九十二話『あんたは狂っている!』
「なんだ。意外にあっさりだったな。実験とは大違いだ。これも最高級の万能薬のおかげか」
「兄貴……」
白雨の左腕は魔法薬の効力か、塞がっていた。
そしてその左手で、礎の宝石に触れる。
「これで魔法陣の改竄は済まし、契約による制限からも放たれる」
途端に白雨の髪色が変化した。それは、白雨の力の覚醒を意味する。
そこで魔法防壁を解除して白雨は続けた。
「ふぅ、ひとまず一段落だな。これで父親が勝とうと、非禁禁忌教の奴らが勝とうと、俺は逃れられる。だがまだ勝てはしないか……。父親を死に追いやろうにも、非禁禁忌教の奴らを根絶やしにしてやるにも、琥珀を守るためにも、その琥珀に酷い事をしたグリムソウルを殺すためにも……俺は次のステップに進まなければな」
そんな白雨にロゼが歩み寄って言った。
「おめでとうございます! あなた様!」
「あぁ、ありがとう。お前も喜べ、琥珀」
「……なんだか今のハイドラ様、好きじゃない」
「まぁ、親殺しを良く思わないのは分かる。だが、いずれお前も分かってくれる時が来るだろう」
琥珀は白雨には聞こえない程度に呟く。
「分からないよ……」
その中で時雨は拳を握って言った。
「あんたは狂っている!」
「違うな。ハイドラが狂っているんだ」
「お前と一緒にするな!!」
そして時雨は駆け出した。
合わせて白雨は片手を広げた。
「契約に基づき命じる。時雨よ。その場にひれ伏すが良い」
途端の出来事だった。時雨が勢いを残したまま跪き、腹を床で擦るように倒れ込んだ。
それでも時雨は抗う。唯一動く口で、精一杯の罵声を浴びせる。
「ふざけるな!! クソ野郎が!!! お前の自己中に琥珀ちゃんやロゼちゃんをこれ以上巻き込むな! 死ぬなら一人で死ねよ!!」
それを見て腹を抱えて笑う白雨。そのまま白雨は、目前で時雨自らが床に擦り付けている頭部を靴底で押さえ付けた。
そしてそれを見ていた琥珀は、白雨の表現に震撼する。
あろう事か、白雨は楽しげだった。口角を吊り上げて、満面の笑みを浮かべていた。
「時雨よ。お前が俺の屋敷に訪れ、琥珀と無断で契約を結んだ時、本当はお前を殺すつもりだったんだ。そしてその際、俺はこう言ったな。強さと残虐さは比例しない。俺も前言撤回しようと思う。言ってる意味、分かるな?」
時雨の顔が強張る。黙って兄を横目で睨んで、表情をうかがうしかなかった。
そこで琥珀は、自分が震撼した理由を理解する。
それは恐怖によるものでは無く、怒りから来るものだった。
あっさりと兄弟までも手に掛けようとする白雨に、琥珀は腸が煮え繰り返る思いだった。
「ハイドラ様! それ以上続けるのであれば、私はハイドラ様と今後一切、口も聞きませんよ」
「……だったらこの場での記憶を消すまでだ」
「……ハイドラ様は変わりましたね。一時的に戻ってきた力の味を占め、力に固執し、力に溺れているのです。かく言う私もグリムソウルによって力を与えられた身ですから、気持ちが分からない事もないです。が、それは家族を手に掛ける理由にはならないのです」
「それで琥珀、お前はどうすると言うんだ?」
「私は……。ハイドラ様が弟様を殺すのを止めないと言うのであれば……あなたと戦います」
「契約に縛られている身で……か?」
白雨は時雨を押さえ付ける力を強める。それに伴い、時雨は悲痛な叫びを上げた。
「どうしてあなたは、人の気持ちが分からないのですか!」
琥珀が駆け出す。
白雨は意気揚々として言った。
「契約に基づき命じる。琥珀よ。お前もその場にひれ伏せ」
またしても時雨同様、琥珀は勢いを残したまま跪いて行く。
しかし時雨とは決定的に違う事があった。
それは、琥珀はそのまま床に手を着き、そのか細い腕で上半身を支える事に成功していた。
そしてあろう事か、バネのように跳躍し、その勢いを利用して白雨の頬を蹴り飛ばしたのだった。
よろめく白雨もそれには思わず怪訝そうな表情を浮かべている。
「なんだと……? なぜ我が契約の縛りから逃れられる……!」
「別に初めての事では無いのです!」
琥珀はそこで追い討ちを掛けるように跳び跳ねると、そのまま白雨の胸ぐらを掴み、床に押し倒した。
白雨にはまだ余裕がある様子だった。
「琥珀……貴様、俺を裏切るのか……!」
「先に私を裏切ったのはハイドラ様です! たまたま生き残っただけで、私もメイド達と死んでいてもおかしく無かった。そうしないとハイドラ様が死んでしまっているのは分かっています。でも……だからってそれは私があなたを許す理由にはなりません。そして極めつけはグリムソウルの協力を受け入れた事です。これを裏切りと言わずして、何を裏切りと言うのですか……!」
「まだ気にしていたのか。実に残念だ。俺が目を掛けてやったと言うのに……。まぁ、代わりは探せば良いか。この際、ロゼも居る」
「……っ! クズですね」
白雨を睨むようにして琥珀は言った。
そして後悔する。この男と契約に至った過去を。
別に特別な理由はない。スラム街で生き残る為、グリムソウルと契約に至ったが、その力と魂を貢ぎ物にしなければならないと言う代償に嫌気が差していた所、この男白雨ハイドラに声を掛けられた。
聞けばスラム街での生活から救ってくれると言う。
しかし琥珀には一つ目的があった。
それは自身を捨てた親と再会し、一言だけでも良いから話す事。そして願わくは、自分を捨てた理由が知りたかった。そこに復讐心は無い。純粋な願望だった。
そしてそれを白雨に伝えた所、その場を設けるため、協力してくれると言う事だった。
しかし琥珀の目には、どう見ても軽い発言に写っていた。だがそれでも、今のままよりは機会に恵まれると思って契約に至ったのだった。
実際の所、目に写った通りだった。契約を結べばこっちの物だと言っているような指示や命令。
間違った判断だったと解約を望んでも、それは出来ないの一点張り。挙げ句、捨て駒のような扱い。
一時はそんな男でも信じてみようと思ったが、やはり好きには慣れなかった。自分が自分を見失っていた。
そうして睨む琥珀を、白雨は片手で吹き飛ばす。
「なんとでも言え。もうお前にも興味は失せた」
「……!」
これで踏ん切りがついた。心置き無く、この男を嫌う事が出来る。
「琥珀……。最後に聞いてやろう。俺が俺に取って都合の良いようにお前の記憶を弄る前にな。……俺はお前が好きだ。だから、従順になって、俺と共に来い!」
「戯れ言を……!」
「そうか。残念だ。我、契約に基づき命じる――」
白雨が琥珀へ手を伸ばす。
しかしそこへ割って入るように、時雨が叫んだ。
「――残念なのはお前だっ!! 兄貴!! お父さんがここへ戻ってきたようだ!!」
「なにっ!? くそっ! 予想よりも早かったな……!!」
皆が一斉にエレベーターへ視線を移す。そして開かれる扉から姿を見せたのは……二人の人物だった。
その異様な光景に皆、目を疑った。




