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第125話 家康の覚悟


     /


 天正七年八月十五日。


 朝倉勢一万五千余が丹後国に対して侵攻を開始。

 松永久通を総大将として、丹波衆一万に長連龍率いる能登衆五千がこれに加わり、都合一万五千余の軍勢をもって丹後国を侵した。


 その二日後の八月十七日。

 甲斐の武田勝頼は第二次西上作戦を発動。

 この時勝頼が選んだ侵攻路は、まさに信玄が選んだものと同じものであった。


 まずは武田家重臣・山県昌景率いる別動隊八千余が、信濃を経由して三河へと侵攻。

 目指すは新城城である。


 同時に馬場信春を主将とした五千余の別動隊が、美濃方面に進出。

 目指すは岩村城である。


 ちなみにこの時、信春の補佐を受けた高遠城の諏訪景頼が初陣を果たすことになった。

 諏訪景頼とは朝倉色葉の義弟であり、この時十七歳。

 景頼は勝頼の妹・松姫を正室として迎えており、武田一門となって諏訪家の名跡を継いでいたのである。


 そして勝頼率いる本隊二万余は、甲府から信濃に入り、そこから南下して遠江へと侵攻。

 総計三万三千余の大軍は、かつて信玄がそうしたように、三方面同時侵攻を開始したのだった。


     ◇


 武田のこの動きににわかに危機感を募らせたのが、徳川家康である。

 ついに来るべき時が来た、ということではあったが、しかし達観してばかりもいられない。


 遠江国浜松城。

 家康の居城には諸将が集められ、武田侵攻に対する対策のために、家臣らが頭を悩ませていたのである。


「三河方面はどうか」

「はっ。山県昌景率いる武田勢八千余の進軍は早く、すでに長篠を越え、新城城へと迫らんとしております」


 憂鬱そうな家康に答えるのは、その懐刀として知られている石川数正である。


「やはり長篠の折に、奥三河を奪還できなかったのは痛かったですな」

「そんなことはわしにも分かっておる。しかしどうにもできなかったのだ」


 ややぼやくように、家康は溜息をついた。

 かつて行われた徳川・織田連合軍と武田との一大決戦である長篠の戦いは、武田方の敗北で幕を閉じた。


 結果としては徳川方の勝利であったといえる。

 しかしだからと言って、単純に喜べる結果でもなかったのだ。

 それというのも織田勢はともかく、徳川勢の被害が無視できないものだったからである。


 当時の武田勢の侵攻により、奥三河一帯の諸城は全て落とされ、武田の勢力圏に入ってしまった。

 そして肝心の長篠城は陥落。

 城主であった奥平貞昌は討死した。


 さらに家康を落胆させたのが、筆頭家老であった酒井忠次の死である。


 忠次自身の献策によって行われた鳶ヶ巣山の奇襲作戦は、すでに長篠城が落ちていたことや裏をかかれたことにより失敗し、忠次自身も討死するという結果になってしまったのだった。

 これが家康にとって何よりも痛かったのである。


 また同時進行して行われた長篠本戦では大勝利し、武田方に少なくない損害を与えはしたものの、その追撃戦において徳川勢はそれなりの被害を受ける羽目にもなり、結局奥三河の奪還は果たせなかったのだった。


 当然、遠江方面も武田方に死守され、これに侵攻することも叶ってはいない。

 せいぜい、小競り合いが続いている程度だった。


 しかしここにきて、武田勝頼はついに徳川領に向けて大侵攻を開始。

 そして徳川単独ではそれに対抗し得ないことは、もはや明白だったのである。


「……信康はどうしておる?」

「はっ。若殿はすでに岡崎を出られ、吉田城に向かわれておられます」

「やはり出たか」


 遠江の浜松城を本拠と定めた家康は、かつての地盤であった三河の地を、嫡男であった徳川信康に任せていた。


 信康は岡崎城に入り、天正元年には初陣を果たしてその勇猛果敢な戦いぶりで武功を上げ、将来を期待されている人物でもある。

 信康自身も家康をよく補佐していた。


 しかし一方で、両者に微妙な空気があったのも事実である。

 家康、信康父子は不仲であり、だからこそ家康は浜松に移った、などともささやかれているくらいだった。


 とはいえ数正ですら、その真実を知り得てはいなかったのであるが。


「殿、それがしを若殿の援軍にお遣わし下され」

「ならん」


 数正の申し出は、即座に却下される。


「ですがこのままでは」

「わかっておる。しかしそちは離せん」


 酒井忠次亡き後、筆頭家老の地位を受け継いだのが、数正の叔父であった石川家成である。

 かつて忠次は東三河の旗頭として、家成は西三河の旗頭としてあったが、家成が遠州東部の要である掛川城に転出したことを受けて、数正が西三河の旗頭を引き継いだという経緯があった。


