第146話 乳母二人
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乙葉と、そのすぐ後を雪葉がやってきて、その剣幕にやや呆気にとられていたわたしだったが、内容はすぐにも理解することができた。
要するに雪葉がアカシアのことに気づき、しかしそれをアカシアであるとまでは分からなかったことで警戒し、わたしのためにアカシアを殺害しようとしていた、という話である。
そしてそれを知った乙葉が、わたしの元に駆け込んできた、という次第だった。
事前にアカシアの告白があったおかげで、その場を収めることができたのは言うまでもない。
「そっかあ……。それでアカシアってば、しばらくだんまりしていたんだね」
やや気が抜けたように、乙葉がそう言う。
最初の剣幕はすでにどこかにいってしまっていた。
『想定外であったことは認めます』
いったいどんな想定をしていたのかは知らないが、アカシアはそんな風に答えていた。
確かにアカシアと会話ができなくなったのは、わたしの体調がおかしくなったあたりからだった。
アカシアにとっても色々と思わぬことがあったのだろう。
「……わたくしは、例えアカシア様といえども姫様の身を危険に晒したことについては、許容できないと思っています」
一方の雪葉はというと、剣呑なままだった。
事情を知った上でも、アカシアに対して立腹しているようである。
『それについては弁解の余地もありません』
アカシアも素直に謝っているし。
元々雪葉はアカシアが育てたようなものであるし、雪葉にとってアカシアはわたしに次いでの存在だ。
にも関わらずここまで怒っているのだから、これは相当だろう。
前々から雪葉を怒らすとやばいとは思っていたが、どうやらその通りだったらしい。
「雪葉、許してやれ。わたしがいいと言ったんだ。蒸し返すな」
わたしがアカシアを庇うと、雪葉は何ともいえない表情になって、はい、と頷いてみせる。
うーん……。
これはあとで、雪葉に思いっきり色々してやらんと駄目な感じだな。
「ふむ……そうだな」
「どうしたの? 色葉様」
しばし考え込んでいたわたしは、ふと思いつく。
「乙葉。お前に男の方を預けよう。わたしに代わって育ててみせろ」
「え、ええっ?」
驚いたように見返してくる乙葉。
「つまり、妾に乳母になれ、って言っているの……?」
「そうだ」
現代ではあまり無い風習であるが、この時代においては実母ではなく乳母が子を育てることは一般的である。
これは単に育てるだけではなく、教育することも含まれている。
「不服か?」
「ううんっ! で、でも、妾にできるかな……」
「別に好きにすればいい。特に要望は無い」
子が生まれたとはいえ、そこまでの執着や愛情が芽生えたかというと、そうでもない、というのが素直な心境であった。
わたしにとっては雪葉や乙葉の方が大切である。
だから好きにすればいい、というのは紛れも無い本音だ。
「そして雪葉。お前にはアカシアを任せよう。アカシアはどうも世間知らずなところがあるからな。お前が教育すればいい」
「姫様……?」
「それで少しは心配も払拭できるだろう。――アカシア、文句は?」
『ありません』
よろしい。
うん……口にしてから思うのも何ではあるけれど、悪くない案のような気がしてきた。
乙葉はああ見えて情が深いから、案外子育てには向いているはずだ。
一方の雪葉とアカシアの関係は逆転してしまうが、むしろちょうどいいだろう。
雪葉ならば例えアカシアが相手だとしても、気後れすることなく指導できるはずである。
それは今回のことを見ても、明らかだ。
「ですが、姫様のお世話は……」
「あ」
そうだった。
雪葉や乙葉が子の世話に付きっ切りになれば、わたしのことなど構っていられなくなるだろう。
うーん、それはそれで面倒……か?
いやいや、とわたしは頭を振った。
「華渓もいるしな。問題無いだろう」
とわたしが答えれば、
「……ちゃんとするのよ?」
「些細な失敗も許しませんから」
凍えた声が、華渓を突き刺したのである。
「は、はい!」
乙葉と雪葉に嫉妬じみた視線と圧力を受けて、華渓は恐縮したように頭を下げた。
これだと華渓の精神的負担が、とんでもないことになりそうだな。
そっち方面もわたしが手入れしておく必要はありそうか。
これもまたやれやれ、である。
「あ、そうだ。お世話で思い出したけれど、色葉様、お願いがあるの」
「ん、なんだ?」
「丹後で協力してくれた地侍が色葉様にお仕えしたいっていうの。ついでに自分の子を色葉様の小姓にしてくれないかって」
「それはなんだ。直臣になりたい、ということか?」
「そうみたい」
「わたしの噂を知って、そんなことを言っているのか?」
「色葉様にお仕えするのって、とっても大変、とは言っておいたけれどね」
あっけらかん、と乙葉はそう言うが、なるほど乙葉から見てもわたしに仕えるのは大変に見えるのだろう。
それはともかくとして、小姓、か。
今のところわたしには一人、小姓がついている。
身の回りの世話は雪葉や華渓がしているので、小姓とはいいつつも、勉学やら何やらを教えている時間の方が長いような相手ではあるが。
「でもね、そんなことは別にどうでもいいの!」
どうでもいいのか。
ただの前置きだから、と言って、乙葉は望みを口にしたのである。
もっともそれは、とても些細な願いではあったが。
「華渓、寄越せ」
「はい」
華渓が抱いていた赤子を渡すように言えば、丁重に手渡された。
うん……どうにか腕には力が戻ってきたようだ。
こうして我が子を抱き上げるのは、これが初めてであったけれど、重いような軽いような、何とも言い難いものである。
「ぶあ」
赤子が声を上げ、表情をほころばして笑みを見せる。
どうやらこちらの身体では、まだうまく言葉を話せないらしい。
それもそうか。まだ歯も生えそろっていないんだしな……。
「……いいなあ。妾もああしてもらいたいなあ」
などと言うのは乙葉である。
「姫様、お名前は如何されるのです?」
一方の雪葉は、そんなことを尋ねてくる。
名前……そうか、名前か。





