序章『それでも契約の魔法使いなの?』
「私には何が残されているの……ねぇ」
凍り付いた湖の前。そこで屈む少女の静かな呼吸が白い靄となって冷たい空気に漂う。
肌に触れる空気が痛いほどに寒い季節だった。
「私には何が……」
凍り付いた水面に反射する自身に繰り返し尋ねるが、当然答えなどは返ってこない。
ハチミツのような色のくすんだ瞳に、茶色の髪。以前の主に買って貰った深緑色のコート。
そうして、うつ向く少女に声を掛ける者が一人。
「おーい。琥珀ちゃん」
琥珀と呼ばれた少女が背後へ振り向く。
そこで琥珀が見たものは、黒い衣服に身を包む白い髪の男性だった。
「グリムソウル……。なに? 何か用?」
冬の痛い空気に負けないほどに冷たい声。
グリムソウルと呼ばれた男性はおどけるように両手を広げて返す。
「おぉ。今日はやけに機嫌が悪いな。宿が取れたから、迎えに来てやったと言うのになぁ……。あぁおじちゃん、悲しいなぁ」
悲しいと言う言葉とは裏腹に、グリムソウルの表情は笑っていた。
それに琥珀がより機嫌を悪くしながら立ち上がると、グリムソウルの横を通り過ぎて返す。
「日が上っている間は構わないって約束でしょ。それでも契約の魔法使いなの?」
それに対してゆったりとした動作で振り向き琥珀を目で追うグリムソウルは、そのまま琥珀の後を追い掛けながら言った。
「確かに俺は契約の魔法使い。けど、約束は守らない主義でね。契約とは一線引いてるのさ」
「あーそうですか」
グリムソウルを半ば無視するようにスタスタと歩いていく琥珀。しかし強気な言動に反して、琥珀は猫背になって震えていた。
その事に気が付いたグリムソウルは自身の上着を一枚脱いでは、そのまま琥珀へ被せる。
不意に感じる人の温もりに、少女は一瞬目を丸くする……が、すぐに怪訝そうな表情をして尋ねた。
「なに? 何のつもりなの?」
「寒いんでしょ?」
「別に」
「まぁまぁ。分かってるって。……もうお前はフリーレンでは無いのだから」
「それが……なによ」
「氷の部族としての力を失ったお前は、それ故に寒さを感じるはず。実際のところ……そうなんでしょ?」
「……」
琥珀は何も答えなかった。
そんな事は言われなくとも分かっている。以前は感じていた力が何も感じなかった。強い喪失感だけが残っている。
そうして沈黙する琥珀に、グリムソウルは楽しげに続けた。
「これからはこう名乗ると良いよ。……琥珀グリムソウル。俺の名前を継がせてやるよ」
「馬鹿馬鹿しい」
「そうかな? 残念だけど、本物の琥珀フリーレンは今頃ハイドラと上手くやってるんだよ? あのまま行けば、きっと結婚するだろうね。外交も良い感じらしいよ? なにやらアクア領と同盟を結んだとか」
「だからなに……?」
琥珀のその言葉は怒りを含んだものだった。
しかしグリムソウルは、それでも何一つ変わらない態度で返す。
「だーかーら。今の琥珀ちゃんには名字が存在しない。悲しい事に君の魔法陣からも、そのデータが抹消されている。今の世の中、名字が無いと不便だろう?どこへ行っても、その事に付いて追及される。だから俺の名字を上げるよ。後は琥珀ちゃんがそれを認めるだけで、魔法陣に自動登録されるだろうからさ」
そこで足を止める琥珀。そして視線をグリムソウルから逸らしてしばらく考え込んだ後、改めてグリムソウルを睨みながら返した。
「……分かった」
快諾ではない。渋々と言った様子だった。
琥珀はそのまま、すぐに白い溜め息をついて空を眺める。日が暮れるのは早かった。気が付けば周囲は薄暗くなってきていた。
それにしても、今日から名字がグリムソウルになる事を考えると、ただでさえ暗い気分がより暗くなりそうだった。しかし、それでも名字が存在しない不便な生活の事を考えるとグリムソウルの名でも、きっとあった方が良いのだろう。と琥珀は自身を強引に納得させると、目前で薄ら笑いを浮かべるグリムソウルに冷ややかな視線を送って続けた。
「ねぇ。どうしてそんなに魔法陣の事に関して詳しいの?」