第245話 備前国岡山城にて
◇
天正十年八月五日。
備前国岡山城。
この地を任されているのは、羽柴秀吉に臣従した宇喜多直家の次男、宇喜多秀家である。
直家は前年の末に病死しており、その後を託された秀吉は宇喜多家の本領を安堵し、そのままの統治を継続させていた。
もっともこの時点で秀家は未だ幼少で、直家の異母弟であった宇喜多忠家の補佐や、戸川秀安や長船貞親、岡利勝といった重臣らに支えられることになる。
ともあれその岡山城に毛利家からの使者である安国寺恵瓊が訪れており、急ぎ大坂より来た黒田孝高は緊急の会談に及んでいたのであった。
「やはり、毛利家は動きませぬか」
事前にある程度毛利家中の意見を把握していた孝高は、恵瓊よりもたらされた知らせに唸ってみせた。
「やはりということは、黒田殿は予想されておられたか」
「……隆景殿ならばともかく、元春殿がご健在であられる以上、そう簡単に屈することもないでしょう」
孝高はこれまで幾度も毛利家との交渉を担っており、恵瓊だけでなく小早川隆景や吉川元春とも会見に及んだことがある。
隆景に関しては孝高をして尊敬するに値する人物とみていた一方で、同じく評価に値するものの、しかし難しい相手であると感じたのが、その兄である元春であった。
武断的な性格もあって、容易に他者に屈することを良しとしないばかりか、孝高の主である秀吉に対し、少なからずの敵愾心を持ち合わせているように思えたからである。
「羽柴殿のおかげで毛利は時を得、その力は戻りつつあるゆえな」
「しかしそれはこの際、逆効果でございましょう」
「と申すと」
「今や朝倉家に逆らえる者など存在いたしませぬゆえ」
そこで孝高は小さく息を吐き出した。
その吐息は、孝高にしては珍しい仕草であったともいえる。
「朝倉家はそこまでのものであるか」
「……朝倉家の盟友であった武田家こそ滅びましたが、しかし朝倉の最大の敵であった織田家……いえ、織田信長様も滅びました。そしてその嫡男の織田信忠殿は、朝倉家と友好関係を結びつつあります」
「それが、解せん」
唸り、恵瓊は腕を組んだ。
「聞けば信忠の謀反により、信長は自害に及んだと聞く。あの織田信長は、そこまで家臣や己の子すら統制できぬ者であったのか」
「それは、何とも申せませぬが」
「だが羽柴殿とて信長を見限って、今日のようになったのであろう。何より貴殿自身、かの者をそこまで評価しているようには思えなかったが」
かつて初めて恵瓊が孝高と会見した時のことを思い出して、首をひねってみせる。
「いえ、織田様は恐ろしきお方です。才もあられた。それは私も認めるところです。反旗を翻したとはいえ我が主も、未だに敬っておられますゆえ」
「では何故」
「だからこそ、ですよ」
そこで見せた孝高の表情に、恵瓊はいつぞやに孝高が見せた笑みを思い出す。
「……まあ、良い。それよりも話を戻すが、このままいけば毛利はどうなるか」
「滅びますな」
即答され、恵瓊は息を呑む。
「先も言ったが、毛利は織田と争っていた頃に比べ、力を取り戻しておる。それでもそう思うのか」
「……まず織田家が朝倉に靡いてしまっており、信忠殿は朝倉家との婚姻同盟を模索されているとも聞いています。すでに信忠殿の姉君が一乗谷に送られておりますゆえ、これは人質以外の何者でもありませぬ。であれば、早晩織田家が朝倉家に臣従するのは火を見るよりも明らか」
「……うむ」
「織田家だけではありませぬ。関東の北条はすでに死に体。代わって台頭した徳川家は朝倉家の支援をもって再興したものであり、臣従しているにも等しいでしょう。そして越後の上杉家は元より朝倉の友好国。そして更には安房の里見家を臣従させ、これらを合わせれば都合八百万石以上の勢力となります。……仮に我らと毛利様が手を結んだとしても、歯が立ちませぬ。むしろ……」
「むしろ?」
「我が羽柴家は真っ先に毛利征伐の先兵となるでしょう」
毛利家の勢力は約百三十万石。
朝倉家とそれに与する勢力は、羽柴家の二百万石を加えれば一千万石以上。
十倍近くの勢力を相手に挑むとなれば、毛利家は絶望的な戦いを強いられることになるだろう。
「さらに……四国の長宗我部ですが、これは新たに朝倉家に仕えるようになった明智光秀殿により外交交渉が進められているようで、これも朝倉家に与する事態となれば、もはや手の打ちようがありませぬ」
「……何と由々しき事態か」
恵瓊は眉間に皺をよせ、深く考え込んだ。
