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第196話 天目山の戦い


     ◇


 天正九年六月九日。


 北条方の猛攻に遭い、甲斐新府城は落城した。

 しかしその経緯は、深志城で色葉が報告を受けたものとやや異なっていたといえる。


 六月六日の小山田信茂の離反。

 これも大筋では間違っていない。


 そもそも小山田氏は甲斐国郡内に台頭した有力国衆であり、戦国時代に入って甲斐武田氏の家臣団に組み込まれつつも、同地に対して独自の領域支配を行った氏族であった。

 これは現在の当主である小山田信茂の代になっても同様で、武田家臣団の中でも穴山氏同様、独立性の高かった存在であったといえる。


 そして信茂は武田信玄に仕え、各地を転戦。戦功を挙げたという。

 その武功は信玄に続いて勝頼に仕えてからも変わらず、大敗を喫した長篠の戦いにおいても最前線で戦い続け、山県昌景にも「文武相調ひたる人物は他にいない」と評されたほどの武将であった。


 勝頼が討死した第二次三増峠の戦いにおいても殿を務め、北条方の追撃をよく防ぎ、自身も無事に帰還を果たしている。

 武田家臣団の中堅において、最も武勇に優れた存在であったと言っていい。


 甲州征伐が開始され、北条氏照が八王子城より甲斐侵攻の軍を進めると、信茂は本拠地である谷村城より岩殿城に移り、これを防ぐべく徹底抗戦の構えをみせた。

 この抵抗にさしもの氏照も攻めあぐんだが、六月六日、信茂は突如帰順を表明し、氏照はこれを受け入れる。


 そして六月八日には新府を囲み、翌九日には先着していた徳川勢と共に総攻撃を開始。

 信茂も一軍を率い、率先して城攻めを行ったという。

 ところがここで思わぬ事態となった。


「たわけどもめ。我ら武田武士を侮るなど片腹痛し」


 信茂隊は突如翻り、逆進して氏照隊に襲いかかったのである。


「おのれ信茂、謀ったか」


 氏照が偽りの投降であると気づいた時にはすでに遅く、不意打ちに北条方は大混乱に陥った。

 その隙を見計らい、信茂は城内へと入ると、すでに覚悟を定めていた信勝に拝謁することになる。


「殿、後詰が遅れましたこと、平にお許しを」

「――信茂、敵に降ったのではなかったのか」


 信勝を始め、城内に残っていた家臣の多くが驚き、訝ったという。


「確かに」


 そこで信茂は苦い笑みをみせ、こう語ったのだった。


「我が小山田家存続を第一に考えなかったといえば、嘘になりまする。とはいえ、それがしも武田武士のはしくれ。であれば、最期まで戦うが筋というもの」

「然様であったか」

「正面の敵は我らが防ぎますゆえ、殿はこの敵の混乱に乗じて脱出して下され」

「私は逃げない。この城と共に、意地を通す所存なれば」

「ご無用であられる」


 信茂は首を振り、信勝の左右に控える土屋昌恒、小宮山友晴らの将へと視線を巡らせた。


「殿がご健在なれば、武田家は再興できまする。今は越前に逃れ、再起を図られるが最善というもの。貴殿らも何をしているか。まこと忠臣なれば、そのお命をお救いすることこそが使命というもの。死出のお供などいつでもできように」

「されど、信茂」

「時はありませぬぞ。いざ、行かれよ」


 信茂の思わぬ援軍と説得に、信勝を始め周囲の将たちも、一縷の望みに賭けることを良しとしたのだった。

 そうして主君らが去った後、残された信茂へとその家臣である小山田有誠は、実に不思議であるとばかりに信茂へと問いかけたものである。


「まこと、これでよろしかったので?」

「この期に及んで心変わりを笑うか?」


 有誠の疑問に、信茂はそれこそ苦く笑った。

 実のところ、北条氏照に降った時は、自身のお家のために武田家を見捨てる覚悟を決めたのは、紛れも無い事実である。

 それが表返るに至ったのは、まさに城攻めの最中のことであった。


「いや、いや。やはり殿も武田武士でしたか」

「さにあらず、だ」


 もはや隠し事は無用とばかりに、信茂は真実を告白する。


「武田武士としては、それがしはもはやそれを名乗る資格は無かろう。ただ、な。この新府城を攻めている際に、長篠城での戦いを思い出してな」

「というと?」

「かの姫のことが過ぎったのよ。そうしたらもう、自身の失策に恐ろしゅうなってしまってな」


 かつて信茂は長篠の戦いで、初めて朝倉の姫を目の当たりにすることになった。

 女だてらに戦装束に身にまとい、当初は侮ったものの、これがなかなかどうして様になっているどころか、当時従軍していた武田家臣の面々は、皆一様に圧倒される羽目になったのである。


「鳥居強右衛門、であったか。あれを真っ二つにしてみせた、姫の所業は今でも忘れられん。あれを見れば想像に難くないことではあるが、あの姫は決して裏切りの類を許さんのだろう。そしてその姫は、この武田にご執心のようであった。であれば、この武田を見捨てるということはすなわち、姫を敵に回すということである。それがもう……考えただけでもおぞましい」