 また信康が元服すると数正はその後見人となり、岡崎との繋がりも深い人物であったともいえる。

 数正は家康が幼少の頃より近侍していたこともあって重用され、忠次や家成に次ぐ地位にあった。


 そして忠次の死により吉田城を任されることになったが、もっぱら家康の傍にあったため城には詰めず、浜松に在ることが多かったといえる。


 ともあれ家康にしてみれば信頼できる側近中の側近であり、おいそれと手放せる存在ではなかったのだ。


「山県は恐らく新城城、野田城を攻略して吉田城を目指し、これを落としにかかるだろう」

「さすれば三河と遠江が分断されてしまいます」


 吉田城は三河支配のための重要拠点である。

 天正三年の武田勝頼侵攻の際も、家康はここに追い詰められたのであるが、勝頼が長篠城攻略を優先させたために難を逃れていた。


 しかし今回、長篠城は先の合戦で大きく損傷し、破壊されたこともあって廃城となっており、もはや存在していない。

 代わりに新たに築城されたのが新城城であるが、ここは長篠城のような天然の要害に守られた堅城、というわけでもなかった。


「こちらの全兵力を差し向ければ撃退もできようが、それでは遠江方面ががら空きになってしまう。敵の主力はこちらを指向しているからな。まずは何としてもこれを追い払わねばならん」


 かつて武田信玄が侵攻してきた際は、別動隊を率いた山県勢は奥三河の制圧と共に進路を変え、遠江へと入って武田本軍と合流している。


 しかし今回、奥三河は最初から武田方であるし、長篠城も存在しない。

 三河衆の援軍を引き付ける意味でも、山県勢は吉田城まで侵攻してくる可能性は十分にあった。


「やはり織田様の援軍頼りですか」

「そうなる。だから信康には無謀をさせず、岡崎城を死守させろ。敵が岡崎に至るまでには時間もかかろう。例え遠江が如何になろうとも、岡崎の信康さえ生き延びれば徳川は存続できる」

「と、殿……?」


 主君のどこか悲壮な覚悟を感じ取って、数正は驚いたように家康を見返した。


「で、では……そのためには吉田城や、遠江さえも捨て石になさると……?」

「そうだな。つまりそちに信康の元に行くなと言うは、わしと一緒に死ねと言っているに等しいか」

「そ、そのようなことは何でもござらんが……」


 現状、徳川と武田の戦力差は圧倒的で、まともに戦えば勝ち目は無い。

 それはこれまでもずっと同じであった。


 それがどうにかここまで存続してこられたのは、信玄の死や信長の援軍に助けられてのことである。

 そして今回も、信長の援軍が頼りとなる。

 しかし情勢は厳しいと家康は見ていた。


 まず織田の主力は京に釘付けになっているという。

 これは丹波を制圧した朝倉勢と睨み合っているからである。


 そのため前回のように信長本人による出陣はあり得ない。

 これを打開するために、柴田勝家による越前侵攻が進められているくらいである。


 一方で信長は恐らくではあるが、濃尾方面を統括させている織田信忠に援軍派遣を命じるだろう。

 これはかなり頼もしい戦力である。


 しかし織田の援軍については勝頼とて心得ている。

 当然阻害してくるだろう。


 そもそもこの時期の侵攻を目論んだのも、京を脅かしている朝倉と連携したに他ならない。

 さらには美濃の信忠を牽制するかのように、馬場信春が岩村城に向けて侵攻している。

 信忠はこれに対処する必要があり、当然徳川への援軍派遣は遅れるだろう。


 となればやはり、勝頼本隊は家康が自前の戦力でどうにかするしかない、ということだ。

 しかしまともに戦えば勝ちは薄いだろう。

 これを乗り切るには情勢が変わるのを待つしかない。


 例え三河との連携ができなくなり、四方を敵に包囲されようとも徹底して耐え抜く。

 その間に信長が朝倉を撃破できれば更なる援軍が期待できるだろう。


 また話によれば、北条が武田の上野方面を狙っており、関東での情勢が北条に傾けば、背後を危うくした武田は撤退に及ぶかもしれない。

 もっとも武田はこれも見越して上杉と友好関係を結んでおり、そううまくはいかないであろうが……。


「ともあれ、此度もまたしんどい戦になりそうだな」

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