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第115話 色葉の戦術


     /色葉


 七月十八日。


 志賀を出立し、堅田へと入ったわたしは再び進軍を停止させていた。

 ここは京に向けて急ぐべき時ではあるが、周囲からみれば実にのんびりとした進軍に見えたことだろう。

 事情を知らない朝倉の家臣どもなどは、首をひねっているはずである。


 わたしが京を目前にして足踏みしていた理由は、二つあった。

 一つは情報の収集及び、後に備えての外交である。


 信長はもう気づいただろうが、今や京は挟撃の危機にある。

 景鏡の率いる丹波駐留軍を陽動としていたこともあって、京の織田勢は身動きが取れない状態のはずだ。


 とはいえ西からわたしの別動隊が接近していることを知った以上、座して挟撃されるのを待つはずもない。

 必ず動くだろう。


 もっともわたしは単なる挟撃などという、温いことを考えていたわけではない。

 三方向からの包囲殲滅戦を目論んでいたのだ。


 別動隊は実はもう一つある。

 それは長連龍率いる能登衆五千だ。


 この隊はわたしが若狭侵攻の際に後詰として率いたが、街道整備のために若狭には至らず途中で停止し、作業をさせてきた部隊でもある。

 そのもう一つの目的は、時が至れば取って返し、北から京を攻めるというもの。


 つまり景鏡が率いる丹波駐留部隊と荒木勢が西より、長連龍の能登衆が北より、そしてわたしが率いる南進部隊が東より同時に攻め寄せる手筈となっていたのだった。


 とはいえこの時代、情報伝達の手段が貧弱であることもあって、遠地にいる友軍と連絡を取りつつ同時攻撃を仕掛けることはなかなかに難しい。

 そのため日時を定めての攻撃ということになっていたが、その時間に間に合うように進軍できるかといえば、なかなかそうもいかない。


 わたしは丹羽を撃破してから頻繁に景鏡や連龍に使者を送り、情勢の把握と攻撃日時の更新を続けてその精度を上げるべくしていたのである。

 もっとも進軍が遅れる可能性があったのが、坂本城を抜かなければならないわたしの隊であったからだ。


「これはわたしの勘だが、坂本城に関わっていては間に合わない気がする」


 堅田近郊に張られた陣の中で、わたしは諸将を集めてそう言った。


「勘、ですか?」


 首をひねるのは副将の一人、鏑木頼信だ。

 頼信は加賀一向一揆の将の一人であったが、最も早くにわたしに通じた将でもある。


「経験、とでも言いたいところだが、あまりわたしには無いからな」


 などと謙遜して言うと、またまた御冗談を、みたいな顔になる家臣一同。

 お前らの方がよほど戦歴があるだろうに……何なんだその反応は。

 まあいいけど。


「かつて朝倉が京に攻め入ろうとした時、宇佐山城を落とせなかったからな。時間も無駄に消費した」


 結局この時の朝倉勢は、宇佐山城攻略を諦めて大津へと進軍し、山科経由で京に入ろうとするも、信長の援軍が到着したことで比叡山へと後退を余儀なくされている。


「では最初から無視して素通りすると?」


 そう尋ねるのは杉浦又五郎だ。


「しかし危険ではありませぬか? 城兵どもに、後背を突かれる可能性も」


 危惧を示すのは窪田経忠。


「あるな」


 あっさりとわたしは頷く。


「突かれると面倒だし士気も下がる。だから素通りはしない」

「しかし坂本城を落としている猶予は無いと……?」


 頼信の言葉に、肩をすくめてみせた。


「なかなか思うようにはいかない、ということだな。三方向からの完璧な同時侵攻は無理そうだから諦める」

「はあ……」


 家臣どもが不思議そうにわたしを見返してくる。

 らしくない、とでも思ったのだろう。


「姫様ならば道理を引っ込ませてでも無茶を通せ、とかおっしゃられると思っていたのですが」


 などと言うのは経忠。


「然様。坂本城など半日で捻り潰せ、とかご下知されようものであるな」


 頼信がそう言えば、如何にも如何にも、と家臣どもが頷き合う。


「お前たち、わたしを鬼か何かと勘違いしているんじゃないのか?」


 半眼になってねめつけてやれば、即座に明後日の方向を向く家臣一同。

 まったく……。


 ……まあ、そういう気分の時も無いではないが、どういうわけか今回は、普段よりもなお慎重にすべきという心持であったのである。


「で、どうされるので?」