 そんな信茂に、有誠はやや呆気にとられた。

 家中でも勇猛で知られる信茂が、こうもはばからずに恐れを他人に吐露するなど、にわかに信じがたいものであったからである。


「それほどまで……なのですか」

「そちは姫を知らんからな。会えば分かる。会わぬ方が幸せかもしれんが」


 そう言う信茂は、この死地にあってむしろ晴れ晴れとしていた。

 岩殿城にあって、離反を悩みに悩んでいた頃に比べれば、まるで憑き物が落ちたようですらある。


「武田を裏切った穴山殿や木曾殿などは、恐らくろくな死に方はできんだろう。それがしはそのような最期など御免被る。そしてここは死に場所としては申し分無いではないか」


 こうして信茂は新府城にて玉砕した。

 図らずも色葉の存在が、本人も知らぬところでその運命を変えていたのである。


 しかし変わらないものもあった。

 城内から脱出した信勝一行である。


 一行はまず諏訪を目指そうとしたが、諏訪方面は徳川家康勢の包囲が厳しく、これを抜けることが叶わなかった。

 結局は信茂らが進軍して来た郡内方面に逃れるしかなく、やむなく東に向かったのである。


 だがこれも敵中を進むに等しく、苦難を極めた。

 信勝の逃亡に気づいた徳川方の追撃は厳しく、特に大久保忠教隊は執拗にこれを追った。


「二俣城での屈辱を返すは今ぞ」


 天正七年九月の武田勝頼による遠江二俣城攻めにおいて、忠教は兄・忠世と共にこれを死守したが、勝頼に城の内情を悟られたことで猛攻を受け、ついには陥落した。

 この際、忠世の命により忠教は天竜川に身を投げて脱出し、難を逃れたものの、忠世は捕らえられ、その後の生死は不明となったままである。


 兄とはいえ歳の差がかなりあり、親子ほども離れていたこともあったが、忠教は忠世のことを慕っていた。

 そのため武田家に対し、雪辱の機会をこれまでずっと窺っていたのである。


「殿、このまま街道を進んでは追いつかれます。ここは山へ入るしかありますまい」


 信勝に付き従っていた将の一人、小宮山友晴の言を容れ、信勝ら一行は進路を変更した。

 目指したのは天目山である。

 この山は元は木賊山と呼ばれていたが、その山中に創建された棲雲寺の山号がいつしか山の名前として取って代わられ、天目山と称されるようになったという。


 この地は甲斐武田家と因縁が深い。

 今を遡ること百六十年以上昔、応永二十四年。

 甲斐武田氏第十三代当主・武田信満は上杉禅秀の乱に加担し、乱が失敗に終わると追討軍により甲斐に追い詰められて、この天目山で自害。甲斐武田氏は滅亡したのだった。


 その後、紆余曲折を経て信満の子・武田信重が武田氏の家督と甲斐守護職を継承。

 現在に続くことになる。


 そして今、第二十一代当主・信勝もまた、この因縁の地である天目山に足を踏み入れたのだった。


 一行は山麓の田野村に身を隠し、一時の休息を得ていたが、時をたたずして大久保忠教隊に発見され、包囲されることになる。

 この時、信勝に付き従っていた武田方は、僅か四十三名。


 これに対し、忠教隊は後続の友軍と合流して三千余りに膨らんでいた。

 甲斐武田家の、最期の時である。


 信勝に付き従った忠臣らは奮戦し、まず安部宗貞が徳川方に切り込んで討死した。

 しかし武田方の士気は衰えず、続けて小宮山友晴が奮闘。

 特に土屋昌恒は無双の働きをした。


 もはやこれまでと自決の覚悟を決めた武田方が撤退する中、昌恒は一人殿を引き受け、人ひとりがやっと通れるかという崖に面した悪路に立ち塞がると、片手に藤の蔦を掴んで命綱とし、片手で太刀を振るって寄せてくる雑兵を斬っては捨て、斬っては捨てを繰り返し、あるいは谷底に蹴落とすなどしてその犠牲者は数知れず、谷の川は三日に渡って赤く染まったという。


 この鬼神の如き有様は「片手千人斬り」との異名を残し、大久保忠教も大いに賞賛した。

 もしこの場に色葉がいたならば、乙葉に勝るとも劣らない戦いぶりに驚き、その武勇を惜しんだことだろう。


 徳川方の戦死者はうなぎ上りに増加し、実に三百余が討ち取られ、五百余が手傷を負ったというのだから、武田方の力戦振りは特筆すべきものであったことは間違いない。

 ともあれこうした昌恒の時間稼ぎによって僅かな時を得た信勝は、大竜寺麟岳と刺し違え、ついに自決を果たしたのであった。

 随行していた家臣らは討死、または自決し、武田方は壊滅。


 天正九年六月十一日。

 甲斐武田家は再び天目山にて滅亡したのである。

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