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第36話 三河侵攻


     /


 武田信玄の死去と西上作戦の停止は、窮地にあった織田信長や徳川家康を救う一方で、信長包囲網を敷いていた連合の諸国に大打撃を与える結果となった。


 すなわち朝倉義景、浅井長政、三好義継らの滅亡である。

 そして室町幕府将軍・足利義昭すら、京より追放。

 更には長島一向一揆の壊滅、である。


 武田勝頼は未だ信長と戦う石山本願寺に対し、軍事支援を約束していたものの、信玄の死去からこれまで何の手も打てなかったのが実情であった。


 そうして天正三年三月。

 信長は本願寺と河内国の高屋城攻めを画策。


 これを受けて、義昭や南近江の六角承禎より軍事支援が要請されることになる。

 武田の威信にかけても、信長を牽制する意味でも、この要請には応える必要があると、勝頼は考えていた。


 そんな折、徳川家臣・大賀弥四郎が武田に内通を持ちかけてくることになる。

 これを好機とみた勝頼は、三河へと侵攻し、尾張を圧迫することで、連合への支援を果たそうと考えた。


 三月下旬になって、勝頼は手始めに先鋒を三河国へと侵入させ、四月には足助城を包囲陥落に至らしめる。

 これに驚いた周辺諸城は次々に無血開城し、この戦勝報告に勝頼は信濃より遠江へと入り、そこから西進して四月下旬には先鋒隊と合流。


 このまま西三河の拠点である岡崎城に向かうはずであったが、大賀弥四郎の内通が発覚して処刑されたことで、これを断念する。


 代わりに東三河の拠点であった吉田城へと、勝頼自ら侵攻。

 その手前にあった支城の二連木城を攻め立て、山県昌景らの勇戦により守将・戸田康長は潰走し、落城することになる。


 これに対し、徳川家康自らが軍を率いて武田勢の迎撃にあたるも、山県勢はここでも奮戦して徳川本隊を壊滅させ、家康も吉田城へと敗走することになる始末だった。


 まさに武田勢の圧勝である。

 ただ勝頼は積極的に吉田城を攻めず、城下を焼いただけで転進し、次なる目標を長篠城と定めたのである。


     /色葉


「なるほどな。噂通り武田勢も強いが、勝頼自身も強い。戦況もよく心得ている」


 陣中にあって、わたしは武田勝頼の采配に素直に感心していた。


 信濃に入り、馬場信春や武藤昌幸との知遇を得たわたしは、彼らに同行して勝頼本陣と合流し、そこで面会に至っていた。

 同盟交渉は信春らの後押しもあってほぼうまくいき、後で正式に締結される次第となっている。


 これはいい。

 武田にとってこの同盟は以前の信長包囲網による連合を国家間でより強化したものであるし、現状の情勢を鑑みれば、必要な措置であることはすぐに理解してくれたからだ。

 仔細については後回しとなっており、そのため通商等の話はできていないが、それは後でもできる話である。


 心配だったのは信春も言っていた、地方の重臣と勝頼との溝である。

 同じ場に会して分かったことだが、確かに距離感はあるようだ。


 勝頼は元々武田の後継者であったわけでなく、母方の実家である諏訪家を継ぐ身の上だった。

 ところが嫡男・義信が廃嫡されたことを受けて、急遽後継者となったわけであるが、そのため譜代の家臣との関係がまず希薄だった、ということが挙げられる。


 また武田の領土拡大により、有能な重臣は地方の城代として派遣され、中央の人材が薄くなったこともあった。

 この時側近として残ったのが、信春らと同じ信玄由来の重臣である、跡部勝資や長坂釣閑斎らであり、勝頼が離れた地方の重臣よりも、近くの重臣を頼ったのは必然だったといえるだろう。


 信春と共に重臣筆頭であった山県昌景も勝頼との距離感は自覚していたようで、今回の戦いでのその奮戦振りは、その忠誠を大いに見せつけることになったようだ。


 しかし優秀な人材である。

 信春もそうだが、これほどのひとは朝倉家中にはいないだろう。


「しかし何故……このまま吉田城を攻め落とさないのです? 今の勢いならば可能と思えますし、なにより吉田城には徳川家康が籠っているわけですから、これを討ち取れれば大勝利間違い無しでしょうに」


 首を傾げるのは景成である。

 ちなみにこれが図らずも初陣になってしまい、連日の勝利のためやや和らいでいるものの、未だ緊張感がその顔に残っていた。


「勝頼の目的はあくまで織田を牽制することだからだ。今すぐに徳川を滅ぼすことではない。しかしここで吉田城を攻めたらどうなると思う?」

「いえ……ですから、大勝利かと」

「たわけ」

「うぎゃっ」


 思わず尻尾ではたいてしまった。

 力など何も入れていないが、それでも痛かったようで顔を抑えて唸る景成。


「……色葉様。それは凶器なのですから、みだりに振るうのはよろしくないかと」


 などと言ってくるのは貞宗である。

 ふん、凶器とは何なんだ。こんなに愛くるしい身体の一部だというのに。


 ちなみに陣中にいる朝倉の者は、わたしと貞宗、景成の三人である。

 今回わたしは信春に同行した上で勝頼と会い、願い出て客将扱いとして旗本衆に加えてもらっていた。


 これは武藤昌幸が勝頼の旗本衆であったこともあり、昌幸預かりという名分になっている。

 雪葉と乙葉は個人的な情報収集のために、陣の外に置いてあり、時折こっそりとやってきては色々と報告してくれていた。


「貞宗は黙っていろ。この剣術馬鹿にはもう少し頭を使うことを覚えさせた方がいい」

「い、色葉様……とても痛かったのですが……」

「その顔が形を保っているだけ、わたしに感謝することだな。で、先ほどの質問の続きだ。勝頼の目的を踏まえた上で、吉田城を攻めることについての結果を考察してみろ」

「は、はい……。ええと……」


 あっさりと答えに窮してしまう景成に、わたしは溜息をついた。

 予想通りであるが、ここは裏切って欲しかったところである。


「貞宗、お前はどうみる?」

「……勝利、という点では揺るがないでしょう。ただし、時がかかり過ぎます。仮にも徳川の総大将が籠る城である以上、必死に抵抗することは予想に難くありません。となると織田の援軍が来援する可能性が出てきてしまい、そうなれば戦局は分からなくなります」


