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第193話 色葉の憂鬱(前編)


     /色葉


 天正九年六月十日。

 わたしの率いる本隊二万五千余は、信濃深志城へと入っていた。


 飛騨では案の定、晴景は昌幸を見捨てて進軍できず、足止めを食う羽目になった。

 晴景の性格を考えれば予想通りであるが、時間の浪費は痛かったと言える。


 次善策を用意しておいたこともあり、さほど時を置かずして進軍は再開されたものの、数日は時を失った。

 この間に景頼の拠る高遠城は開戦となり、報せによれば信春が討死したという。


「……姫様」


 剣呑な表情になっていたわたしへと、雪葉がそっとたしなめてくる。

 が、どうにもできない。

 わたしの不機嫌は顔いっぱいに広がったままだった。


 それほどまでに、信春の死は不愉快で、面白くなかったのである。

 あれに景頼を任せていたから、ある程度安心していた所もあった。

 しかしここに来て死に急いだらしい。


「年老いて死に場所を求めたか。わたしには理解できないが、な……」


 兵を指揮し、刃を振るっても、わたし自身は武人であるという自覚は無い。

 そもそも武将であるとすら思っていないのだ。


 だが信春などは生粋の武人である。

 その考えが理解できなくても当然だろう。

 そういうものだと思うしかないが、それでも残念ではあった。


「――それで? 高遠城の情勢は」


 わたしは居丈高に、目の前に座る相手に問いを投げかける。

 馬場昌房といい、信春の嫡男で馬場家当主であった。


 信春が言っていたように病弱のようで、顔色も良くない。

 その上、不機嫌極まりないわたしを前にしているのだから、その心労や想像に難くないというものだ。


 が、わたしには関係無いし、そんなことに気を遣えるほど心に余裕があったわけでもなかったことは、昌房にとっての不幸だったのだろう。


「はっ……。高遠城は未だ健在です。幾度か小競り合いはあったそうですが、撃退に成功しています」

「当然だ。晴景様が信忠如きに後れを取るはずもない」


 とは言ったものの、若いが信忠も長年信長に付き従っていただけあって、無能な将ではない。

 さらに言えば、高遠城において晴景と信忠は因縁がある。

 とはいえそれはわたしの知る史実の話だ。


 武田滅亡の際、晴景こと仁科盛信は高遠城にて信忠相手に徹底抗戦し、玉砕して果てたからだ。

 奇しくもこの世界においても、両者は高遠城において相対することになった。


 ……この世界は、わたしの知る史実とは明らかに異なった道を歩んでいる。わたしという存在が搔き乱したのだから、それは当然だ。

 にも関わらず、このようなことがまま起こる。

 常々不思議に思うことではあったが、今は考察している余裕も無かった。


「我々が深志城に入ったことも、じきに織田方に伝わるだろう。いや、むしろ伝えてやった方がいい。二万五千の大軍が来たとなれば、高遠城の城兵と合わせて三万以上。信忠の本隊と対等に戦える戦力だからな。それがここに居座ったとなれば、向こうも迂闊に動けなくなる」

「ではそのように致しますか」

「そうしろ」


 傍に控える大日方貞宗へと、わたしはぞんざいに命じた。

 今回、貞宗は堀江景実と共にわたしの副将として、従軍している。

 貞宗は美濃方面の抑えとして残しておきたくはあったが、武田家の危急に際し、貞宗自ら従軍を望んだのだった。


 貞宗は元武田家臣であるし、思う所もあったのだろう。

 それに道案内にも使える。

 わたしは従軍を許し、美濃方面は隠居した景鏡の尻を叩いて任せることにした。


 郡上八幡城には島左近もいることだし、念のために景鏡には乙葉もつけている。

 信長がとち狂って越前侵攻を図ったとしても、時は十分に稼げるだろう。


「では色葉様。明日にも高遠城目指して進軍を」

「いや」


 景実に対し、わたしは首を横に振る。


「高遠城は晴景様に任す。わたしは新府へ向かう」

「晴景様にご加勢なさらないのですか?」


 雪葉もやや驚いたように、声を上げた。

 意外に思ったらしい。


「ふん。そうしたいのは山々だが、恐らく晴景様がそれを望まない。今や高遠よりも新府の方が危うい。寡兵ながら抵抗しているようだが、いつまでもつか」


 晴景にしてみれば、甲斐武田家を守ることこそが一番の目的である。

 しかし高遠城での戦線が膠着している以上、ここを離れることはできないだろう。


 とはいえこのまま高遠城に固執していれば新府城は落ち、挟撃される恐れが出てくる。

 となればやはり、まず新府を攻めている徳川家康を蹴散らす方が急務となるだろう。


「明日にも出立するが、通常の索敵の三倍は人をやって情報を収集させろ。状況次第では――」

「ご注進申し上げる!」


 慌ただしく足音がしたかと思うと、恐らく馬場家の家臣であろう人物が慌ててこの場に飛び込み、報告をなしたのである。


「苦しゅうない。如何したか」


昌房に促されて、その家臣は驚愕の事実を伝えた。


「はっ……。新府落城にてございまする!」

「なに!?」


 周囲が動揺に包まれる中、わたしは舌打ちする。

 間に合わなかったらしい。


「して殿は如何相成ったか!」

「それが……」

「早く申せ!」

「は……。五月二十八日に徳川家康率いる北条方が新府城を包囲。籠城戦となり、城方の奮戦もあって死守しておりましたが、六月六日、小山田信茂殿ご謀反にて北条方に降り、北条氏照が新府へと進み、到着したのが六月八日でありまする。翌九日に総攻撃となり、ついに落城したとのことなれば」

「小山田殿が裏切っただと……?」


 昌房は愕然としたが、わたしは思わず尻尾を床に叩きつけていた。

 以前ならば板の床を破壊していたであろう尻尾も、今では虚しく埃を巻き上げる程度のものでしかなかったが、わたしの家臣どもはひどく恐れたように身構えてしまう。


「……裏切る輩は本当に裏切るな」


 これは実のところ、想定のことだったといえる。

 史実でも小山田信茂は最後の最後で勝頼を裏切り、死地へと追いやることになるのだが、この世界でもそれに近いことが起こる可能性は考えてはいたのだ。


 とはいえわたしに打てる手が無かったのも事実である。

 現実はやはり甘くないらしい。


「それで、信勝はどうなった?」


 わたしの有無を言わせぬ雰囲気に、その家臣は息を呑み込んだが、どうにか声を絞り出した。


「はっきりとは分かりませぬが、城を脱出したとも……。申し訳ありませぬ」

「ならばすぐにでも手勢を差し向け、お救いしなければ!」


 昌房はそう意気込むが、わたしは楽観できなかった。

 新府から諏訪目指して落ち延びることができたのならば、まだ救いようはある。


 しかし相手は大軍。

 城を包囲していたのであれば、退路とて断っているはず。

 となれば諏訪方面に脱出できたとは思えない。

 例え逃げられたとしても、ろくな場所には逃れていないだろう。

 ならばその生存は、絶望的であると考えた方がいい。


「……戦略を立て直す必要が出てきた。このままでは晴景様も危うい」


 わたしが恐れたのは高遠城への挟撃である。

 もし新府を落とした北条勢がそのまま諏訪に向かうのであれば、即座にこちらも軍を動かしてこれに対応しなければならない。


「景実、すぐにでも兵を動かせる準備をさせておけ。だが迂闊には動かない。情勢がはっきりするまではな。それまで兵を休ませろ」


 一見矛盾した指示ではあるものの、わたしの言いたいことは分かったのだろう。

 景実は首肯し、場を辞したのだった。

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