三話『――だから苦しいの』
「それで琥珀ちゃん? どうして君は僕の部屋に居るのかな……?」
何も無かった畳の部屋に、ちゃぶ台が一つ。
そのちゃぶ台の前で時雨は尋ねた。
「だって時雨君の部屋なにも無いし、きっとご飯も無いだろうなぁ。と思って」
少女はそのちゃぶ台の上に、鍋を運びながら答える。
そしてお皿を時雨の前へ、鍋を挟んでもう一つ。最後に少女は時雨の向かいに腰掛けて続けた。
「こう言う時は素直にありがとうで良いのー」
時雨はぼんやりと鍋の中……ぐつぐつと煮詰まった肉じゃがを眺めて返事をする。
「……そうだね。ありがとう」
そして呆然としていた事を自覚して、ハッとしたように続けた。
「ごめん! ぼーとしてた! 僕ずっと何も食べてなくて! 栄養補給は病院でされた点滴だけで! あまりにも美味しそうだったからつい!」
あたふたと慌てる時雨に、少女は首を傾げて微笑む。
「君も大変だったんだね」
「……それは……そうだけど」
琥珀ちゃんの方がよっぽど大変なんだよ? と時雨は心の中で案じる。
そして疑問が一つ。
出会った時は動揺して何も思わなかったが、琥珀の体は兄の白雨に乗っ取られてしまったはずだった。にも関わらず、今も琥珀は笑顔で肉じゃがの前で手を合わせている。
何が起きているのか、まったく理解出来なかった。ただ分かる事は、契約状態が何故か解除されていると言う事で、憶測としてはなんらかの原因で琥珀が体を取り戻し、その副作用で記憶と契約を失ってしまっているという事。
いずれにしても今の時雨にそれを確かめる術は無く、ただ出来る事は目前の琥珀から情報を引き出す事だった。
「ねぇ、琥珀ちゃん」
「んー?」
「琥珀ちゃんはその……どこまで覚えているのかな? まるで生活に支障は無いみたいだからさ……」
箸を口先でくわえる少女は、きょとんとして答える。
「まったく覚えてないよ?」
「でも……こうやって――」
「――だから苦しいの」
手を広げて話す時雨の言葉を、少女は遮るように言った。
そして縮こまるように胸に手を当てて続ける。
「作った事も無い料理が自然と作れてしまって、自分が記憶を失ってる状態なんだと強く認識させられ……その癖、自分がどんな口調で話して居たかなんてまったく分からなくて……。君に変だと思われて居ないか不安で……。そして凄く孤独を感じる……」
少女の顔は自然と、うつ向いてしまっていた。
時雨がどうやってフォローしようか頭を悩ませていると、不意に少女が顔を上げる。
「気持ち悪かったら遠慮なく言ってね。……って言うか、最初に変って言われてるね」
あははと無理に笑う少女の表情は確かに微笑んでいたが、どこか悲しげだった。
時雨はいたたまれない気持ちに襲われたが、今一番その気持ちに襲われているのは琥珀だと思うと、ここで逃げる訳にはいかなかった。
「確かに……変だよ」
「……だよね」
「でも……僕の気持ちは変わってない……変わらない」
少女が首を傾げる。これで首を曲げさせるのは何度目だろうか。
時雨は奥歯を噛み締めるように続けた。
「僕が君と居たいと思う気持ちは、何も変わってない。だから……琥珀ちゃんは過去の事なんて考えず、ありのままの姿で僕と接して欲しい」
時雨が丸くなる少女の目を強く見つめる。
これも何度目だろうか。
そして少女はぎこちなく頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします……」
「うん、こちらこそ改めてよろしくね。琥珀ちゃん」
そうして視線を逸らしながら頭を上げる少女の頬は赤く染まっていた。そして横目で時雨を見つめる。
「ねぇ、時雨君と私って……どんな関係……だったのかな……?」
急によそよそしくなる少女に、時雨は笑って言った。
「実は恋人……って言ったらどうするの?」
「は、恥ずかしい……かな。……でも違うんだよね……?」
「うん、残念ながらね」
時雨のにやにやとした笑みは止まらない。
そこで顔を真っ赤にさせる少女は、両手を上げて言った。
「もー! 茶化しすぎ!」
「ごめんごめん。けど嘘を言ってるつもりはないよ?」
「うぅ……」
そこで黙り込む少女。
しかしすぐに首を左右に振って続ける。
「じゃあ質問良いかな!」
「なーに?」
「別に過去に囚われて居る訳じゃ無いけど、純粋に気になって……。私って時雨君と話す時はどんな口調だったのかなー? っと思って」
「んーと……敬語、かな?」
そこで、カタン。と音を鳴らしてちゃぶ台に落ちたのは少女の握っていた箸だった。
「目上の人だったの……? ですか……?」
時雨は手を振って答える。
「えーと……違うよ。そう、成り行きでそうなってただけ。だから敬語なんて使わないでね。分かった?」
「ん、分かった」
コクコクと頷く少女に時雨は微笑む。
そして肉じゃがに箸を伸ばしながら言った。
「じゃあ頂きまーす! 僕もうお腹ペコペコだよ!」