八十六話『来ないでください!』
「ふぅ……疲れたな」
歩きに歩いて日は暮れ、ここは今やハイドラ領の一部となってしまった元ファフニールアルファ領の宿の部屋。
宿の主人はハイドラ家の者と強制的に契約を交わさせられ、ここで一生奴隷のように働かさせられる事になるだろう。何故なら、そうしないと家族と共に虐殺させてしまうから。それが、暴君と呼ばれるハイドラのやり方だった。
そしてそこの一息子である白雨ハイドラは従者との相部屋にて静かに言った。
「なぁ、琥珀よ。いつまでそうしている」
部屋の椅子に腰掛ける琥珀は何も答えない。
ベッドの端で楽な格好で足を組んでいるハイドラは、すこし立腹した様子だった。
「いい加減にしろよ。お前。さっきからなんなんだ、その態度は」
首を回してハイドラを睨むように琥珀は答える。
「……なんでしょうか」
「こっちに来い」
そこで琥珀は溜息をついて首を元に戻すと、冷たく言った。
「嫌です」
「では俺が行く」
ベッドから立ち上がるハイドラ。
琥珀もそこでテーブルを叩くようにして勢い良く立ち上がる。
「来ないでください!」
「なぜだ?」
「なぜ……? 逆になぜ、そんな事を聞くのですか? 分からないのですか?」
「分からんな。何を怒っている? 話してみろ」
「……ハイドラ様は私に酷い事をしたグリムソウルが許せないと仰って下さいました。なのに……何の躊躇いも無くグリムソウルの協力に乗ったんです。結局はその程度の言葉……。だったらそんな薄くて軽い言葉、初めから言わないで下さい……!」
「やはりそう言う事か。……お前はもう少し合理的になれ」
「ハイドラ様が利己主義過ぎるんです」
「仕方ないだろう。あの状況ならば。捕まる訳にもいかないだろう?」
「捕まった方がマシです。そして牢獄の中で……そんな中でもあなたを信じていれる事の方が、琥珀は幸せでした」
琥珀はそこでまた椅子に腰掛ける。
失望を通り越して、本当は既にどうでも良かった。出来れば構って欲しくない。面倒くさい。
この男に心を許しかけ、嫌な思い出を忘れる為の慰めとはいい、体を許した自分が今度は許せなかった。
自分から誘っておいて実に勝手なのは理解している。
それでも後悔の念はやはり消えはしなかった。
琥珀が拳を握りしめて過去の過ちから来る自分への怒りを抑えていると、ハイドラは唐突に
「なぁ、時折自分の事を名前で呼んでいるが、可愛いと思っているのか?」
こんな事を言い出した。
それには琥珀も、驚愕するしかなかった。
よくもまぁ、こんな状況でそんな事が言えるな。と、琥珀は思わずハイドラを睨む。
「は?」
「いや、は? じゃなくて」
「私を煽っているんですか?」
「利己主義過ぎるのだろう? 俺は。だから、こうして利益に繋がらない事をした方が良いのかと思ってな」
「屁理屈がお好きですね」
「屁理屈は立派な理屈だからな?」
そこで琥珀の堪忍袋の緒が切れた。再び勢い良く立ち上がると、先程よりも強くテーブルを叩く。
「いい加減にして下さい!! あなたは何がしたいんですか!! もう構わないで下さいよ!! 私に嫌われたいのですか!!? だったらもう間に合ってるんですよ!! このペテン師が!!」
息を荒げる琥珀。
そして落ち着いてきた所で、少し冷静になれたのか、ハイドラから視線を逸らして続けた。
「言い過ぎました……。すみません……ハイドラ様」
「……そうだな。それは少し言い過ぎた」
「申……し訳ございません」
「だがまぁ、自分で言うのもなんだが、俺は確かにクズだが人の気持ちを汲む事が出来る人間だと思っている。それを踏まえた上で俺は他人のその思いを踏みにじる。そんな人間だ。だからお前の気持ちも分からんでもない」
「そうですか……。でしたらもうほっておいて下さい」
「はぁ……分かった。だが今から言う事は忘れるな。いいか? 俺は本当にお前が好きで大切だ。お前は牢獄で俺を信じている方が幸せだと言った。だが俺はそう思わない。なぜなら俺にはもっと幸せなビジョンを……未来を思い浮かべているからだ。そしてその為には手段を選ばない。グリムソウルの協力に乗ったのも、あくまでも利己主義になったまで。お前を苦しめた奴の協力なんて俺だって良い気はしない。分かるだろう? いいか? もう一度言う。俺は本当にお前が大切だ。俺だって、悔しい思いを堪えた結果なんだ。それは分かってやってくれ」
「……」
琥珀は何も答えない。
そうしてベッドに向かっていくハイドラの背をぼんやりと眺めるのみだった。




