九話『本気……出してよ。ねぇ』
「はい。ちょっと痛い思いをさせてしまうかも知れない事を先にお詫びします」
「はは。君は自信家だね」
男性はそう言って眼鏡を人差し指で押すように掛け直す。
しかしどう言う訳か、次の瞬間には男性の体は宙に浮いていた。
そうして男性が理解が及ばない中、極限まで遅く感じる体感時間の中で、辛うじて捉えたのは、自分を蹴り飛ばしたであろう時雨の姿だった。
そして間も無くして図書館の壁に叩き付けられる男性。
肺の空気を一気に吐き出し、目前を改めて睨むと、そこには既に時雨が佇んでいた。
「本気……出してよ。ねぇ」
時雨の小さな手の平が、男性の頭を乱暴に鷲掴みにする。そのまま時雨は男性を地面に叩き付けた。そして、その反動で砂埃と共に浮かび上がる男性を、今度は運動場の方角へ蹴り飛ばす。
そうして地面を転がっていく男性は受け身を取って立ち上がると、腕を押さえながら言った。
「本気が見たいのならば、見せてやる。上位引力魔法『エルクシ』」
魔法名を口にして男性は時雨を指差す。
そしてその直後だった。
突如、時雨は膝を付いて屈み込んでしまう。
そうして目を丸くして男性を見上げる時雨に、男性はそこはかとなく楽しげに言った。
「重さを操作する魔法……。はは、新人君には荷が重かったかな?!」
遠目で様子をうかがう琥珀の表情に、不安が広がっていく。
対して時雨は、そんな琥珀にピースサインを送ると、口角を吊り上げて言った。
「面白い魔法だね……。例えるなら、先輩。膝カックンって知ってますか? 今、それをされた気分だよ」
満面の笑みを浮かべる時雨は、そこで見せつけるかのように跳ねて立ち上がる。そして何事も無かったかのように歩みを進めながら続けた。
「もちろんまだ本気じゃないよね? 最大出力にして貰っても良いかな?」
「君は……先程から誰に向かって口をきいている!」
両腕を上げて叫ぶように言う男性。
その瞬間、時雨の一歩が運動場の地面に食い込んだ。
それほどまでに時雨の重量が重くなっているのだろう。
しかし、それでも時雨の歩みは止まらなかった。
砂場をイタズラに踏み荒らしていく子供のように、地に次々に歪みを作りながら時雨は尋ねる。
「もう降参? それに先輩。……魔法って言うのはね。なにも直接相手を攻撃するだけの物では無いんだよ。例えば僕以外の物を重くして上から落とすだけでもそれは十分攻撃になりえる。それこそ、こんな風にねっ!」
そこで時雨は、無邪気な子供のように男性に飛び付いた。
その一瞬だけを見れば、実に微笑ましい光景に見えるだろう。
しかし実際にそこで起きた事は、小さな少年である時雨が、大人の男性を全身で踏み潰す異様な光景だった。
その痛みからか、男性は奇声を上げる。それでも、今も馬乗りになる時雨は、攻撃を止める事は無かった。
高く高く腕を振り上げて、股がる男性を冷たい視線で見下ろす。
「あと相手の魔法を利用出来たりすると上出来だよ。こんな風にね。ふふ」
時雨はそのまま冷たい笑みを浮かべて、重さの乗った腕を一気に振り落とす。
しかし、その拳は男性へは届かなかった。
それはなぜか。
「琥珀ちゃん……?」
先程まで距離を置いて見物していた琥珀が、時雨の手首を掴んで制止させたからだった。
名を呼ばれた琥珀は、そのまま時雨の腕を払って言う。
「こんなの時雨君らしくないよ」
「え……?」
それを聞いて驚いた表情を浮かべる時雨。
記憶を失った琥珀と出会って間もない事を考えると「らしくない」と言う表現はどこか引っ掛かる。
悪い言葉だが、この短期間で自分の何を知ったと言うのか。早くも、もう自分を知った気でいるのか。
戦闘前のモヤモヤはいつしかイライラに変わっていた。
心の中とは言え、キツい言葉を琥珀に投げ掛けてしまっている事に、時雨自身も不思議な思いだった。
そしてもう一つ。「らしくない」と言う言葉に思う事があった。
「……もしかして何か思い出したの?」
断片的に何かを思い出していれば、今の琥珀の反応にも納得がいく。
しかし琥珀の答えは、どちらかと言えば前者の物だった。
「んーん。そうじゃないけど……」
視線を逸らして気まずそうにする琥珀。どうやら知ったような事を言った自覚はあるようだった。
しかし考えようによってはそれも、理想の人物像であって欲しいと言う願望と一種の信頼の表れ。
時雨はそこで息を吐くように笑った。別に悪い笑みではない。むしろ安堵するような、ホッとしたかのような笑みだった。
続けて時雨は軽やかに立ち上がると、笑顔のまま男性へ手を差し出して言った。
「度々の失礼な発言、申し訳ございません。それも僕の本気だったのです。そうして演技をして相手の動揺を誘うのも、一つ作戦ではありませんか?」
そこで時雨は、表情をうかがうように、一瞬だけ横目で琥珀を確認する。
「負けたよ。まったく」
そんな時雨に先に返事をしたのは、男性だった。
時雨の手を掴み、そのまま起き上がる。
「こちらこそすまない。君の言う通り動揺していた。それこそ、さっさと魔法を解除すれば良かった事に気が付かないほどにね。……それにしてもハイドラの力とはこれほどに強力な物なのか……」
話の後半はもはや独り言のようだった。
そこへ返事をしたのは時雨では無く、なぜか得意気な表情を浮かべる琥珀だった。
「時雨君はハイドラとしての力は使ってませんよ。今のは時雨君が努力で身に付けた実力です。私まで名演技に騙されましたもん」
微笑む琥珀。
男性も釣られて笑顔を浮かべる。
「そうか。大したものだ。だけど、ハイドラとしての力かどうかを判断出来るなんて、君達は昔からの仲だったのかい?」
「それは……」
琥珀は言葉を詰まらせる。
琥珀自身も自分の発言が疑問だった。
なぜ時雨がハイドラとしての力を使用していないのが分かったのか。
記憶こそ失われてしまったが、きっと感じる物はあったのだろう。
そう納得させて琥珀は言った。
「仲良かったに決まってるじゃないですかっ! ねっ! 時雨君っ!」
「そ、そうだね!」
見つめあって頷き合う二人。
男性も微笑むと、自らの腰を軽く叩いて言った。
「本来私は保安機関の治療所で働いているんだ」
「え……。そうなんですか!? ではどうして今日は……」
「新人に怪我をさせてしまった場合、いち早く治療してやれるだろう?まぁ、今回は自らの傷を手当てする事になったけどね」
「す……すみません」
「謝る事じゃないよ。誇る事だ。上には、良いように報告しておくよ」
「あ、ありがとうございます」
頭を下げる時雨をよそに、男性はこの場を去っていく。
そして手を振りながら言った。
「では今日の所は解散だ。……あ、そうそうそれと……私はあまり現場には出向かないからね。たまには遊びに来てくれたまえよ」
「はい!」
男性の背中に向けられる時雨の声。
……しかし時雨と琥珀には見えない男性の表情は、激しく歪んでいた。そして漏らすように呟いた。
「いつか殺してやるから……」