第105話 開戦
/色葉
「なんともはや……。これはまたお美しい姫君ですな」
丹波亀山城に挨拶に訪れた松永久秀は、上座でふんぞり返っているわたしの姿を見るなりそんな世辞を述べてきた。
ふうん……。
どうやらわたしを見ても、気圧されている様子は無い。
乙葉からの報告通りの男、というわけか。
まあ乙葉のこともよく知っているわけだから、同じ尻尾や耳の生えたわたしを前にしたところで、さほど驚くこともないだろう。
「そうでしょうか」
そんな久秀の世辞は、普通ならば聞き流されるべきもので、単なる挨拶の前文句のようなものである。
ところがそれに否であると反応した者がいたのだ。
「このような小娘、さほどのこともないでしょう。殿には清がおるというのに……あのような狐を美しいなどとは――うきゃ」
口を塞がれもごもごとしていたその女が落ち着くのを待ってから、久秀は溜息と共にわたしへと頭を再び下げたのである。
「無礼をお許しを。この者は粗忽ゆえ、言動を選ばぬのじゃ。戯言と思っていただければ幸いですぞ」
「と、殿――清は――むがっ」
「黙っておると言うから連れてきたに、世話の焼ける娘じゃ全く」
何やらじゃれ合っている久秀と女を眺めつつ、この女がそうかとわたしは納得していた。
乙葉から報告のあった、久秀が飼っているという妖。
名は清。
乙葉本人も悔しそうにしながら認めていたが、単純な妖気ではこの女の方が乙葉よりも上だろう。無論、雪葉よりも。
あの鈴鹿には一歩劣るが、かなりの妖であることには違いない。
その正体は大蛇であるらしいから、まあ堀江景忠と同じ妖ということになるのだろう。
「……色葉様。あれ、殺した方がいいと思う」
わたしの隣で不機嫌そうにそうつぶやくのは、当然というか乙葉である。
あの清という女が久秀と同行していると知った時からずっとこんな調子で、しかもわたしの傍から決して離れようとしない。
命じたわけではないが、乙葉が率先してわたしの護衛を優先させているということは、あの清姫とやらを乙葉が脅威であるとみなしている証拠でもあった。
「ふふ、まあそう言うな」
乙葉の耳を撫でつつ、わたしは改めて久秀を見返す。
「許す。それよりも久秀、大義だったな」
「いやいや。それよりもまずはお礼を。我が孫の命、まさか助かるとは思ってもいなかったものでしてな」
そう言って、久秀は改めて頭を下げた。
「ん、まあ土産のようなものだ」
久秀の嫡男である松永久通には子が二人いたが、その二人は人質として織田家に預けられていた経緯がある。
これは久秀が一度信長を裏切っているためでもあった。
わたしが今回、信長に対して上洛の条件とした久秀の処遇の一任、というものがあったが、これの本当の目的はまさにこの人質を信長から事前に得るためである。
この条件に対して恐らく織田家中の連中は色々と勘繰っただろうけど、久秀の孫どもの引き渡しに関してはあっさりと事が運んだことからも、さほど疑われてもいなかった、ということだろう。
首尾よく信長から人質の二人を得たわたしは、今回それを久秀に返してやった、という次第だった。
これで労せずして久秀に恩を売ることができた、というわけでもある。
ちなみに人質がどうなろうとも、久秀の謀反は揺るがなかったであろうことは断言できた。
史実がまさにそうで、久秀の再度の謀反後、二人の孫は信長によって処刑されているからだ。
だからそこまで大きな恩ともいえないかもしれないが、それでも恩は恩、である。
「今のところは姫の思惑通りですかな?」
久秀が人の悪い笑みを浮かべてそんな風に言う。
「今のところは、な」
わたしもつられて笑みを浮かべた。
「今頃信長などは慌てふためいているのやも知れませぬの。それを思うと痛快痛快」
六月に入って丹波亀山城も基本的な形になったことで、わたしはいよいよ動くことにした。
まずは丹波平定である。
これはずいぶん前から念入りに進めていたこともあって、あっさりと終了した。
この半年で久秀は丹波支配を確実にし、その久秀が全てをもってわたしに降ったのであるから、簡単なものである。
とはいえ事前の準備にひどく手間もかかったのも事実だ。
波多野氏の残党や赤井氏といった反織田家の国人連中を、久秀を中心として協調させることに、あれやこれやと骨を折ったからである。
それでも一兵も損なわずに丹波を併呑したのであるから、安いものか。
これまで戦によって他国を侵攻して併呑してきたが、今回はほぼ謀略のみで一国を得たのである。
これは今後においても大いに参考すべき成功例だろう。
「で、このまま京に攻め入られるので?」
織田が慌てふためいている理由は、まさにそれである。
ここから京は目と鼻の先。
そしてこの機を狙ったこともあって、織田家の各軍勢は畿内各地に散っており、京は手薄である。
それに対してこちらの兵力は、久秀の丹波衆を加えれば六万ほど。