 それまで黙って聞いていた景忠が、改めてわたしに尋ねてくる。


「ん、進路を変える。堅田からは南進せずに西へと進み、途中峠を越えて大原を経由し、北から京に入るつもりだ」


 途中峠は京から若狭街道を使って小浜へと至る道において、最初の難所といわれる峠だ。


「急がば回れ、ですか」

「そうなるな」


 この道も京に至る重要な街道ではあるものの、大軍が通るにはやや不向きではある。

 とはいえ丹波から若狭に至るまでの道を踏破した朝倉勢にしてみれば、何のその、ではあるが。


「しかし事が織田に知られると厄介ですぞ。街道出口を封鎖されると、京を目前にして足止めを食うやもしれませぬ」


 景忠の言うこともまた然り、である。


「今のところその気配は無い。大原方面の情報に関しては、山門の連中が協力してくれることになっているからな」

「……なるほど。以前の会見はこのためでしたか」


 納得したように、景忠は頷いた。


「そういうことだ」


 志賀の地にて、わたしは正覚院豪盛なる僧と会見に及んでいた。

 この人物は、元は比叡山延暦寺の僧である。


 延暦寺が焼亡した後、豪盛は甲斐武田氏の元へと身を寄せ、延暦寺の再興を願ったという。

 当時の武田家当主であった武田信玄はこれに応じ、延暦寺の再興を目論んだようではあるが、結局信玄が死去したことで果たされずにいたのだ。


 そして今回、朝倉勢が比叡山に迫ったことを知った豪盛が、武田とも誼のあるわたしを頼り、山門復興の助力を願い出てきた、という次第である。


 この時代の延暦寺といえば、ご多分に漏れず僧兵を擁した生臭坊主の集団であり、時の権力者も何かと手を焼いていた寺社勢力だ。

 最近では信長に焼き討ちにあったが、何もそれが初めてというわけでもない。


 例えば今から八十年ほど前である明応八年には、細川政元が比叡山焼き討ちを行っているし、更に昔の永享七年には足利義教が延暦寺との抗争に至っている。

 寺社勢力は厄介な連中ではあるものの、手綱を握れるのであれば利用価値はあるといっていい。


 ともあれ今回は利用することを選択したわたしは、正覚院豪盛に延暦寺再興を許し、その援助を約束した。

 比叡山は近江と山城に跨いでおり、周辺への影響力は強い。

 これは今回の進軍だけでなく、後々にも役に立つはずである。


「であれば、街道の安全はかなり保障されていると言って良いですな」

「まあ油断は禁物ではあるがな」


 延暦寺の残党だけに頼る気などわたしは毛頭無く、乙葉や雪葉を使って連絡を取り合う使者とすると同時に、情報収集にも努めさせていた。

 他にも複数の使者や斥候を放っているものの、やはりあの二人が一番確実で足も速い。


 ちなみに余談であるが、正覚院豪盛と時を同じくして六角義治との会見にも及んだが、その結果はそのうち分かるはずだ。


「……しかし、色葉様。お加減の方はよろしいので?」

「……ん」


 それとなく、景忠がそのことを尋ねてくる。

 それがわたしが京を目前にして足踏みしていたもう一つの理由、である。


「大したことは無い。少し風邪をひいた程度だろう」


 白状すれば、身体の異変に気付いたのは朽木谷を出た辺りからである。

 妙な吐き気に襲われて、二度ばかり嘔吐までしたのだ。

 体調が悪いような、そうでもないような……自分でもよく分からない症状だった。


 第一この身体になってから、風邪などひいたことすらない。

 食あたりも考えにくい。


 わたしの身体のことを一番良く心得ているアカシアに相談したかったが、今は手元にない。雪葉に預けてあるからだ。

 ともあれわたしの体調が悪いことに、一時は家臣どもが騒然となった。


 大袈裟に慌てるものだから、こちらが呆れてしまったほどである。

 わたしに何かあったら晴景に叱責されるだのなんだの……。


 普段は温厚で家臣からの信頼も厚い晴景であるけど、わたしのことが関わると時に我を忘れて暴走するきらいがある。

 それで以前、失敗したこともあるくらいだ。


「ならばよろしいのですが」


 原因が分からないのは少し気味が悪いけど、今は収まっているし大丈夫だろう。

 わたしのためにもう少し進軍を遅らせるべきという意見も無くはなかったものの、そんな余裕があるわけでもない。

 今は前進あるのみ、である。

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