危険な状態であるとは察していたが、ここで対応を誤れば即座に滅びかねない瀬戸際にすでに立たされていることに、今さらながらに唇を噛み締める。
「……では今回の招待状。毛利を滅ぼすための口実ということであるか」
「招待に応じれば、時が稼げます」
「稼いで何とする。従属となれば、減封や人質を要求されるであろう。そのようなこと、元春殿が決して受け入れぬ」
「いえ。たとえそれらを甘受してでも、時を稼ぐべきです」
そこで、孝高は声を潜めた。
「朝倉家を牛耳る色葉姫のことはご存知でしょう」
「噂には聞いておる」
「その色葉姫に何かあれば、朝倉家は硬直するでしょう。そうすれば、挽回の機もあるというもの」
どこか不穏な孝高の言に、恵瓊は眉をひそめる。
「その姫に、何かあると申すのか」
自然、声をひそめて尋ねる恵瓊。
「……私はこれまで幾度もあの姫にお会いしております。最後にお会いしたのは甲斐でしたが……。どうも、病を得ているのではないかと」
「病、だと?」
「はい。どうやら産後の肥立ちが悪いようで、かなり体調を崩している様子」
孝高は摂津有岡城でも色葉と会っていたが、あの時は産後すぐということもあって、そこまで気にしていなかった。
しかしのちに甲斐新府城で会見に及んだ時、数日に渡って引き留められたのであるが、如何にも体調が優れない様子だったのである。
そのため気になった孝高は、新府城を出た後、色葉が信濃や甲斐に侵攻した際の状況をつぶさに調べて回ったのだった。
それによると、連戦に次ぐ連戦で疲労の極みにあってか、一度は馬上から落ちて意識を失い、七日は目を覚まさなかったこともあったという。
元より体調が回復しなかった中での進軍であり、無理が身体にたたったのであろうというものであったが、しかし無視できない情報であった。
そして現在、越前へと帰国した色葉であるが、養生のため一乗谷に引きこもって滅多に出ることはないという。
「貴殿はその姫の不測の事態に期待しておるということか? されどかの姫は当主ではなかったはず。仮に何かあったとしても、当主である朝倉晴景が健在であれば、情勢は変わらぬと思うが」
「…………然様かも、しれませぬな」
これが、色葉を直接見知っている者と、そうでない者の差だろう。
無理もないが、説明は難しい。
せめて恵瓊が色葉に接見できる機会があれば良かったのだが、今からでは手遅れに違いない。
「そのような神頼みのために、毛利の矜持を捨てよと説得することは至難であろう。が、毛利にとって危急の事態であることは疑いようもない。極力外交努力で状況を改善できるよう、努めてはみせるが」
「……それがよろしいかと存じます」
その後、孝高は恵瓊と可能な限りの情報交換をして、岡山城を後にした。
安国寺恵瓊は毛利家臣ではあったものの、いくどか交渉を重ねるうちに孝高の主君・羽柴秀吉を評価するようになり、今ではかなりの親羽柴となっている。
が、それでもやはり毛利家臣には違いなく、孝高とて全てを語るわけにはいかなかった。
「ここで毛利が滅べば天下の趨勢は定まってしまう」
帰路にあって、孝高は今後の打開策を考えに考え抜いていた。
孝高の見立てでは、近い将来に色葉の病状が悪化することは、少なくない可能性の一つであると思っていた。
それが数年後か十数年後かは分からない。
しかしその時があるのであれば、それを待つのも一つの策であると思っている。
が、その時に毛利家などの勢力が一掃されて、それこそ色葉抜きでも揺るがない盤石な体制や政権が樹立してしまっていては、もはや手遅れである。
朝倉家にとって潜在的な脅威を残しつつ、現状を維持することこそが、最も望ましい。
しかし、このままで毛利は色葉の呼び声に応じず、そうなればかの姫はこれ幸いとばかりに毛利家を踏み潰しにかかるだろう。
そしてそれを自分でする必要は無い。
姫に従属する勢力にやらせればすむことだ。
例えばそれは、毛利領と接する羽柴家などだろう。
「…………」
ならば、それを利用できないだろうか。
何か、策は無いのか。
秀吉を天下人にするために、織田信長は邪魔な存在だった。
その信長は斃れたが、まだ色葉がいる。
色葉は孝高の命の恩人ではある。
しかし、それが何だと言うのか。
あれこそ信長をも凌駕し、自身にとって最大の難敵であろうが、だからこそ野心がうずくというものである。
一世一代の大仕事。
そんなものを予感して、孝高は身震いした。
官兵衛と恵瓊。
この二人が揃うと毎回、不穏な空気しか流れないですねえ……。
ある意味、いいコンビなのですが。