圧倒的優勢である。
「そう思うのか?」
「いやいや」
試しに聞いてみると、すぐにも久秀は首を横に振ってみせた。
「もしそのおつもりならば、ここにこれほど強固な城を築いたりせず、すでに京に向けて進軍していたことでしょう。されどその様子は無い。となると、姫は長期戦を想定しているということではないのですかな?」
「ほう?」
やはりこの男、伊達にこれまで生きてきたわけではないらしい。
年老いても頭はまだまだ回るようである。
まあ久秀には若狭方面についても調べさせていたから、分かって当然かもしれないが。
「京には攻め入る。が、少し後だ」
「ふむ……。やはり若狭を最優先にされるおつもりのようですな」
その通りである。
丹波を得たとはいえ、朝倉の本国とは分断されたままである。
これではあまりに都合が悪い。
これを解消するには何が何でも若狭を奪取する必要があるのだ。
「兵糧はこれまで丹後経由で海から運ばせたものが大量に丹波に備蓄してあるから、一年以上は事欠かない。が、それでも退路が無いというのは士気にかかわる」
「然様ですな」
今ならば容易く京を落とせるだろう。
京を守備する織田勢は少なく、これを駆逐するのは簡単である。
が、問題はその後だ。
京を失陥して信長が黙っているはずもない。四方八方から奪還のために侵攻してくる可能性は高い。
そして京は守り易い土地というわけでもなく、この防衛は至難となるだろう。
兵力的に負けはしないかもしれないが、泥沼の消耗戦に突入する可能性が出てくる。
そうなると、経済力や兵站の面で分のある織田が有利なことは考えるまでもない。
つまりここで目先の利に走って京を狙うことは、愚策なのである。
「いいか久秀。お前は荒木村重と連携して京を脅かせ。これを陽動としている間に、わたしは若狭に向かう。幸いにして若狭の丹羽は京に入っているから手薄だ。これを一気に叩き潰す。そしてすぐに南下して京を東から攻める」
「その時我らは西より……ということですか。しかしということは、やはり京を攻めるのですな?」
「ああ。火の海にしてやろうと思っている」
何気なく答えた一言に、久秀がぎょっとした顔を見せたことは少し意外だった。
「それはまことに?」
「ん? 大仏を燃やしたお前が何を驚く?」
「あれは失火なのじゃが」
またその話か、とばかりに久秀は苦く笑う。
どうやら今まで事あるごとに言われ続けたらしい。
「……まあ、火の海になるかどうかは状況次第であるがな。とにかく織田とは一度決戦に及ぶつもりだ。それが京の都であるというだけのこと」
「勝てるとお思いで?」
「さてな。別段勝つ必要も無い。都が火の海となれば、それは信長にとって戦略的な敗北に等しい。何しろ京を守れなかったのだからな?」
これで織田の武威はいくらか低下することだろう。
そしてその後、朝倉が京を維持する必要は無い。
後始末は織田にやらせればいいのである。
「公家どもに恨まれませぬかな?」
「事前に避難はさせる。金銭的な手当もしよう。朝倉につくというのなら、いくらでも貢いでやってもいい」
そのために、事前に公家への接近を図ったのである。
中にはわたしに興味を示した連中もいたわけだから、状況次第では朝倉に加担してくる者も出てくるだろう。
さほど期待はしていないものの、やらないよりはいいというものだ。
「なるほどのう……。想像していたよりも遥かにあくどくていらっしゃる」
「そうか?」
「ふふ……。姫はなかなかの悪でありますな」
「お前に言われたのでは光栄と思うべきなのだろうな」
くつくつと笑いながらお互いに邪まな笑みを浮かべる様に、周囲が思い切り引いていたとのことで、後で雪葉に叱られたものである。
やれやれ……。
/
天正七年六月十四日。
朝倉色葉は丹波の領有を宣言した上で、その軍勢を山城国境まで進ませた。
その陣容は、以下の通りである。
先陣:五千余騎 大将・松永久秀
副将・松永久通
副将・岡国高
副将・土岐頼次
本陣:一万余騎 総大将・朝倉景鏡
副将・堀江景実
副将・朝倉景忠
副将・山崎長徳
副将・向景友
後備:五千余騎 大将・姉小路頼綱
副将・神保長城
副将・椎名康胤
久秀の丹波衆を先鋒に、景鏡率いる越前・加賀衆を中核にして、また後備には頼綱ら越中衆という布陣で総勢二万余の軍勢が、京へと迫ったのである。
また一方で、色葉率いる本隊が若狭へと密かに侵攻した。
その陣容は、以下の通りである。
先陣:一万余騎 総大将・朝倉色葉
副将・本多正信
副将・北条高広
副将・北条景広
二陣:五千余騎 大将・山崎景成
副将・朝倉景嘉
本陣:一万余騎 大将・堀江景忠
副将・鏑木頼信
副将・岸田常徳
副将・窪田経忠
副将・杉浦又五郎
後備:五千余騎 大将・長連龍
副将・神保氏張
副将・小浦一守
総勢三万余の軍勢は色葉自ら総大将として名乗りを上げ、更には先陣を切ったのだった。