越中一向一揆の蜂起などが、主なものである。
「は……。松倉城を出た河田勢は、椎名の残党による遊撃を受けて、足止めされております。数日は稼げるでしょう。またかねてよりの約定通り、明日にも一向一揆が蜂起する予定です。これで富山城の東側を包囲すれば、若殿の渡河作戦も容易になせるというもの。一気に富山城に肉薄できるでしょう」
「そうか。頼純は役立っているか?」
「さすがは本願寺の僧ですな。扇動するには実にありがたい存在でした」
越中の一向一揆を蜂起させるために、吉崎御坊の再興に励んでいた下間頼純に命じて事前に越中入りをさせ、情報を探らせる一方で民の扇動を行わせていたのである。
「人を唆すには坊主が一番か。世も末だな」
自分でやらせたことではあるが、こうも効果があると何だかなと思ってしまう。
やはり宗教の力というものは侮れないということだ。
また河田勢を足止めしている椎名勢であるが、これを率いているのはわたしが保護していた椎名康胤である。
河田長親が預かる松倉城は、かつて康胤が居城としていた城だ。
そのため河田勢に対する闘志は、並々ならぬものがあった。
「それで正信。ちゃんと城の北側は開けさせてあるだろうな?」
「若殿もそのように動かれるかと」
「うん……まあ、ちゃんとやってくれるか」
裏であれやこれやと手を打ってはいるものの、今回実際に指揮を執り、富山城攻略を行うのは晴景である。
わたしが傍にいないこともあり、やや気負っているような節もあったが、まあうまくやってくれるだろう。
「しかし……何故包囲に穴をあけるのです? 今回の策ならば、富山城を完全包囲して落とすことも敵いましょう。わざと敵を逃がす理由を教えていただきたいものですな」
やはり気になっていたか。
「晴景様には話してあるが、お前の言うように、敵を逃がすためだ。何しろ時間の勝負だからな。退路を無くし、必死に抵抗されては時間もかかるしこちらの被害も増える。そしてこれが一番の理由だが、景勝に死なれては困るからだ」
「ほう……。ふむ、それはそれは……なんとも」
正信の微妙な反応に、わたしは尻尾を振りつつ顎でしゃくる。
「言いたいことがあるのなら言ったらどうだ?」
「いやいや。どうも姫は、上杉勢に対して優しくされているように見受けられますのでな。砺波山で捕らえた上杉の者どもも、むしろ手厚く扱っているご様子。増山城でも同様ですな。やれば殲滅できたでしょうに、降伏勧告を行った上で開城させ、これを逃がしている。一向一揆を相手にしていた時となどは血も涙も無い鬼の所業であったにも拘わらず、此度はどうにも……らしくありませんな」
「ずいぶん言ってくれるじゃないか」
尻尾をぴくぴくさせると、いやいやと一歩後ろに引いてしまう正信。
わたしの不機嫌を感じ取ったらしい。
とはいえ正当な感想でもあるだろう。
なのでそんなに機嫌が悪くなることもなかったが。
「お前が以前言っていたように、上杉は強敵だからな。持てる交渉材料は大いに越したことはないだろう」
「それですが姫。正直驚いているのです。上杉を相手にここまで手際よく事を進めるとは……」
「謙信が出張っていないからな。言っておくが、あれと戦って勝てる自信は、ない」
本音である。
これまでに上杉謙信の事績については、現実での噂話を初め、アカシアの知識などを含めて色々調べてみたが、やはり強い。
城攻めは少々苦手な印象も受けるが、それも野戦と比較しての話だ。
とにかく野戦が強すぎる。
杉浦玄任なども上杉と戦ったことはあるが、最初はこれに勝利などもしていたのだが、謙信が自ら出陣するに至って敗れている。
その玄任も、あれはちょっとおかしい、とか言う始末である。
戦上手の武田信玄ですら、川中島の戦いでは極力戦わないことを選び続けた。
唯一大激戦となった第四次川中島決戦においては、上杉勢の方が寡兵であったにも拘わらず、戦の前半では大勝利し、後半でこそ武田勢に押されて退いたことで両軍引き分けとなったものの、この戦いで武田勢は名のある将を多く失っている。
「とはいえ一度は戦う必要はあるだろうが、そこはうまく負けるつもりだ。それで後は持久戦に持ち込めば、勝てる」
「……持久戦、ですか。上杉は背後に北条という不安がありますからな。それを動かせば、長々と越中や能登に構ってはいられない、というところでしょうか」
「いや、そういうわけでもない」
「ほう……? ではいったいどのような策を用いられるおつもりで?」
「まあ見ていればいい。いずれ分かる」
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天正五年八月二十四日。
富山城を守る上杉景勝以下城兵は、悲壮な覚悟を決めていた。
明日にも到着するはずであった河田勢は足止めを受け、未だ到着には至らず、代わりに一向一揆が大挙して蜂起し、富山城の東側を囲んだのである。
それに呼応して朝倉勢も動いて渡河を成功させ、その一部が城の南側に陣取ってしまったのだった。
敵の総数は、一揆勢二万を加えて三万余。
城兵二千は絶望的な戦いを覚悟したのである。
二十五日。
一回目の総攻撃が行われ、景勝はこれを辛うじて撃退することに成功した。
二十六日。
続けて二回目の総攻撃となったが、これも撃退。
しかし二度に渡る攻撃を阻止したものの、城兵は傷つき疲労の極みとなって、三度目を防ぎきれないだろうというのが大勢だった。
「かくなる上は城を枕に討死するのみ」
覚悟を決めた景勝であったが、二十七日に総攻撃は無かった。
代わりに軍使が訪れたのである。
「初めてお目にかかります。それがしは朝倉家臣、山崎長徳と申す者。此度は殿の書状をお持ちしました」
長徳はかつて朝倉氏に仕えた名臣の一人、山崎吉家に縁のある者で、刀根坂の戦いで山崎一族はことごとく討死したのであるが、朝倉家滅亡後、色葉が再興を果たした際に出仕し、これに仕えていた。
まだ若いが槍の名手であり、加賀平定では功を上げている人物である。
敵城に単身乗り込むという、恐れ知らずの行為に景勝は目通りを許し、その書状を受け取るに至っていた。
「我らに城を明け渡せ、と申すのか」
「然り。我が殿は無用な殺生を好みません。上杉様は十分に戦い、二度も我らが大軍を退けられた。しかし次はありませぬぞ。とはいえ決死の覚悟のご様子なれば、我らの勝利は揺るがないにせよ、被害は軽微ではすまぬでしょう。我らが欲するは城のみで、城兵の命ではありませぬ。速やかに城を退去なされば、決して追わぬと殿は明言されております」
「それが、晴景殿の義か」
「然様にございます」
この朝倉方からの提案を、一部家臣の反対を押し切って、景勝は受けた。
長徳の言にあったように、朝倉と一向一揆の連合軍を孤立無援の状態で二度も撃退したことは景勝の武勇を高めていたし、何より上杉の面目を保たせるに十分だったこともある。
また景勝自身が噂に聞く晴景の人となりを信じたことも、また大きかった。
交渉がまとまったことで、朝倉勢は神通川を越えて陣を退き、一揆勢もまた大きく後ろに下がった。
これを見た景勝は二十八日、堂々と城の北側から能登方面に向かって兵を引いたのであった。