第176話 安土城急襲
◇
織田信忠率いる美濃衆は姉川沿いに進軍していた。
当初は天野川を挟んで対峙している朝倉方を襲う予定であったが、別動隊が迎撃に向かっていることを察知した信忠は進路を変更。
長浜城を目指したのである。
これは信長もまた長浜城を指向していたからであり、その地での合流を図ったものだった。
「申し上げます! 朝倉勢およそ八千! こちらに向かいつつあり!」
「うむ」
伝令の報せに、信忠は考える。
こちらは一万。敵は八千。
数の上ではやや有利ではあるが、この程度の差ならば互角と考えた方がいい。
「如何されますか」
「一戦交えよう。小手調べだ」
腹心である斎藤利治の問いに、信忠は答える。
「ではそれがしが一揉みして参りましょうぞ」
利治は先鋒として三千の兵を率い、前進。
迎撃してきた朝倉景道の隊、およそ二千と交戦に至った。
両者互角の戦いを演じたものの、先に崩れたのは朝倉方であった。
「追うな。恐らくは本隊を城に逃がすための時間稼ぎ。下手に追えば伏兵に遭うぞ」
利治は兵をまとめ、信忠の本隊到着を待ってから再び前進。
一方の景建はまず長浜城に入り、しばらくしてから景道の部隊が戻るとこれを収容して、固く門を閉ざした。
その後すぐに、磯野員昌討死の報がもたらされ、天野川に残った朝倉方の壊滅を知るところになった。
「景道よ、首尾はどうか」
「織田信忠勢は明らかにこの長浜を目指しています。時を置かずにしてこちらに殺到してくるものかと」
「北に向かう気配は無いのだな?」
「姉川を越える様子はありませんでした」
「よし」
今一番困るのは、このまま織田の別動隊が北上して敦賀を突かれることである。
敦賀防衛の要である疋壇城に残る兵は少ないからだ。
「今に信長の本隊もここに押し寄せてくる。良いか景道。我らの役目はここに織田の主力を引き付けることだ。何としても背後に目を向けさせてはならん」
「心得ております」
「敵を挑発し、攻撃を仕掛けさせよ。それが一番目くらましになる」
「ははっ」
◇
その日の午後のうちに、信長率いる本隊が長浜城へと到着。
信忠勢と合流し、これを包囲した。
「――父上。まずは緒戦の勝利、おめでとうございます」
「うむ」
信忠の称賛の言葉に、信長は頷くだけに留めた。
「敵は思わぬ寡兵だったゆえ、当然の結果よ」
「されど磯野員昌を討ち取ったとか」
「歳をとっても相変わらずの猛将ぶりであったわ。なるほど隠居を急がせたのは、俺の失態であったのかもしれんな」
員昌の出奔の経緯を思い出して、信長はやや自戒した。
「それよりも信忠。一戦交えたと聞いたが敵の数は如何ほどであったか」
「およそ八千程度かと」
「ふむ……?」
それは妙だと信長は訝んだ。
「どうかなされましたか」
「事前の情報では、敦賀に少なくとも三万以上の兵が集結していたはず。しかしこれでは一万程度の兵しかここにはいなかったことになる」
「未だ敦賀にいるのではありませぬか」
その可能性は、ある。
が、兵の逐次投入は兵法の忌むべきところ。
大軍を揃えておきながら、出し惜しみする理由が分からない。
いや、凡将ならばあり得るかもしれないが、相手はあの朝倉の狐だ。
その大胆な軍略は、信長をして警戒せしめる程のものである。
「どこかに伏兵があるのではと思い、警戒してここまで来たが、その様子は無かった。信忠の美濃衆を先に潰そうと本隊を動かしたのかとも考えたが、八千程度ならば違うだろう。二万の兵はどこに消えた……?」
「分かりませぬが……警戒は厳に致します」
「偵察の数も増やせ」
「ははっ。……して、長浜城は如何なさいますか」
「攻め落とせ」
「心得ました」
今のところ順調に事は運んでいる。
にも関わらず、違和感が尽きない。
信長がこの時感じていた予感は、後に的中することになる。
/色葉
