八話『てっきりナンパされて居るのかと思ったよ』
「琥珀ちゃん!」
そう言って姿を見せたのは、白い服装に着替えている時雨だった。
男性はそんな時雨を睨んで言う。
「図書館では静かにしたまえ」
「す、すみません……」
「ふむ。君達は知り合いだったか。先に運動場に行くから、すぐに向かうように」
咳払いをしてこの場を去って行く男性の背を見届け、琥珀は時雨に小声で尋ねる。
「時雨君どうしたの?汗かいてるけど……。それに待ち合わせの時間にはまだ早いよね……?」
そのまま琥珀は小さなハンカチで時雨の汗を拭っていく。
「……さっきの人に何かされた?」
「魔法の事に付いて少し教えて貰っただけだよ……? 怖い人なの……?」
「そっか良かった……。あの人は今から僕の実力を図ってくれる先輩なんだけど……あまり良い話を聞かなくて……」
「そ、そうなの……?」
「うん……。まぁ、あくまでも噂だし根拠も証拠も無い話だから……。それに陰口みたいなのは好きじゃないからこれ以上は言わないけど――」
時雨はそこで険悪になっていく雰囲気を誤魔化すように、笑って言った。
「――琥珀ちゃんも気を付けてね。てっきりナンパされて居るのかと思ったよ」
「ち、ちがっ! ぁ……!」
大きな声を出してしまった事に、照れながらも琥珀は口を押さえながら周囲を見渡す。
「良かった」
そんな様子の琥珀を見て、時雨は笑って呟いた。
琥珀の照れるその表情から、険悪な雰囲気は回避出来たようだった。
その事にひとまず安堵する時雨。そして、そのまま運動場に向かいながら続けた。
「取り合えず僕も行かなくちゃ。後でゆっくりデートしようねー」
「な、何言ってるの……!」
照れ続きの琥珀を背後に、笑顔で手を振る時雨は運動場の方角へ消えていった。
あの人は怒らせないほうが良いよ。それが他の先輩に聞いたアドバイスだった。
あの人とは勿論、目前で立っている眼鏡の男性。……今も束ねられた黒い長髪を払って不敵な笑みを見せている。
時雨は運動場の土の上で靴の先を何度か叩き、小さく跳ねて言った。
「本当に本気でいって良いのですね?」
「あぁ、勿論。新人君に遅れを取る私では無いよ」
今の時雨には、なぜか蟠りがあった。もっと言うと、もやもやと言った感情。
不審に思う人物が琥珀に接触しようとしていた事によるものなのかどうかは分からない。ただ分かるのは、ハイドラの名で自分が疑われたように、そのハイドラに仕えていた琥珀にも、等しくその疑いの目が掛かっている事だった。
そして時雨を悩ませる事がもう一つ。それは、これから行われる力比べに、もし勝ってしまった場合……あの良い噂の聞かない男性の逆恨みを買ってしまうのでは無いかと言う心配だった。
もっとも簡潔な解決法は負けた振りをする事だろう。それは理解している。しかし、好きでも無い人間の為にそこまで出来るほど、自分が大人で無い事もまた理解していた。
深呼吸をして、少し離れた場所で見学する琥珀に視線を送る時雨。
そして自答はすぐに出た。
「そうですね。これは僕の力を図る為のもの……。全力で無いと意味が無いですよね」
勝ったら勝ったで負けたら負けた。出された物は実に単純明快な答えだった。
それに保安機関で適切な仕事を貰うためにも、自分の実力はきちんと示すべきだと時雨は判断したようだ。
そうして男性は構えを取る。
「そうだ。掛かって来い」
「はい。ちょっと痛い思いをさせてしまうかも知れない事を先にお詫びします」
「はは。君は自信家だね」
時雨は駆け出した。