 貞宗の考えに、わたしは満足そうに頷いてみせた。


「そういうことだ。ちなみに吉田城を落とせば徳川領は事実上、東西に分断されてしまう。徳川としてもこれは見過ごせないだろうからな。徳川を攻め滅ぼす気ならそれもいいかもしれないが、ただの牽制で窮鼠を作ってしまうのはうまくない、ということだ」


 つまり武田勝頼は、単なる血気盛んな猪武者、というわけではないということだ。

 今回の出兵についてもよく考えており、意義もある。

 今のところ無茶もしておらず、結果も出している。

 まるでかつて信玄が行った西上作戦の時の戦果に迫る勢いである。


 しかしそれでも――このままでは武田は敗れてしまう。

 信玄は西上作戦に途中、三方ヶ原の戦いで大勝を収めたが、勝頼は長篠の戦いで大敗を喫することになる。


 無論、信玄の時とは情勢が違う。

 単純に比較はできないが、それでも比較はされるものだ。


「いいか。今回の勝頼の判断は正しい。ただ長篠城に固執することは、結局吉田城を固執することと同じ結果になる。あの城は、これまでのようにはいかないぞ」

「では……どうされるおつもりです?」

「長篠城を落とすしかないだろう。それしか活路は無い」


 そのためにわたしはわざわざ武田勢に混じって、ここにいるのである。

 何が何でもあの史実通りの大敗北だけは避けねばならない。


 しかし歴史の流れというのは必然的な大きな力であって、そう簡単には変えられるものでもないらしい。

 特に今回のことは難儀しそうだ。


「負けない戦……か。何ともつまらないな」


     /


「不味いぞ、これは不味いぞ……わしの人生、一体何度目の窮地だ?」


 吉田城において、そう嘆くのは徳川家康その人であった。

 どうも武田とは相性が悪いらしく、戦えば負けるのである。


 そして思い出すのは武田信玄に軽く捻られた三方ヶ原の戦いだ。

 あれに比べれば現状はまだ良いとはいえ、それでも窮地には違いない。


「殿、落ち着いて下され。敵はすでに引き揚げていきましたぞ」


 石川数正の言葉に、家康はようやく我に返って櫓より敵情を眺めやった。

 確かに武田の軍勢の姿はもはや無い。

 城下は焼き討ちされたものの、城攻めには至らなかったらしい。


「数正……これはどういうことだ?」


 やや脱力した感の主君を見て、数正はかしこまって答えた。


「まだわかりませぬ。陽動という可能性もありますし、矛先を変えただけかもしれませぬ」

「撤退というわけではない、ということか」

「然様かと心得ます」

「ううむ……」


 唸る家康に、やれやれと数正は思う。

 徳川家康という人物は優秀で数正が仕えるに足る人物には違いないのであるが、戦において冷静沈着であると思いきや、意外に短気で神経質なのである。


 ちなみにこの石川数正は、家康が今川家の人質だった頃から仕えていた家臣であり、今や懐刀といっていい存在だ。


「織田殿はどうした? 再三に渡って援軍要請をしているというのに、なしのつぶてとは如何なることか」

「佐久間信盛殿がすでに三河に入ったとのことですが、今のところ進軍は停止しているとのことです」

「ぬう……このままでは三方ヶ原の二の舞になるではないか!」


 憤慨してみせる家康ではあったものの、織田が即座に動けない事情も分かってはいた。

 そもそも今回の武田の出兵は、信長による高屋城攻めがきっかけとなっている。つまり織田勢はそう簡単に軍勢を動かせる状況に無いのだ。


「こうなれば武田と和睦するもの手か……」

「と、殿? それでは織田との同盟は如何なりますか!」


 慌てたのは数正である。

 しかもその言が存外本気であると、見抜いた上でだった。


「お家存続のためにはやむを得まい。……よし、もう一度織田殿に使者を送れ。援軍を寄越さぬなら武田についてその先鋒となり、尾張を頂くと言ってやれ!」


 この家康の言を外交的の駆け引きとみるか、本気であったとみるべきか、どちらにせよ信長は対応に苦慮することになる。


 例えば前年である天正二年五月において、武田勝頼は徳川方の拠点である高天神城を攻め落としていた。

 この時も家康は信長に援軍を要請し、それに応えて織田勢は来援したものの、間に合わずに高天神城は落城。


 今回も同様のこととなれば、徳川の織田に対する不信は拡大し、清洲同盟が破綻する可能性は十分にあったのだ。

 信長はこの高屋城の戦いを何としても早期に終結させる必要に迫られたが、四月の下旬には高屋城に立て籠もっていた三好康長が降伏。


 ここで本願寺攻めを中止した信長は、三好康長を赦した上で高屋城を破却し、畿内の仕置きをすませ、四月中には岐阜へと戻ることができたのである。


 軍を整えた信長は五月に入って岐阜を出陣。

 五月半ばには三河岡崎へと着陣したのであった。

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