十八話『てっきり私の体が目的なのかと思ったよ』
学園を離れて数日。
知らない土地を琥珀は、彷徨うよに歩き渡っていた。今夜も小さな公園を見つけては、そこで野宿をする。
幸いこの地方の気温は温かく、公園内では美しくも儚げに桜が咲いていた。
「ここにしようかな」
手頃なベンチを見つけ、琥珀はそこに腰掛ける。しかし暖かい地方とは言え、どこか肌寒く、小さく縮こまる琥珀が、そのままベンチの上で横になるのにそう時間は掛からなかった。
闇夜の中の輝く朧月が琥珀の顔を淡く照らす。
「何してるんだろ。私」
仰向けになる琥珀は、その月を隠すように片手を上げた。
あれから夢の中で白雨に出会っていない。そうしない理由があるのか、あるいは接触してこれないのか。どちらにしても、白雨に対する興味など既に残されていなかった。
そしてグリムソウルとも接触していない。人間とは不思議な物で、あれほど怨んだ相手でもこうして会わないと意外にも忘れていけている事に、琥珀自身も驚きが隠せなかった。
このまま何事も無く過ごせるのではあれば、それでも構わないかな。そんな思考が脳内を過る。元よりスラム街で過ごした自分にとって、今の状況はさほど苦に感じなかった。
しかしそれでも溜め息は出る。
「はぁ。お腹空いたなぁ」
何気なくそう呟いた時、何者かが自身を見下げている事に気が付いた。振り上げている手を降ろしてその人物を改めて確認すると、それはただの小汚ないおっさんだった。
「私に何か用?」
起き上がりもせずに琥珀は尋ねる。
「いやー。珍しい客が居るもんだと思ってなぁ」
「あぁ。ここあなたの縄張りなのね?」
スラム街では、なんら不思議な事では無かった。自分の土地でも無いのに、自身の縄張りを主張する輩。そうして誰の物でも無い縄張り争いをしている底辺の人間を琥珀は何人も見てきた。しかし今は体力的にもそんな不毛な争いは避けたい。そんな事を思い琥珀はそこで初めて起き上がると、改めて浮浪者を見つめて言った。
「それで? 私はどうすれば良い? 一晩だけここで朝を迎えようと考えていたけれど、それも駄目?」
「そうか。だったらゆっくりしたら良い」
「ありがと」
別に礼を言う筋合いは無い。が、こうする方が円滑に物事は進む。そこに自尊心は必要ない。
琥珀は改めて寝転ぼうとするが、先に浮浪者が隣に座った。
非常に面倒くさい展開である。が、浮浪者の次の行動でその考えは変わった。
「腹、減ってんだろ? これでも食うか?」
ベンチに腰掛ける琥珀と浮浪者の間。そこに浮浪者は、少し乱暴に白い袋を置いた。
琥珀は浮浪者の顔を見て首を傾げる。
「これは何?」
「この辺は学園が近い事もあってか、観光にくる貴族や旅人が良く訪れる。二十四時間営業してる便利な店も多数あってな。こうして飲み物や、あったかーい食べ物を置いてくれてるんだ。ま、見てみな」
そう言われて琥珀はガサガサと袋を開ける。
するとそこにあったのは簡易的な器に入ったあったかーいおでんと、冷えた飲み物だった。
ごくり。と唾を飲み込んで思わず喉をならしてしまう。
「食べても良いんだぞ」
そう言って浮浪者は煙草を口に運んでいく。
その言動から、浮浪者の中でもかなり余裕のある方なのだろう。
しかしだからと言って、見返りも求めずにただの善意でこんな好意を向けているとは到底思えない。それも見知らぬ相手に対してだ。
だったら目的は一つしか有り得なかった。
「何が目的なの?」
率直に聞く。回りくどい探り合いなど、ただの時間の無駄。
この浮浪者の目的は恐らく、女の体だろう。これもスラム街の常習。美人だとかブスだとかは関係無い。住む場所は違えど、本質はどこも同じ。それが世の常。
だからこそ欺くも逃れる事も容易い。こればっかりはスラム街で生きてきて良かったと心から思える。
「目的なんて別にねぇよ。ただの暇潰しだ」
琥珀のストレートな問いに、浮浪者は呆然と前を眺めて微笑んだ。
直接的な取り引きはしないで、まずは距離を縮める作戦か。と琥珀もここは微笑みを返す。
まずは同情を誘って信頼を得てから行為に及ぼうとする浮浪者も少なく無い。そうする方が継続的に行為に及ぶ事が出来るからだ。
パッと出の自分に対しては不向きの作戦だが、距離を縮めるのも奴の暇潰しの一環だと言うのであれば、それも頷ける。
「良かったー。てっきり私の体が目的なのかと思ったよ」
核心に迫るような事を言って琥珀は少し無邪気に笑って見せた。
少しでも相手に魅力的に写るように……少女の若さを存分に生かした反則的と言えるあどけない笑み。
これもスラム街で得た技能とさえ言える。
「じゃあ頂きまーす! お兄さんありがとー!」
そう言って琥珀はそのまま袋からおでんを膝の上に取り出す。
浮浪者が横目でこちらを確認している。
このまま巧みに自身を落としてくれるのであれば、それはそれでまた一興。その時は気持ち良く行為に及んでやろうと思う。そうでなければ、このままタダ飯を食らうだけ。
そうして琥珀が出汁を良く吸った大根を口に運んだ時、浮浪者は豹変した。
「食ったな!?」
琥珀の両肩を力強く押さえ付け、目を見開く浮浪者。
なるほど、脅迫タイプか。と琥珀は大きな溜め息を付く。はっきり言って興醒めだった。
これが一番気分を害されるやり方。それならば、あのままレディファーストに接してくれる方がまだ可能性もあったと言える。
恐らく自身の口振りからして、甘い女で無いのを何となく察したのだろう。つまらない。
琥珀はひとまず口の中の大根を飲み込むと、冷静におでんを隣に置いた。
そして浮浪者の手首を掴むと、それを力尽くで剥がす。
「食べて良いんでしょ?」
先程の少女から出たとは思えない冷たい声に、浮浪者は慌てて手を引く。そして琥珀を危険と認知してか、浮浪者はそのまま情けない声を出して逃走して行った。
その早い判断は、これまで浮浪者として生き残ってきただけはあると言える。
そうして残された琥珀はおでんを改めて膝の上に乗せると、胸の前で拳を軽く握り上機嫌に言った。
「食料げっと」