十三話『あぁ……! 血……。僕の血……!』
ハイドラ。と言うのは少女と先に契約を結んだ少年の苗字だった。
その少年の事を兄と呼び、侵入と言うよりはもはや乗り込んでいると言っても過言でない時雨は、その少年の弟と言うことになる。
「あなたは何が……したいのですか?」
兄弟で仲睦まじくと言った様子には見えない。
今も血の跡を残して時雨の後を追う少女は、口から血をだらしなく流して聞いた。
「お兄ちゃんを殺しに来たんだよ」
さらっと言って見せる時雨。
ふざけるなと少女は思う。物心がついた時から既に肉親が居なかった少女は、その発言が許せなかった。
孤独を知り、孤独に生き、家族の暖かさなんてものは生涯で一度も経験した事など無い。
自分の世話を買って出てくる奴が居たのは居たが、そこにはきちんと見返りを求められ、無償の愛なんてものが無い事を知った。
もう一発くらい殴ってやりたい。
少女は拳を握ろうと力を入れるが、やはり体は言う事を聞いてくれなかった。
そこへ聞き慣れた声がする。
「俺の屋敷で何をしている?」
不意に前方へ視線を向けると、廊下の壁に背を預ける少年が不機嫌そうな表情をしていた。
こうして改めてみれば、実に似ていない兄弟だった。
桃色の髪色の弟に対して、青い髪色の兄。
体力が無くて戦闘も弱い兄に対して、自分を負かすほどの実力の弟。
少女はそこで一つ気付く。
「逃げてください!」
言葉だけは自由に発せる事が出来て良かったと思う少女。
情けない話だがこの弟に、あの兄が勝てるはずも無いと思う。
「逃げろ? それは俺に向かって言ってるのか?」
少年はそう言うと立ち塞がるように廊下の中央に立って時雨と少女を睨んだ。
時雨は楽しそうに言う。
「クソ兄貴。お前が僕に勝てる訳無いじゃん」
少年はそこで自分の頭を指差すと、少女を見て言った。
「契約に基づき命じる。横に居る俺の弟、時雨を……殺さない程度に痛めつけろ」
時雨が思わず背後を確認する。
するとそこには、また本人の意思に反して、ナイフを突き刺す少女が居た。
時雨は少女が完全に支配下にあると思っていただけに、なにも出来ずにそのナイフを腹部で受け止めてしまう。
浴びせられる帰り血に、少女は思わず閉じた瞼を開けると、目を見開いて苦痛の表情をする時雨が少女を呆然と見つめていた。
「あぁ……! 血……。僕の血……!」
時雨がふらふらと少女に歩み寄る。
「飲ませろ……。血……! 血を寄越せ……!!」
時雨がもたれ掛かるように少女に倒れ掛かる。
そうしてまた肩にかじりつこうとする時雨を、少女は突き飛ばした。
「い、いや!」
動いた! と、目の前で倒れる時雨より先に、自分の体の心配をする少女。
そこでハッとして時雨へ視線を移すと、床に倒れ込む時雨が手を伸ばして悲しそうな表情を浮かべていた。
「相変わらず気持ち悪い弟だ」
そう言って少年は時雨の頭部に靴底を乗せる。
この兄にしてこの弟あり。……どうして兄弟で仲良く出来ないのか、少女には分からなかった。
「あなた様……」
言いたい事が纏まらないのか、少女はそこで言葉を濁らせる。
少年はふらふらとして、立っている事すらもおぼつかない少女を見て、言った。
「契約に基づき命じる。……寝ろ」
少女の意識が遠退いていく。
微かに聞こえる少年が発した言葉は、時雨に向けての醜い侮辱の言葉だった。