五話『私の女としての価値は子供が産める事しか無いみたいなのです。』
「ただいまー……って言っても誰も居ないかー」
夕暮れの時。赤い光が差し込む薄暗い部屋へ、時雨は靴を脱ぎながら言った。
ひとまずちゃぶ台の前へ座る。その瞬間、歩き疲れた足が体重から解放される快感が、ゾワッと脳天に伝わる。
「はぁ、疲れた」
そこで大きく一息付く時雨。
そんな時雨に遅れて返事する者が居た。
「おかえりぃ~」
その声は上手く呂律が回っておらず、声の主が寝起きだと言う事がすぐに推測出来る。
そしてその聞き慣れた声に、時雨は思わず苦笑いを浮かべて返した。
「もう、琥珀ちゃん。僕の部屋で一日中寝てたの?」
声の主である琥珀は、奥のさらにもう一つ暗い部屋から、眼を擦りながら姿を現す。
「ん、寝てた。だってすぐに帰ってくると思ってたもん。でも全然帰って来てくれないから、退屈過ぎて……」
そこで琥珀は腕を伸ばし大きな欠伸をしてから続けた。
「今日は面接だけだったのに、時間掛かったんだね」
「そうなんだよ。ハイドラの名前が色々と邪魔をしてね……。でも、明日から保安機関で働かせてくれる事になったよ!」
「おぉー合格おめでとうー」
琥珀はちゃぶ台を挟んで時雨の向かいに座る。
胡座をかいてボサボサの髪に指を通すその姿は、所謂だらしない格好と言わざるを得ない。が、警戒の欠片も感じさせないその格好こそが、今の時雨には癒しだった。
信頼してくれている。好いてくれている。一種の快感に近いそんな思いと感覚が、時雨を満たしていった。
「ありがとう。やっぱ一人じゃないって安心するよ」
「ん。そうね。私もそう思う」
琥珀の顔はまだ寝惚けて居るが、その表情はうっすらと笑顔だった。
時雨は思わず琥珀から視線を逸らして尋ねる。
「晩御飯どうしようか」
そして何故か琥珀も、時雨から視線を逸らして呟いた。
「肉じゃが……しか、作れない……なんてー……」
「え!? そうなの!?」
「だだだって! 肉じゃがの記憶だけしかないんだもん!!」
驚く表情をする時雨に、琥珀は思わず立ち上がって言った。
しかしそこで、空気が抜けたようによろめいてしまう。
「だ、大丈夫!?」
咄嗟に琥珀の肩を掴んで表情をうかがう時雨。
呆然とする琥珀は、漏らすように呟いた。
「私の……記憶……? メイド長……?」
「メイド長。料理を教えて下さい」
「……?? どうしたの急に」
「私の女としての価値は子供が産める事しか無いみたいなのです。なのでせめて、一品だけでも簡単な物でも良いから作れるようになりたいのです」
「そう言う事……まぁ、それなら……肉じゃがとかどうかしら?」
「肉じゃが……。私に出来るでしょうか……」
「そうか……それで私は肉じゃがを……」
「……何か思い出したの?」
「メイド長が死んでいたのは私の仕えていた屋敷だったんだね……」
時雨の質問を無視するように、琥珀は呆然と呟いた。
そんな琥珀の両肩を強く掴んで時雨は心配する。
「大丈夫? しっかりしてよ! メイド長が死んでいた? ロゼちゃんの事……?」
「ロ……ゼ……。ごめん、今日は部屋に戻って休む……」
そこで琥珀はふらふらと玄関へ向かって行く。そして扉を開けながら続けた。
「……保安機関、明日から行くんだよね? ……怪我しないようにね。……じゃあ、おやすみ」
金属の扉が閉まる重い音が静かに響く。
そうして時雨は誰もいなくなった玄関へ呟いた。
「うん……おやすみ」