「姉様! あれだよね!」
隣で乙葉が指さす先には、安土城の天守があった。
「ふん。豪奢なものだな」
船上にあって湖の風を受けていたわたしは、徐々に近づいてきた目標を前に笑みを浮かべる。
「一番槍は妾! いいよね?」
「お前ばかりを贔屓すると他の者が手柄を立てられないが、まあ今回はいいだろう。奇襲であるし、速度が何よりも優先されるからな」
「うん! ――直隆、直澄、隆基。ちゃんと姉様をお守りするのよ?」
「お任せを」
乙葉に念を押され、直隆が代表して頷いてみせた。
直隆らがわたしの護衛として同行することもあって、今回は乙葉や雪葉を従軍させるつもりはなかったのだけど、乙葉はどうしてもと言って聞かなかった。
わたしのことが余程心配だったらしい。
雪葉も難色を示し、乙葉の同行を後押しした。
どうも二人は事前に示し合わせていたようで、どちらが同行するかも決めていたようである。
それは逆に、どちらかは残ることを甘受していた、ともいえた。
わたしが晴景のために、雪葉か乙葉の両方、もしくはどちらかを残すであろうことを承知していたのだろう。
越前衆の一部をまとめ、北ノ庄を出たわたしは敦賀金ヶ崎にて若狭衆や丹波衆と合流。
しばらく情報収集に努める一方で、琵琶湖沿岸に多くの船を集めさせた。
琵琶湖の北半分は朝倉領であるが、南半分は織田領である。
この船を集めているという情報が漏れないよう徹底させ、一方で朝倉勢進軍の報を意図的に洩らし、織田方の意識を長浜城に向けさせた。
実際に兵の三分の一ほどは、長浜城に入城。
これに呼応する形で、安土城の織田方は佐和山城にまで兵を進めた。
三万余の大軍で長浜に入ったことになっており、信長も安土に集結させていた全軍を進軍させている。
つまり今現在、安土城は空っぽなのだ。
この瞬間を待っていたのである。
密かに大溝城に入っていたわたしは伝令を発し、事前に用意させていた数十隻の安宅船に乗り込むと、安土目指して前進を命令。
わたしの手勢は約二万ほどであるが、これを一度に輸送するには船が足りない。
少なくとも二~三回は往復する必要がある。
そのためわたしの指揮する先陣である奇襲部隊は約八千。
城攻めをするには心もとない兵力ではあるが、しかし安土城ならば話は別である。
この城は山城ではあるものの、防御力はさほどでもない。
籠城用の対策が著しく少ないのである。
これは信長が手を抜いた、というわけではなく、初期の構想が軍事拠点としてではなく、あくまで政庁としての役割を持たせるために作られたものであった、という事情によるものだ。
そして何より、今この瞬間においては兵の大半が出払っており、守るべき者がいないのである。
「とにかく時間が勝負だ。乙葉、後詰が到着するまでには片をつけろ。景建は長浜に信長を引き付けてはくれるが、気づかれれば取って返してくる。長浜から安土は近いからな」
「――全部燃やしてしまえばいいんでしょ?」
「そうだ」
実を言えば、安土城を落とすこと自体に固執はしていない。
落ちようが落ちなかろうが、城下を徹底的に破壊さえできればそれでいい。
これは信長の本拠を事実上壊滅させ、求心力の低下と経済力を削ぎ取ることを目的としたものだ。
「かつて信長は、浅井家との約束を反故にして朝倉領に攻め込んだ。今回もあっさりと和睦を破綻させた。つまりこれは報復だ。皆殺しにしろ。わたしを裏切ったらどうなるか、骨の髄まで知らしめてやれ」
「うん!」
まあ安土を灰燼に帰す名分は、そういうことになっている、ということだ。
全て本心というわけでもないが、本心ではないわけでもない。
朝倉家中には、かつて一乗谷を燃やし尽くされたことを根に持っている者もいる。
復讐心を煽ってやれば、わたしの非道な行いも正当化される、というわけだ。
こうして朝倉勢は安土城に殺到した。