七十七話『ですので……今はこの幸福感に溺れていたいのです』
朝。目を覚ました琥珀は重たい上半身を起こした。
ベッドから温かい空気が逃げ、朝のひんやりした空気に素肌が晒される。それが火照った体を冷まし、肌寒くも心地好かった。
窓からは朝日が差し込み、空気中の塵を疎らに映し出す。
耳に届く鳥の囀りが徐々に鮮明になっていき、琥珀は意識の覚醒を自覚した。
「朝……? 私は……」
隣を見下ろせば、夜を共にした男が眠っている。
そしてその寝顔を眺めては、昨夜の事を次々に思い出し、頬を自然と染めてしまう琥珀。
そして溢れだす羞恥を抑えきれないと言った様子で唸る。
「うー……わー……」
どうして昨日はあれほど大胆になっていたのか。自分の事ながら不思議だった。
そして固い女と自負していただけに、幻滅の思いもある。
一度経験したのだから、二度しようが同じ。そんな自暴自棄にも近いものもあった。
結局自分は、意思が強いと思っていただけの軽い女。スラム街で見下してきた女と同類。
嫌悪感が胸の中で、ぐるぐるぐるぐるぐるぐると回る。
「はぁ……」
琥珀はその嫌悪感を吐き出すように大きな溜め息を付いた。唐突だがシャワーが浴びたい。
昨日の汗でベタベタのままの肌を冷気に晒しすぎたのか、一気に冷え込んでいく。
動こうにも腰が痛かった。ついでに喉も痛い。そしてそれがまた、昨日の夜を鮮明に思い出させ、そうした嫌悪感はさらなる嫌悪感を呼び込み、一番思い出したくない不快感をも呼び覚ました。
琥珀は自分の秘部に触れて呟く。
「うっわー……。ぐちょぐちょ……」
そして良い臭いがするとは、とてもじゃないが言えなかった。
そんな事よりも、一刻も早く流しに行かねば……。と、琥珀は布団の誘惑に負けてしまう前に、ベッドから立ち上がった。
ツー……と少しの粘りけを残す液体が太ももを垂れ下がってくる感覚が不快な鳥肌を立たせる。
「ハ……ハイドラ様。お先です」
ベッドで爆睡するハイドラに一礼すると、琥珀は浴室へと駆け足で向かった。
「おはようございます。ハイドラ様」
それが目を覚ましたハイドラへの最初の挨拶だった。何の変哲もないただの朝の挨拶。
しかしそそくさと部屋の片付けをする琥珀の表情はどこか悩ましげだった。
ハイドラはその様子を呆然と眺め、琥珀の表情に疑問を抱きながらも返事をする。
「あぁ……おはよう。琥珀」
はっきり言ってハイドラの目覚めは実に気分の良いものだった。だけに……琥珀とのテンションの違いに、ハイドラは不安になる。
「琥珀……」
「なんですかー?」
衣服を畳んで、部屋のあちこちを行ったり来たりする琥珀は、その歩みを止めてハイドラを見つめた。
可愛く首を傾げるが、やはりどこか浮かれない表情をしている。
「……後悔しているのか?」
「してませんよ?」
「では、その後の事を考えているのか……? もし……もしお前が昨日の行為によって……その……そう言う状態になったら……責任はきちんと取るから……」
「そう言う状態とは……私が孕んだら……と言う意味ですか?」
琥珀は真剣な表情でハイドラを見つめる。
ハイドラはわざわざ表現を濁して言ったのに、琥珀はあえて直接的な言葉を選んできた。
覚悟の差を感じるハイドラ。真剣に話すなら、そこは濁すべきでは無かった。
そうしてハイドラが返事をする前に、琥珀は続けた。
「……だとしたら責任は私にもありますよ? 最後まで拒む事もせず許したのは私ですし、そもそも誘ったのも私ですから」
そこで琥珀は「それに……」と口ごもるように視線を逸らすと、改めてハイドラを見つめ、続ける。
「幸福感はありました。……だから私は後悔している訳では無いのです。ハイドラ様の仰る通り、少し未来の事を考えて不安になってました。でも……責任を取る……そう言って頂けて琥珀は……安心出来たのです」
何か特別凄い事を言った訳ではない。しかし自分の気持ちをしっかりと伝えられる琥珀に、ハイドラは素直に感服する。
「俺も……軽率だった。不安にさせてしまってすまない」
「いえ……」
そこで琥珀は、部屋に備え付けられいる鏡を呆然と眺めた。
ハチミツのような色のくすんだ瞳と目が合う。……本音を言えば、どこか心の奥底では「大丈夫だろう」と軽視する自分が居た。
そしてそれを自覚して気付く。既に自分は狂ってしまっている、と。
確かに不安は不安だが、そこまで重く考えていないのも事実。が、裏を返せばそのおかげで平然を装う事が出来ている。
きっとなんとかなる。なんとかならなくとも、その時考えれば良い。そんな怠惰とも言える現実逃避が、逆に今では琥珀の生命線だった。
だってそう思わないと、狂乱を越えて壊れてしまいそうだったから。
今は目前の快楽にすがって、犯された過去を忘れたかった。
琥珀は徐にパジャマのボタンを外し出すと、それを軽い音を立てて落とし、ベッドの上のハイドラに覆い被さりながら囁く。
「ハイドラ様。あなたで良かったと心から思います。ですので……今はこの幸福感に溺れていたいのです」




