涙の29度よ、さようなら
好きな人は今までに何人もいたけど、自分の限界を感じて自ら身を引いた。明日葉は、祐奈は自分に自信がなさすぎだというけれど、どうしても私は、異性から愛されないと感じてしまう。
何もない所でつまづいたり、転倒したりしている。机の間を歩くと、手に筆記用具が引っかかって、わざとではないのに落としてしまう。周囲からは天然ちゃんだと思われている。そんな自分が嫌だった。他人が自分に何を求めているのかわかるから、女を捨てて芸人ぶってみたりした。過激な自虐ネタで笑いを取った後に、
自宅に戻り、一人でいる自分に襲いかかるのは、理想の自分の果てしないダメ出し。
自分の不甲斐なさに、理由を求めたくて、占星術師の門をたたく。「7ハウスの金星が涙の29度だから、恋をしてはダメよ」と教えられた。以来、私は理想の自分を硬い殻に押し込めて、道化道をひた走る。
「祐奈、無理しなくていいよ。自然体でいようよ」
「いいからほっといてよ。笑いを取るしか道がないんだから」
二年A組のトリックスターとして、新ネタの努力に余念がない。お団子ヘアをツインにしてキャラ立ちを際立たせる。女子グループに交じる男子は、私を異性として見ていないことがわかる。中には好きな人もいたけど、口を開けて指をさして笑っている姿を見ただけで恋心はもろくも崩れた。
「祐奈、隣のクラスの男子が見に来てる」
明日葉に教えてもらって、芸をやりながら引き戸に視線を送ると、中肉中背のストレートヘアのメガネ男子が笑うでもなくこちらを注視していた。すぐに脳裏から消し去って、皆を笑わせる珍妙なダンスを踊る。
道化に疲れて、素の自分に戻り、掃除当番を終えて、帰宅しようとすると、先ほどの男子が待ち伏せをしていた。私は驚いて、二三歩後ろに下がった。
「笑わせようとしている君より、普段の君の方が素敵だと思うよ」
あれ、口説きに来たかと思った。急だったので警戒する。
「急に声かけてごめんなさい。二のBの川島です」
「あ、あ、そう」
自分を芸人としてしか見ない男子がほとんどだったので、上ずった返事をしてしまう。本番前の地の姿を見られているみたいで、ぎこちない対応しかできなかった。
「カバンの口開いてますよ」
「あ、そう。ごめんなさい」
慌てた私は、手が滑ってカバンの中身を全部ぶちまけてしまった。散乱する教科書やノート、こっそり持ち込んだネタノートにお守り、川島君のきしゃな手が、教科書をまとめて、詰め込んでくれた。
「あの、私もう帰ります」
カバンの中身を詰めて、慌てて立ち上がろうとした私は、何もない所で足を滑らせて盛大に転んだ。
「あいててて……」
「大丈夫ですか。保健室まで行きましょうか」
「いえ、おかまいなく」
初めてであった人に、思いっきりドジなところを見せつけてしまって、恥ずかしくてたまらなかった。すぐその場からはけようとしたら、手を差し伸べられた。
「いえ、大丈夫です一人で立てますから」
「無理に受けようとしなくていいんですよ」
「いや、今のは狙っていたのではなくて」
本気で心配してくれてると気づいて顔が赤くなった。この人になら本当の自分を理解してもらえるかもと思った。しかし、心の奥底で呪いの言葉がつぶやかれた。
(涙の29度っていうのよ。恋愛してはいけないの)
その言葉を噛みしめて目をつぶった。そうなんだ私みたいなドジっ子は、浮かれててはいけないんだ。どうせ恋仲になっても、私の失敗で迷惑をかける。そしてまたみんなに笑われる。
「何かあったんですか」
川島君が心配そうに私を覗き込んだ。柔らかそうな指先が、前髪をたくし上げた。
「怪我がないみたいで良かったです」
「どうもありがとう。でも……」
「でも、って何ですか」
「私といると大変だよ」
「大丈夫です。全部受け止めますから」
意外な返答に驚いて、今までの思いが堰を切ったように口に出た。
「ほら、私おっちょこちょいで、すぐ物を壊すし、色んなものはなくなるし、うっかりミスは多いし……」
「それがどうしたっていうんですか」
川島君の言葉を聞いていると、今まで不安だったことが、溶けゆく綿あめのように消えていく。
はっ。安心してはダメだ。私は涙の29度の女なんだ。
「好きになられる資格なんてないよ。涙の29度の持ち主だもの」
「聞いたことがあります。失恋を繰り返す度数ですよね。でもその伝説は今日で終わりです」
胸が期待と熱情で熱くなった。芸人からの開放感で心が軽くなった。
「もう無理して笑わせなくていいのね」
「素直な自分のままでいてください」
私は思った。「涙の29度よ、さようなら」と。